柳川・沖端水天宮祭
沖端(おきのはた)水天宮は、稲荷宮・祇園社・水天宮の三神を祀り、地元では「水天宮さん」と親しまれています。
沖端は、平家の落人が開いた港町で、江戸期には藩の舟小屋(造船所)がありました。
毎年5月3~5日に行われる水天宮祭では、水難除けと安産を祈願して、文化文政期の祭礼形式そのままに、六艘の舟で舟舞台(三神丸)を造り、掘割を上り下りしながら芝居や囃子が奉納されます。
柳川出身の詩人・北原白秋は、詩集「思ひ出」の中で、次のように述懐しています。
「まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸(さんじんまる)の一部をふと學校がへりに發見した沖ノ端の子供の喜びは何に譬へよう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廢れかけた舟舞臺には櫻の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日となれば粹な町内の若い衆が紺の半被に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替え、日を替ゆるたびに歌舞伎の藝題もとり替えて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歡を盡く…」
今年はコロナ禍で3年ぶり、規模を縮小しての催行とか。子どもたちのお囃子を後にして、北原白秋の生家へ向かいます。
八日市場東照宮は、慶長九年(1614)、東金に鷹狩に出かけた家康公の愛鷹が行方知れずになり、当地にあった医王寺の松(お鷹の松)で見つかりました。この由来を聞いた日光山の天海僧正が、寛永九年(1632)、松の根元に東照大権現を勧請したのが始まりと伝わります。
尾垂浜は、成田山新勝寺の本尊・不動明王が上陸した地です。
雅楽は、大陸から伝来した楽器や舞が日本独自の発展を遂げ、平安中期に完成した古典音楽です。朝廷や貴族社会で奏された正統の音楽として、「俗楽」と区別されました。
【現地案内板の説明】
旧佐原・扇島地区に伝わる神楽(=お囃子)で、西洋風の出で立ちからおらんだ楽隊と呼ばれます。
秩父は江戸期に生糸の集積で栄えた地域で、江戸の文化が伝わり、すでに江戸中期には盛大な秩父夜祭りや屋台芝居が演じられていました。
下吉田井上地区の貴布祢神社に伝わる神楽で、江戸後期の文化年間に、神官が村人に江戸で伝習させたのが始まりと伝わります。
萩平地区には、農村歌舞伎が盛んだった明治期に建てられた茅葺き屋根の歌舞伎舞台が現存します(埼玉県有形民俗文化財)。
荒川白久地区に伝わる神楽で、江戸後期の安政年間に上州から白久に伝えられました。