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2025/08/19

小国・北里柴三郎博士旧邸

新千円札の顔となった北里柴三郎博士の旧邸(熊本県小国町)を訪ねました。

Dsc_7405北里柴三郎博士(1853-1931)は、山深い旧小国郷北里村の庄屋の家に生まれ、熊本医学校で学びました。

明治8年、東京医学校(今の東大医学部)に進学。卒業後は内務省衛生局に入り、ドイツへ留学(33歳)。ドイツでは「細菌学の父」と呼ばれたコッホ博士に師事し、破傷風菌の純粋培養に成功。世界で初めて血清療法を発見しました。

明治25年に帰国し、福澤諭吉の援助で「伝染病研究所」を設立(39歳)。のち「国立伝染病研究所」に移管され、所長に就任(46歳)。大正3年、臨床と研究を分離する国の方針に猛抗議して辞任。自ら「北里研究所」を設立(61歳)し、臨床重視の姿勢を貫いた。

その後は、慶応義塾に医学科を創設し初代医学科長を無償で引受け(諭吉に対する恩返し)、日本医師会を創設するなど、日本の公衆衛生の楚を築き、「近代日本医学の父」と呼ばれました。
昭和6年、東京で没(享年79歳)。

小国町の北里柴三郎記念館では、川沿いにあった生家の一部を移築し、大正5年に郷里の子どもたちのために建てた図書館「北里文庫」と賓客をもてなした「貴賓館」とともに保存・公開しています。

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2025/08/18

小国・坂本善三美術館

坂本善三美術館(熊本県小国町)に立ち寄りました。

Dsc_7381「グレーの画家」の異名をとる坂本善三(1911-1987)は、小国町出身の洋画家です。

帝国美術学校(今の武蔵野美大)で学び、東京で活動。終戦後は熊本に戻り、地元で創作活動を続けました。

当初は具象画を描きましたが、昭和32年に単身渡欧(46歳)。帰国後は、滞欧中に見た建物と色に着想を得て、グレーや黒を多用した抽象画に傾倒。

故郷の自然や風土を織り込んだ独自の抽象表現を確立し、その作風はパリで「東洋の寡黙」「沈黙の錬金術」と高く評価されました。昭和62年、熊本で没(享年76歳)。

この美術館は、平成7年(1995)に小国町が開設。古民家(明治5年築)に明るい和モダンの展示棟を組み合わせた珍しい美術館です。

広い畳敷の展示室で抽象的なアートを鑑賞するという、非日常な体験が新鮮でした。また、若い芸術家に発表の場を提供したり、染色のワークショップなど地域のコミュニケーションの場にもなっています。

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2025/08/17

小国・鍋ヶ滝

鍋ヶ滝(熊本県小国町)を訪ねました。

Dsc_7377蓬莱川の鍋ヶ滝は、幅20m・高さ10m。繊細で美しい滝は、生茶のCMで一躍有名になり、今では人気の観光スポットになっています。

約9万年前、阿蘇山の巨大噴火は九州の中央部を火砕流で覆い尽くしました。冷え固まった溶結凝灰岩が、広範な火砕流台地を形成。

この滝も、もとの川の流れが火砕流で埋められ、硬い岩盤(溶結凝灰岩の層)の上を流れるようになり、流れ落ちた水が長い年月をかけて下の軟らかい地盤(砂礫層)を浸食し、今の姿になったと考えられています。

地球の壮大な息吹を感じさせ、「阿蘇ユネスコジオパーク」の一部「北外輪火砕流ジオサイト」の重要な構成要素です。

「裏見の滝」とも呼ばれ、滝裏の広い空洞は天然のミストで夏も涼しく、水のカーテン越しに見る緑の木々と渓流は美しく輝いていました。

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2025/08/16

臼杵・国宝 臼杵石仏

国宝・臼杵石仏(大分県臼杵市)を訪ねました。

Dsc_7364平安末~鎌倉期にかけて彫られた磨崖仏群(4群61体)で、すべてが国宝に指定されています。

約9万年前の阿蘇山巨大噴火で形成された「溶結凝灰岩」の岩壁に刻まれ、立体的で大型の摩崖仏が多いのが特徴とされます。

誰が何のために彫ったのかは不明ですが、一説には真名野長者が愛娘の菩提を弔うため、満月寺(廃寺)を建立し、京の仏師を招いて石仏を彫らせたとの伝承があります。
時は朝廷が失権し、源平争乱の乱れた世。人々は絶望し、来世に救いを求めて石仏に祈りを捧げたと考えられています。

石仏群は、山岳仏教の衰退で千年ほど放置され、風雨に晒されて荒廃。昭和~平成に3度の修復工事が行われ、現在はすべて覆堂で保護されています。

拝観は、一周800mの順路に沿ってホキ(崖)石仏第二群(九品の弥陀像・阿弥陀三尊像)→ホキ石仏第一群(如来三尊像・地蔵十王像)→山王山石仏(如来坐像)→古園石仏(大日如来坐像ほか)と巡ります。

写真は、最も有名な大日如来坐像(古園石仏)。13体の石仏で曼荼羅を表現。江戸期の地震で落ちたとされる仏頭も、平成5年(1993)に元の姿に修復されています。

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2025/08/15

玖珠・久留島武彦記念館

児童文学者・久留島武彦の記念館(大分県玖珠町)を訪ねました。

Dsc_7322b久留島武彦(1874~1960)は、旧豊後森藩主の孫に生まれ、少年期に宣教師の影響で児童教育に興味を持ち、関西学院で教育を学びました。

日清戦争中に従軍記を雑誌「少年世界」に寄稿。その後、児童読み物を発表。明治36年、日本で初めて口演童話会やお伽芝居(児童演劇)を開催。

欧米の童話文化に影響を受けつつも、日本の風土や価値観に根ざし、子どもたちに「善悪の判断」や「思いやりの心」を育む氏の理念は、人々の共感を呼び、氏の再話は「くるしま文学」と呼ばれて学校や家庭で広く親しまれました。

東京・青山に幼稚園を設立し、日本で初めてボーイスカウトの制度を紹介するなど、児童教育の普及にも尽力。デンマークでアンデルセンの再評価を訴え「日本のアンデルセン」と呼ばれました。

「子どもの膝の前の友達」となるべく、全国を巡り童話や児童文学を子どもたちに語り聞かせる口演活動を亡くなる直前まで続け、昭和35年に神奈川で没(享年76歳)。

「久留島武彦記念館」では、氏の生涯と業績を紹介。玖珠町では、毎年、童話碑の前で日本童話祭が開催されています。

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2025/08/14

玖珠・旧国鉄豊後森機関庫跡

久大本線の豊後森駅(大分県玖珠町)に残る旧国鉄の豊後森機関庫跡を訪ねました。

Dsc_7289久大本線(久留米~大分)は、九州横断鉄道として昭和9年(1934)に全通。現在は、沿線に日田や湯布院の観光地を抱え、JR九州の観光列車「特急ゆふいんの森」が人気の路線です。

全通当時は、蒸気機関車が客車や貨車を牽引し、中継点の豊後森駅で石炭と水を補給し、最大の難所だった水分峠を越えて大分に向かいました。

豊後森機関区は、扇形機関庫と転車台、多数の蒸気機関車を配した大規模な施設でした。戦争末期に、軍需物資を運ぶ貨物列車が米軍機の機銃掃射を受けて機関士が負傷。機関庫も米軍機の機銃掃射で助役など3名の犠牲者を出しました。当時の弾痕が扇形機関庫の裏手に残っています。

最盛期(昭和23年)には、蒸気機関車25両、国鉄職員217名が配され、町も大いに賑わいましたが、久大本線のディーゼル化で昭和46年(1971)に機関区も廃止。その後は長く放置されていたそうです。

町の有志の熱意により、平成21年(2009)、扇形機関庫と転車台が近代化産業遺産に認定。国の登録有形文化財にも指定され、玖珠町が豊後森機関庫公園として整備・公開しています。

町では、長崎本線を走った9600型蒸気機関車29612号(大正8年製)を譲り受け、平成27年(2015)から転車台の前に静態保存し、往時の機関庫の雰囲気を再現しています。

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2025/08/03

鹿児島・桜島

鹿児島湾に浮かぶ桜島(鹿児島市)を周遊。

Dsc_7265桜島は、今から約2万6000年前、姶良カルデラの陥没湾(鹿児島湾)南端に出現した火山島です。

北岳(1117m、写真左)と南岳(1040m、写真右)の複合火山で、南岳の昭和火口は盛んに噴煙を上げています。

大きな噴火は、室町期(1471)、江戸期(1779)、大正(1914)、昭和(1946)の4回が記録に残ります。

特に、大正3年1月12日の大噴火では、島の東西で集落が埋没。流れ出た溶岩は東側の瀬戸海峡(幅400m)を埋め、大隅半島と陸続きになりました。

現在、南岳の半径2kmは立入禁止エリアで、湯之平展望所(北岳4合目、373m)が立ち入ることのできる最高地点になります。

島は、一周約36km、人口は約4000人。あちこちに退避シェルターと避難港があり、島の人々は活火山と共生しています。

桜島港に近いガイダンス施設「桜島ビジターセンター」では、映像と展示で桜島の成り立ちと過去の噴火の様子を紹介。大正噴火の爪痕は、有村溶岩展望所、黒神埋没鳥居(県文化財)などに残り、火山災害の凄まじさを今に伝えています。

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2025/08/02

鹿屋・鹿屋航空基地史料館

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)を訪ねました。

Dsc_7189九州最南端の鹿屋には、昭和11年(1936)に鹿屋海軍航空隊が置かれ、戦時中は九州各地の航空隊の総司令部として機能しました。

戦局の悪化に伴ない、昭和19年(1945)10月、初めての神風特別攻撃隊が鹿屋基地から出撃。レイテ沖で米空母艦隊に突入し戦果を挙げます。

当初は各搭乗員の判断に委ねるとされた特攻は、沖縄戦が始まる昭和20年2月に第五航空艦隊司令部が置かれると、鹿屋から各基地へ命令として下されるようになります。鹿屋基地からは、桜花部隊を含め、最多の908名が出撃しました。

現在は海上自衛隊鹿屋航空基地になり、史料館が開設されています。
2階展示室には、鹿屋から出撃した特攻隊員の遺書や写真、零戦五二型(実機2機からの復原機)などを展示。戦争の実相と命の重さを今に伝え続けています(写真は、零戦の栄発動機)。
1階展示室では、海自航空部隊の活動を紹介しています。

屋外には、退役したヘリや対潜哨戒機P-2J(川崎重工製)、救難飛行艇US-1A(新明和工業製)など15機と、旧海軍「二式大艇十二型」(旧川西航空機製)を展示。この二式大艇は、終戦時に米軍が詫間海軍航空隊(香川県)で接収した31号機で、昭和54年に返還された世界唯一の残存実機です。

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