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2025/05/20

南島原・土石流被災家屋保存公園

土石流被災家屋保存公園(長崎県南島原市)を訪ねました。

Dsc_6980雲仙普賢岳の噴火活動で堆積した火山灰は、雨が降ると岩塊や土砂とともに土石流となり、水無川流域を襲いました。

平成4年(1992)8月8~14日に発生した土石流では、深江町の多くの家屋と田畑が埋没しました。

町では、平成4年8月9日の土石流で被災した家屋を、当時の現状のまま保存。土石流災害の恐ろしさと避難行動の大切さを今に伝えています。

この地区は水無川の最下流域に当たり、最も被害が大きい所でした。被災家屋は2.8~3mの土砂に埋もれていますが、土石流の速度が緩やかだったため、倒壊せずに残ったと考えられています。また、地区の人々は同年5月の退避勧告で避難済みだったため、人的被害はありませんでした。

保存家屋は11棟(保存棟内に3棟)でしたが、倒壊の危険で屋外2棟を解体(2022)。現在は9棟が残っています。

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2025/05/19

南島原・旧大野木場小学校被災校舎

大惨事となった平成3年6月3日午後4時8分の火砕流が発生した時、Dsc_7013旧深江町大野木場地区にある大野木場小学校には児童と先生がいました。

押し寄せる火砕流に、先生は児童を誘導し懸命に避難させました。火砕流は小学校東側の水無川に沿って南に流れたため、児童と先生は無事に避難することができました。

この火砕流の後、大野木場地区は警戒区域となり、地区の住民は全避難。小学校も仮移転します。

同年9月15日午後6時42分と54分に発生した火砕流は、おしが谷を経由して西進。水無川にぶつかると、火砕流の本体は川に沿って南に向きを変え、下流へと流れました。

しかし、一緒に流れ下った数百度の熱風(火山サージ)は向きを変えることなく、真っ直ぐ大野木場地区を直撃。多くの家屋が焼失し、小学校の校舎も全焼しました。

すでに全住民が避難していたので、犠牲者が出なかったのは不幸中の幸いでした。

このとき全焼した旧大野木場小学校校舎は、地元の尽力により被災遺構として保存されています。鉄の窓枠が変形し、校庭の鉄棒がぐにゃりと曲がり、凄まじい高温にさらされた痕跡がそのまま残っています。

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2025/05/18

島原・がまだすドーム

雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」(長崎県島原市)を訪ねました。

Dsc_6949_300雲仙普賢岳の噴火活動(平成2年11月17日〜平成8年6月3日)では、火口の溶岩ドームが崩落し、数百℃の岩塊・火山ガス・火山灰が一体となり山を駆け下る火砕流が頻発しました。

特に平成3年6月3日の火砕流は、噴火を取材中の報道陣を巻き込み大惨事となりました。

5月24日に初めて火砕流が確認されて以降、頻繁に起きた火砕流は徐々に到達距離を延ばし、北上木場地区(旧深江町)の民家に迫りました。避難勧告で住民は退避しましたが、報道陣は撮影ポイント(定点)に留まり取材活動を継続。

6月3日午後4時8分、大規模な火砕流が発生。時速100km以上で水無川に沿って押し寄せ、北上木場地区を直撃。定点で取材中の報道陣16名、報道陣チャーターのタクシー運転手4名、火山学者クラフト夫妻ら外国人3名、避難誘導に当たった消防団員12名とパトカーの警察官2名、荷物を取りに家に戻っていた住民など6名の合計43人が犠牲になりました。

雲仙岳災害記念館「がまだす(島原方言で「がんばる」の意)ドーム」は、この6月3日大火砕流で被災した報道陣の機材の展示、大画面シアター、定点の火砕流再現映像、体験者の証言映像などで、平成大噴火の実相を後世に伝えています。

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2025/05/13

日南・鵜戸神宮

日向灘に面した鵜戸の地は、海幸彦・山幸彦の伝説の舞台の一つです。

Dsc_6935海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、海神の館に滞在して釣針を探し、ついに見つけた釣り針を海幸彦に返した…という神話はよく知られています。

山幸彦は、このとき海神の娘・豊玉姫と知り合いました。懐妊した姫は、山幸彦を追ってこの地に上陸。産気づいて洞窟内の仮屋で御子を出産しました。姫は、本当の姿(サメ)で出産しているところを山幸彦に見られ、大いに恥じ入り、御子を山幸彦に託して海に帰って行きました。

この洞窟に祀られているのが、鵜戸神宮です。社伝によれば、創建は崇神天皇のころで、桓武天皇の勅命により神殿と別当寺(仁王護国寺)を再興したとされます。中世には鵜戸六所大権現、江戸期には鵜戸大権現と称し、一時は神仏習合の一大道場として盛観を極めました。明治の神仏分離で鵜戸神社となり、のち官幣大社鵜戸神宮となりました。

洞窟内の本殿は、正徳元年(1711)に飫肥藩五代藩主伊東祐実公が改築したもの。洞窟の奥には、海に帰る姫が御子のために両乳房を残したと伝わる「お乳岩」があります。

また、洞窟の崖下には、姫を乗せて来たカメが、慌てて帰った姫に気付かず待ち続け、ついには岩になったと伝わる「亀岩」があり、亀岩の桝形に「運玉」を投げ入れる運占い(男性は左手、女性は右手で投げる)が人気です。

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2025/05/12

串間・都井岬

野生馬が暮らす都井岬(宮崎県串間市)を訪ねました。

Dsc_6878都井岬は、元禄十年(1697)、高鍋藩主秋月氏が軍馬生産のため開いた藩牧の一つでした。

岬馬は、藩牧時代から三百年以上、粗放な周年放牧で飼養され、自然繁殖で野生化したものです(国天然記念物)。
日本在来種の中型馬(体高120~130cm、体重250~300kg程度)で、農耕馬と比べ足が細く、騎馬用の軍馬の特徴を残しています。

現在は108頭が生息。小松ヶ丘に半数、扇山に3割、森や灯台周辺に2割が暮らし、日がな草を食んでいます。
野生の厳しい環境に耐え、頑強な個体が多いものの、寿命は14~16歳と短く、死亡率も高いとされます。4~5月は仔馬出産のピークでこの時期ならではの春駒を見ることができます。

野生状態を守るため、人の手は、監視員の見守りと、年一回の「馬追い」(個体の健康チェック)など最小限。野生馬なので、あえて名前はつけず、1年以上生存した馬は個体番号を付し、〇〇番と呼んでいます(仔馬は「〇〇番の子」と呼んで識別)。

馬たちが自由にのびのびと暮らす姿を観察できる貴重な場所ですが、野生なので人と触れ合う訓練はしていないとのこと。食べ物を与えたり、馬に触れる行為は厳禁で、組合では3m以上離れて観察するよう推奨しています。

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2025/05/10

中津江・鯛生金山跡

近代化産業遺産の鯛生金山跡(大分県中津江村)を訪ねました。

Dsc_6796明治27年(1894)に発見され、昭和47年(1972)に閉山するまで、金40tを産出し、東洋一と称された金山です。

明治31年(1898)に地元の鉱山組合が採金を始め、大正期の外資(Taio Gold Mines CO.LTD)による近代設備の導入と大規模採掘を経て、昭和初期に大きな富鉱脈を発見。

新鉱脈の発見が相次ぎ、昭和8~13年(1933~38)の全盛期には、年間2.3tの金を産出し、佐渡を抜いて国内一の金山となりました。

戦時中は軍需資源が最優先され、一時的に休山。この間、多くの坑道が水没。戦後、主坑道を補修して残鉱で操業を再開しましたが、資源が枯渇。昭和47年に閉山しました。

天領日田の代官も気付かなかった鯛生金山。現在は、坑道の一部約800mが地底博物館(初期の採鉱ゾーン、竪坑ゾーン、採鉱場ゾーン)として公開されているほか、砂金採り体験ができます。

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2025/05/08

中津・合元寺(赤壁の寺)

中津城下の寺町にある合元寺(西山浄土宗)は、赤壁の寺として知られます。

Dsc_6702天正十五年(1587)、黒田如水は秀吉から豊前を拝領。前領主の宇都宮鎮房はこれを認めず、黒田氏と対立します。

豊前宇都宮氏は、鎌倉期に下野宇都宮氏から分かれ、豊前城井郷を本拠に400年間この地方を治めた戦国大名でした。

黒田氏は、鎮房が籠城する城井谷城を攻めあぐね、いったん和睦します。和睦の条件は、鎮房が鶴姫を黒田家に人質に出し、代わりに領地を安堵するというものでした。

天正十七年(1589)、黒田氏は鎮房を中津城に招き、酒宴を催します。城内に入れたのは鎮房と小姓のみで、150余名の家臣団は休憩所の合元寺にて待機を命ぜられました。

黒田氏は、酒宴の席で鎮房を謀殺し、合元寺の家臣団を急襲します。家臣団は全員が討ち死に、鎮房の嫡男は派兵先の肥後で暗殺。黒田家に人質となっていた鶴姫も処刑され、鎌倉以来の名門・豊前宇都宮氏は滅びました。

合元寺の庫裏の柱には激戦を物語る刀傷が残り、寺の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出て赤く染まるので、ついには赤い壁に塗り直すようになったと伝わります。

境内の「おねがい地蔵尊」は、福澤諭吉が長崎に遊学する際、学業成就を祈願したことで知られています。

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2025/05/07

中津・村上医家史料館

村上医家は、寛永十七年(1640)に初代・宗伯が京都で免許皆伝し、中津諸町で開業したのが始まりで、代々藩主の典医を務めた家柄です。

Dsc_6693江戸中期以降、中津藩は蘭学を奨励し、前野良澤、福澤諭吉をはじめ、多くの蘭方医や文化人を輩出しました。

村上家七代・玄水は、文政二年(1819)、中津刑場で九州初の人体解剖を行い、詳細を「解剖図説」にまとめました。その序は親交があった帆足万里(日出藩)が記しています。原本は散逸したものの、草稿の「解臓記」と挿絵の下書が残っています。

明治期、九代・田長は、医業のほか、言論人として地方紙「田舎新聞」を創刊。旧制中学・師範学校の初代校長を務める教育者でもあり、玖珠郡長として中津~深耶馬渓の急峻な渓谷に道路を開削した政治家でもありました。

田長の四男・巧児氏は、戦前に井筒屋と西日本鉄道の社長を務めた財界人で、昭和32年、その功績と初代宗伯を記念して村上記念病院が開院。現在も地域の人々に医療を提供し続けています。

歴代当主が残した数千点の医学関係資料と所蔵品は、「村上医家史料館」(村上玄水旧宅)で展示公開されています。

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2025/05/06

中津・福澤諭吉旧居

福澤諭吉旧居(国史跡)を訪ねました。

Dsc_6655_300福澤諭吉(1835-1901)は、江戸末期、大坂の中津藩蔵屋敷で下級藩士の二男として生まれました。

父の没後、一家で中津に帰郷(1歳半)。貧しい中、儒学塾で学び勉学に目覚め、長崎で蘭学を学び(19歳)、大坂の適塾で緒方洪庵に入門(20歳)。

藩命で中津藩江戸中屋敷に蘭学塾(慶應義塾の起源)を開き(23歳)、横浜で欧米人にオランダ語が通じなかったことにショックを受けて英語を独修(24歳)。
幕府使節に随行し咸臨丸で渡米(25歳)、遣欧使節団として訪欧(27歳)。西洋文明を採り入れた実証的で新しい学問を目指し、慶應義塾を開設します(33歳)。

世界と隔絶していた日本人を啓蒙する多くの著述を刊行。西洋での見聞を記録した「西洋事情」(31歳)は徳川慶喜や五か条の御誓文に影響を与え、中津市学校の開設に当たり人々に学問の大切さを説いた「学問のすゝめ」(37歳)は全国で読まれ、西洋簿記を紹介した「帳合之法」(38歳)は日本初の簿記の教科書になり、西洋文明の採用が日本の独立を守ると説いた「文明論之概略」(40歳)は西郷隆盛に影響を与えたとされます。

諭吉翁の言葉「独立自尊」(心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人としての品位を辱めない)は、現代にも通じる戒めとして心に響きました。

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2025/05/05

中津・豊前中津城

豊前中津城は、天正十五年(1587)、秀吉から豊前(十二万三千石)を拝領した黒田如水が、周防灘に面した河口に築城したのが始まりです。

Dsc_6589_300慶長五年(1600)、黒田氏は筑前(五十二万石)に転封。細川忠興が三十九万九千石で入ります。居城を小倉に移した後も、支城として存続を許され、元和六年(1620)、忠興の隠居城としてほぼ現在の形に改修されました。

寛永九年(1632)、細川氏は肥後(五十四万石)に転封。以降、中津藩は小笠原氏(八万石、五代84年間)、奥平氏(十万石、九代150年間)が治め、明治維新まで存続しました。

城は堀に海水を引き込んだ水城で、日本三水城(高松、今治)の一つ。黒田時代の石垣(穴太積)は天正期の近世城郭として九州最古とされます。

模擬天守(昭和39年)は、旧藩主奥平家が建設。萩城を模したとされ、現在は民間会社が所有し、奥平家歴史資料館になっています。

旧三の丸の中津市歴史博物館では、中津の城下町、羅漢寺や耶馬渓、祭礼行事を紹介しています。

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2025/05/04

中津・青の洞門と禅海和尚

耶馬渓の名所・青の洞門(大分県中津市)を訪ねました。

Dsc_6563_300中津藩と天領日田を結んだ日田往還。
樋田集落から古刹羅漢寺へ向かう参詣路は、競秀峰の崖下を渓流に沿って鎖につかまり岩壁を伝うほかなく、「鎖渡し」は多くの人々が命を落とす難所でした。

享保二十年(1735)、諸国巡行中の禅海和尚(1687ー1774)は、難儀する村人や旅人を見て、崖に道の開削を決意。托鉢で資金を集め、ノミとツチで岩盤を掘り始めます。

北側から堀り進み、最初の隧道(明かり窓4か所の部分)を開削(1735~1750)。さらに、通行料(人四文・馬八文)を資金に、隧道4か所を掘り進め(1750~1764)、約30年かけて南側(青地区)に貫通。

当初は「樋田の刳抜」(ひだのくりぬき)と呼ばれ、今より水面に近く、人と馬がやっと通れる道でした。明治期に陸軍が拡幅し、戦後も対岸にバイパスができるまで生活道路として使われました。禅海和尚の手掘り部分は、今も2か所に残っています。

令和6年末の崩落で、車輛は通行不可のまま。当時の手掘り部分(北側・南側)の徒歩見学のみ再開されています(通り抜け不能)。

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