2022/05/05

柳川・沖端水天宮祭

沖端(おきのはた)水天宮は、稲荷宮・祇園社・水天宮の三神を祀り、地元では「水天宮さん」と親しまれています。

20220504b沖端は、平家の落人が開いた港町で、江戸期には藩の舟小屋(造船所)がありました。

毎年5月3~5日に行われる水天宮祭では、水難除けと安産を祈願して、文化文政期の祭礼形式そのままに、六艘の舟で舟舞台(三神丸)を造り、掘割を上り下りしながら芝居や囃子が奉納されます。

柳川出身の詩人・北原白秋は、詩集「思ひ出」の中で、次のように述懐しています。

「まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸(さんじんまる)の一部をふと學校がへりに發見した沖ノ端の子供の喜びは何に譬へよう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廢れかけた舟舞臺には櫻の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日となれば粹な町内の若い衆が紺の半被に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替え、日を替ゆるたびに歌舞伎の藝題もとり替えて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歡を盡く…」

今年はコロナ禍で3年ぶり、規模を縮小しての催行とか。子どもたちのお囃子を後にして、北原白秋の生家へ向かいます。

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2018/05/20

匝瑳・八日市場東照宮例大祭

匝瑳市八日市場で行われた東照宮例大祭を撮影。

20180520八日市場東照宮は、慶長九年(1614)、東金に鷹狩に出かけた家康公の愛鷹が行方知れずになり、当地にあった医王寺の松(お鷹の松)で見つかりました。この由来を聞いた日光山の天海僧正が、寛永九年(1632)、松の根元に東照大権現を勧請したのが始まりと伝わります。
平成4年、市道の拡張に伴い現在地に社殿が移りました。

毎年5月の例大祭では、高張提灯と大榊を先頭に、独特の祭り囃子と「あんりゃあどした」の掛け声も勇ましく、神輿が萬町区内を練り歩きます。

【この日の進行スケジュール】
11:30~ 神事式典
13:00~ 神輿発御
東照宮→河野木材(休憩)→JR八日市場駅→匝りの里(お囃子披露)→八重垣神社→門前十字路(休憩)→東照宮
17:00ころ 神輿還御

【メモ】
八日市場の祭りといえば、大きな担ぎ太鼓とお囃子が特徴。神輿の渡御に合わせて、砂切、馬鹿囃子、早馬鹿、揉み太鼓などが奏でられる。特に揉み太鼓の早調子は一度聞くと忘れられない。神輿は大神輿と子供神輿の二基が出る。この日は匝りの里まで神輿に同行。
見物人は地区の皆さんが多数、他にカメラマンはなし。神社に駐車場なし。久々の神輿祭りに元気をもらって帰路についた。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2017/12/27

横芝光町・成田山御本尊上陸地

横芝光町・尾垂浜で行われた「成田山御本尊上陸聖地報恩法会」を撮影。

20171227尾垂浜は、成田山新勝寺の本尊・不動明王が上陸した地です。
平将門の乱(939)の時、朱雀帝の命により、寛朝僧正が不動明王像を奉じて海路で房総に入り、公津(成田)の地で将門調伏の護摩祈祷をしたのが、新勝寺の始まりです。

ちなみに、調伏祈願の満願日に将門が討ち取られたことから、今でも平将門を祀る神田明神の氏子は新勝寺に参拝せず、新勝寺の門徒は神田明神に参詣しないそうです。

上陸地には、開山1060年祭(1998)で波切不動尊像が建立され、毎年5/27と12/27、新勝寺の僧侶が巡錫して上陸聖地報恩法会が行われます。

【この日の進行スケジュール】
11:00~ 法会開始
洒水加持→読経→参拝者焼香→法話
11:20ころ 終了

【メモ】
鳥居前~不動明王像まで練り行列で入る。像前で儀式と焼香が行われ、導師の法話があり、20分ほどで終了。法話の内容は、お不動さまの教えの他、地元の人々による上陸地への奉仕活動に対する謝辞、来年は開山1080年祭で当地では4/22に稚児行列が予定されていることなど。
参拝者は地元の皆さんが十数人、カメラマンはなし。自分も1年間の感謝を込めて焼香。終了後、下げた供物のお裾分けで果物まで頂き、恐縮した。上陸地に駐車場なし(付近にスペースあり)。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2017/05/27

松戸・東葛雅楽会の雅楽

松戸市・松戸神社で奉納された東葛雅楽会20周年記念の雅楽を撮影。

20170527雅楽は、大陸から伝来した楽器や舞が日本独自の発展を遂げ、平安中期に完成した古典音楽です。朝廷や貴族社会で奏された正統の音楽として、「俗楽」と区別されました。

この日は、東葛雅楽会の設立20周年記念で、管弦、浦安の舞、舞楽が神前奉納されました。

東葛雅楽会は、平成8年、東葛地区の神職で結成され、県内では松戸神社のほか、廣幡八幡宮(柏)や玉前神社(一宮町)などで奉仕しています。

【この日の進行スケジュール】
17:00~ 管弦(双調音取→武徳楽→胡飲酒破)
17:35~ 神楽(浦安の舞)
17:50~ 舞楽(抜頭(右方))
18:05ころ 終了

【メモ】
管弦とは、三管(笙・篳篥・龍笛)両弦(琵琶・筝)三鼓(鞨鼓・太鼓・鉦鼓)で奏する器楽合奏。篳篥が主旋律を奏し、龍笛が旋律を装飾し、笙が和音を付ける。神楽は、日本固有の歌舞に外来の篳篥を取り入れた国風歌舞で、今回は「浦安の舞」を披露。舞楽は、大陸系(唐楽)が赤系の装束で舞う「左方」、朝鮮半島系(高麗楽)が緑系の装束で舞う「右方」と呼ばれる。今回の演目「抜頭」は、天平年間にベトナムの僧が朝鮮に伝え、猛獣を討って歓喜する姿を表す。なので右方なのに赤系の装束。里神楽系を見慣れた目には、舞楽特有の動きがとても新鮮だった。
松戸神社の神楽殿は、昨年建て替えられ、杉戸絵(獅子に牡丹)は市有形文化財。見物人は30~40人ほど、カメラマンは3人。神社に駐車場あり。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2013/05/04

鴨川・嚴島辨財天本開帳

鴨川市磯村・嚴島辨財天で行われた60年に一度の癸巳年本開帳を撮影。

20130504_2【現地案内板の説明】
「当磯村弁財天の由来は、平安朝時代、仁明天皇の承和年間(西暦八百四十年頃)唐より帰朝した慈覚大師が当地巡錫の折、弁財天女のお姿を自作有りて此処に安置したと伝えられ、往事は浮島弁財天と云われ、房総屈指の漁村として、繁栄の名を歌われた磯村漁民の祖先が、大漁万作、海上安全、開運繁栄のお守り神として崇敬して、今日に残した古来からの伝統的な祭祀の行事が伝承されている事は広く知られているところです。
以来千有余年の永い歳月の間、台風や大津波や大地震など、幾多の天災地変に遭遇して参ったのであり、現在の弁財天尊像は、江戸時代、徳川吉宗の享保十五年(1730年)その頃今より二百五十一年前御宮方大仏師杢之進の謹作された鎌倉時代の様式で、福徳円満なお姿にして、一面八臂の珍しい御座像と云われています。八つの手にそれぞれ右手には鉾矛、棒鎰箭、左手には鉾矛、輪宝、宝弓、宝珠を十五人の童子と牛馬を従え、頭に宝冠をいただきそのなかに白蛇がいてお守りする像であり、本格的な気品の高い彫像とされています。
当神社大祭は、癸巳年の本開帳、癸亥年の中開帳がそれぞれ六十年毎に行われ、当日は岸より島までの海上に船橋が架けられ、多くの人々が参拝される伝統行事として、受け継がれています。
なお、例祭は一月十四日十五日の両日に行われます。」

【本開帳の進行スケジュール】
5月4日
7:30~ 祭典(嚴嶋神社)
8:30~ 御魂遷し(弁財天輿、天王様、八雲神輿東西)→漁協御旅所へ
10:00~10:30 記念式典(漁協ステージ)
11:00~18:00 町内巡行:弁財天輿
15:00~17:00 弁天島巡行:八雲東西・川口・熊野の4神輿、担ぎ屋台
19:30~21:00 各社巡行(漁協広場周辺)

5月5日
9:00~16:00 町内巡行:弁財天輿
13:00~16:00 町内巡行:八雲西・川口・熊野の3神輿、担ぎ屋台新
(八雲神輿西・担ぎ屋台新は神社坂下で留め置き)
16:00~17:00 弁天島巡行:弁財天輿、天王様、八雲東・川口・熊野の3神輿
17:00~ 御魂返し(還幸祭)
17:30~18:30 町内回り:八雲神輿東、担ぎ屋台旧(川口・熊野の2神輿は帰社)
19:00~19;30 宮入:八雲神輿西、担ぎ屋台新
20:30~ 宮入:八雲神輿東、担ぎ屋台旧

【メモ】
今年は60年目の癸巳年本開帳。年齢的に次の機会は(たぶん)ないので、撮影テーマは開帳時にしか見られない舟橋と神事、女衆が担ぐ弁天輿、新旧担ぎ屋台の3つに絞った。
5月3日朝6時から、舟橋の設営作業を見学。4日、午前は神事と弁天輿の町内巡行、午後は新しくなった担ぎ屋台を中心に撮影。
この日は主催者も驚く人出で(弁天拝観は3時間半待ちで断念)、カメラマンもTV各局や報道のほか凄い数。漁協広場は休憩場所も露店も足りず、強い日差しの中を空腹で歩き回ることに…。体力を消耗してモチベーションが続かなかった。
駐車場は鴨川マリーナの臨時P利用(鴨川小校庭は祭り関係者、鴨川マリーナは出店者、漁港は来賓、青年の家はバス専用)。公式撮影で忙しい中、色々教えて頂いたA写真館のSさん、ありがとうございました。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2012/05/26

香取・おらんだ楽隊

水郷佐原水生植物園の「水郷佐原あやめ祭り」で行われたおらんだ楽隊を撮影。

20120526旧佐原・扇島地区に伝わる神楽(=お囃子)で、西洋風の出で立ちからおらんだ楽隊と呼ばれます。

もともと扇島地区の人々は、香取神宮の式年神幸祭の船渡御で御座船を曳く引舟隊の神楽を務めており、「香取神宮御座船引船隊」が正式な名称です。

現在のような形になったのは、江戸末期~明治初期ころで、神楽に洋風の音楽を取り入れて演奏したのが始まりとも、戊辰戦争で負傷した水戸藩官軍の鼓笛手が、当地の病院に入院中に伝えたとも云われています。

赤い陣羽織にぶっさき袴、手甲と脚絆をつけ、頭に鉢巻きという出で立ちで、旗を先頭に行進しながら演奏します。楽器は洋式の大太鼓・小太鼓と篠笛で、曲目は「なみあし」「はやあし」「かけあし」「がいせん」の4曲を歩調に合わせて奏でます。

扇島地区の農家の長男が伝承し、現在は扇島神楽隊の皆さんが伝統を守っています。時代の変化を取り入れた芸能として貴重な存在で、県無形民俗文化財です。

【この日の進行スケジュール】
10:00~10:15ころ おらんだ楽隊(行進)
13:30~14:00ころ おらんだ楽隊(サッパ舟~行進)

【メモ】
この日は「あやめ祭り」オープニングでの公開。東関東道を潮来ICで降り、10時15分に現地入り。公式サイトでは午前の部は10時半からとなっていたが、10時からに変更され終わったところだった。午後の部はゲート前からサッパ舟で佐原囃子を奏でながら園内水路を1周半して、園内奥の船着場に上陸。そこから「なみあし」でゲートまで行進して終了。香取神宮神幸祭でも「かけあし」は聞いたことがないので、大太鼓の奏者に尋ねたところ、「大きな楽器を抱えて駆け足するのは大変で、滅多にやらない」とのこと。なるほど昔と違いメンバーが高齢化しているので無理もありません。この日の観光客は少な目で珍しそうに眺めていた。カメラマンは3人。駐車場あり。あやめは一分咲き?で見ごろはまだ先。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2012/05/19

秩父・秩父歌舞伎正和会

平成秩父座で行われた正和会の秩父歌舞伎を撮影。

20120519_4秩父は江戸期に生糸の集積で栄えた地域で、江戸の文化が伝わり、すでに江戸中期には盛大な秩父夜祭りや屋台芝居が演じられていました。

秩父歌舞伎は、江戸後期に初代板東彦五郎が修得して帰郷し、近郷の村人に教えたのが始まりです。
昭和初期まで近郷各地で盛んに演じられていましたが、その後は衰退。戦前の「出征遺家族慰問の夕べ」を最後に戦時中は中断。昭和22年、かつて演じた人々が正和会を結成し、伝統の秩父歌舞伎を復活させました。
地芝居では珍しく、週2回の稽古を欠かさず芸を磨き、襲名披露も行っています。

正和会の秩父歌舞伎は、秩父市無形民俗文化財に指定されているほか、国重文の「秩父夜祭りの屋台芝居」(12月3日)で屋台の張り出し舞台でも演じられます。

【この日の進行スケジュール】
15:10~16:20 「絵本太閤記-十段目尼崎閑居之場」

【メモ】
正和会の第30回定期公演は、初の掛け舞台「平成秩父座」で行われた。 「絵本太閤記-十段目尼崎閑居之場」は、謀反を起こした光秀の閑居が舞台。前段は、光秀の子・十次郎が初菊と祝言を上げて出陣する。中段は、泊めた旅僧の正体が真柴久吉と知った光秀が、久吉と間違えて母を竹槍で突く。そこに敗走した十次郎が戻り、光秀に戦況を伝えると自害して果てる。後段は、旅僧姿の久吉とその家臣・正清が現れ、光秀に戦場での再開を約して去る。役者は素人と思えないハイレベルな演技。
桟敷席は多数の見物人で埋まり、その後方にはカメラマンの三脚と脚立がずらりと並ぶ。当日は炎天で、レンズ鏡筒が熱くなるほど。そのせいかVRがしばしば誤作動。機材にも暑さ対策が必要だった。

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秩父・貴布祢神社神楽

平成秩父座で行われた下吉田井上・貴布祢神社神楽を撮影。

20120519_3下吉田井上地区の貴布祢神社に伝わる神楽で、江戸後期の文化年間に、神官が村人に江戸で伝習させたのが始まりと伝わります。

岩戸神話系の神楽で、一神一座の三十六座が伝わり、貴布祢神社の春祭(4月3日)と秋祭(10月3日)に境内の神楽殿で奉納されています。

秩父地方で最古の神楽で、特に「翁の舞」、「猿田の舞」は芸能的に高く評価されています。現在は、貴布祢神社保存会の皆さんが伝統を守っています(埼玉県指定無形民俗文化財)。

【この日の進行スケジュール】
14:00~ 神楽「大蛇攻め」
14:40ころ 終了

【メモ】
こちらも平成秩父座での協力出演。演目は、神明社神楽と同じヤマタノオロチ退治を描いた「大蛇攻め」。ストーリーは、老夫婦と櫛名田比売が嘆いていると須佐之男命が現れる→話を聞いた須佐之男はオロチ退治のため酒瓶を用意する→オロチが比売を食べるか酒を飲むか迷う→結局、酒を飲んで酔っ払う→オロチを討ち、草薙の剣を比売に与えて夫婦になる→大幣束を手にめでたく舞う。同じ演目でも伝承地域ごとに内容が違い、面白い。保存会長さんの解説がユニークで、満席の桟敷を前に「地元の祭りでは観客は数人。こんな大勢の人に見てもらえてうれしい」と挨拶。写真は、最高齢の82歳の演者による翁。燻し銀のような演技が見事でした。

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秩父・萩平子ども歌舞伎

平成秩父座で行われた萩平子ども歌舞伎を撮影。

20120519_2萩平地区には、農村歌舞伎が盛んだった明治期に建てられた茅葺き屋根の歌舞伎舞台が現存します(埼玉県有形民俗文化財)。

昭和初期まで興行芝居が行われていましたが、戦後は使われることもなく荒廃。平成3年、秩父歌舞伎正和会の公演で60年ぶりに村歌舞伎が復活しました。
地元有志が萩平歌舞伎舞台保存会を結成し、歌舞伎と舞台の保存伝承に取り組んでいます。

定期公演は毎年10月ですが、この日は平成秩父座での公演。子どもたちによる歌舞伎2座(吉例曽我対面-工藤館之場、青砥稿花紅彩画-稲瀬川勢揃之場)が演じられました。

【この日の進行スケジュール】
13:00~13:50 「吉例曽我対面-工藤館之場」
14:40~15:10 「青砥稿花紅彩画-稲瀬川勢揃之場」

【メモ】
「吉例曽我対面-工藤館之場」は、正月の工藤祐経邸が舞台。祝賀に参じた朝比奈三郎が、工藤に曽我兄弟を対面させる。ところが、曾我兄弟にとって工藤は親を討った敵。血気にはやって工藤に仇討ちを迫る曾我兄弟だが、工藤は「富士の巻き狩の総奉行を務める大事な身。役目が終わったら討たれてやろう」と約束し、御狩場の通行手形を年玉に渡して幕。役者は小学生8人、中学生9人、高校生2人。
「青砥稿花紅彩画-稲瀬川勢揃之場」は、桜咲く稲瀬川が舞台。捕手に追い込まれた5人の盗賊が、意地と粋を見せて大見得を切る名場面。役者は小学生6人、中学生4人。
歌舞伎独特の抑揚をつけた長い台詞を、間違えることなく演じきった子どもたちに会場は拍手喝采。

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秩父・神明社神楽

平成秩父座で行われた荒川白久・神明社神楽を撮影。

20120519荒川白久地区に伝わる神楽で、江戸後期の安政年間に上州から白久に伝えられました。

岩戸神楽系で十七座が伝わり、年3回(3月第二日曜・7月最終日曜・11月23日)、鎮守・神明社の神楽殿で奉納されています。

当時、白久村で盛んだった村歌舞伎芝居の影響を受け、神楽の舞法が歌舞伎的だったり、神楽面に隈取(くまどり)があったりと、独特です。
この神楽は、神明社神楽保存会の皆さんが伝統を守っています(秩父市指定無形民俗文化財)。

【この日の進行スケジュール】
11:40~ 神楽「蛇打(じゃうち)座」
12:20ころ 終了

【メモ】
道の駅ちちぶの隣に作られた掛け舞台「平成秩父座」で行われた秩父歌舞伎正和会の定期公演に協力出演。演目は、須佐之男のヤマタノオロチ退治を演じる「蛇打座」。ストーリーは、老夫婦のもとにオロチの使いが来て櫛名田比売を連れて行く→旅の須佐之男命が現れ、話を聞いて比売を取り戻す→オロチ退治のため、酒瓶に眠り薬を混ぜて仕掛ける→オロチが酒を飲んで寝込んだところを退治する→比売とめでたく夫婦になる。約40分の五人舞。房総の十二座神楽と趣きが違って、えらく新鮮だった。写真は、櫛名田比売の舞い。
※関連記事は,写真ブログ「Perforation?」に掲載。

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