南島原・土石流被災家屋保存公園
土石流被災家屋保存公園(長崎県南島原市)を訪ねました。
雲仙普賢岳の噴火活動で堆積した火山灰は、雨が降ると岩塊や土砂とともに土石流となり、水無川流域を襲いました。
平成4年(1992)8月8~14日に発生した土石流では、深江町の多くの家屋と田畑が埋没しました。
町では、平成4年8月9日の土石流で被災した家屋を、当時の現状のまま保存。土石流災害の恐ろしさと避難行動の大切さを今に伝えています。
この地区は水無川の最下流域に当たり、最も被害が大きい所でした。被災家屋は2.8~3mの土砂に埋もれていますが、土石流の速度が緩やかだったため、倒壊せずに残ったと考えられています。また、地区の人々は同年5月の退避勧告で避難済みだったため、人的被害はありませんでした。
保存家屋は11棟(保存棟内に3棟)でしたが、倒壊の危険で屋外2棟を解体(2022)。現在は9棟が残っています。
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旧深江町大野木場地区にある大野木場小学校には児童と先生がいました。
雲仙普賢岳の噴火活動(平成2年11月17日〜平成8年6月3日)では、火口の溶岩ドームが崩落し、数百℃の岩塊・火山ガス・火山灰が一体となり山を駆け下る火砕流が頻発しました。
海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、海神の館に滞在して釣針を探し、ついに見つけた釣り針を海幸彦に返した…という神話はよく知られています。
都井岬は、元禄十年(1697)、高鍋藩主秋月氏が軍馬生産のため開いた藩牧の一つでした。
明治27年(1894)に発見され、昭和47年(1972)に閉山するまで、金40tを産出し、東洋一と称された金山です。
天正十五年(1587)、黒田如水は秀吉から豊前を拝領。前領主の宇都宮鎮房はこれを認めず、黒田氏と対立します。
江戸中期以降、中津藩は蘭学を奨励し、前野良澤、福澤諭吉をはじめ、多くの蘭方医や文化人を輩出しました。
福澤諭吉(1835-1901)は、江戸末期、大坂の中津藩蔵屋敷で下級藩士の二男として生まれました。
慶長五年(1600)、黒田氏は筑前(五十二万石)に転封。細川忠興が三十九万九千石で入ります。居城を小倉に移した後も、支城として存続を許され、元和六年(1620)、忠興の隠居城としてほぼ現在の形に改修されました。
中津藩と天領日田を結んだ日田往還。