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2025/03/23

荒尾・宮崎滔天と兄弟の生家

宮崎滔天(1870ー1922)は、中国革命の父・孫文の活動を支え、清王朝を倒した辛亥革命の成功を助けたことで、今も中国で敬愛されている人物です。

Dsc_6450_300滔天は、宮崎4兄弟の末弟で、幼少期に長兄八郎が西南戦争で戦死したことをきっかけに、政府や権力に対し批判的な立場をとるようになります。
徳富蘇峰の私塾「大江義塾」(熊本)で学ぶも、自由民権運動の理想と現実のギャップに失望。社会の不平等を目の当たりにし、革命思想へと傾倒していきました。

明治30年(1897)、日本に亡命していた孫文を荒尾の自宅に招き、革命的アジア主義(アジアの解放と平等を目指す)の思想に共鳴。以降、交流を深め、活動と資金面で孫文を支え続けました。滔天の著した「三十三年の夢」は中国語に訳され、革命を目指す人々を勇気づけたとされます。

宮崎兄弟の生家(熊本県荒尾市、県史跡)では、滔天(写真左)と孫文が筆談で議論する場面を再現。併設の資料館では、社会運動に身を投じた4兄弟(八郎、民蔵、弥蔵、滔天)それぞれの生涯と功績を展示・解説しています。

ちなみに、「白蓮事件」(1921)で歌人柳原白蓮(炭鉱王伊藤伝右衛門の妻)と駆け落ちした社会活動家の宮崎竜介(1892-1971)は、滔天の長男です。

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2025/03/22

荒尾・旧三井三池炭鉱万田坑跡

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ、旧三井三池炭鉱の万田坑跡(熊本県荒尾市)を訪ねました。

Dsc_6406_300江戸後期には柳河藩と三池藩が採掘。明治初期~中期まで新政府の官営炭鉱となり、明治21年(1888)に三井組(財閥)に払下げられました。

最新の蒸気動力設備の導入、炭鉱専用鉄道の敷設、積出し港(三池港)の整備など、近代化と合理化で国内有数の炭鉱に成長。
明治中期~後期には勝立坑が、明治後期~大正期には宮原坑が、大正期~昭和期には万田坑が、それぞれ三池炭鉱の主力坑として日本の近代化を支えました。

万田坑は、明治35年(1902)に第一竪(出炭用、櫓高30.7m)が、明治41年(1908)に第二竪坑(機材・人員用、櫓高18.9m)が完成。採炭効率の悪化で昭和26年(1951)に閉坑するまで、国内最大規模の竪坑でした。

戦後復興をエネルギー面で支えた三池炭鉱も、労働争議や事故、外国炭との競争や石油への転換で、平成9年(1997)に全山が閉山。

かつて炭鉱住宅が並んだ一角にガイダンス施設「万田坑ステーション」があり、ここからガイドツアーで第二竪坑櫓と巻揚機室、山ノ神祭祀施設、倉庫とポンプ室などの保存施設を巡って見学できます。

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2025/03/21

諫早・干拓堤防道路

諫早湾の干拓事業で出現した堤防道路(長崎県諫早市)。

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諫早湾を干拓して耕地を増やす試みは、江戸期以前から行われていたとされます。

昭和27年、戦後の食糧不足で長崎県が干拓を発案。さらに諫早大水害(昭和32年)など度重なる水害対策として、平成元年に国営干拓事業が始まりました。

平成9年、潮受け堤防(全長7km)が完成し、干潟や浅瀬を囲む形で、湾の三分の一が閉め切られました。

閉め切られた内側は「調整池」として汽水化され、新たな農地と農業用水の確保、沿岸の水害防止を実現。他方、有明海では潮流の変化で赤潮が多発し、海苔漁の記録的な不作、ムツゴロウの絶滅危惧など生態系に深刻な影響が疑われ、今も評価は分かれ、議論が続けられています。

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2025/03/20

太良・大魚神社の海中鳥居

有明海に面した大魚神社の海中鳥居(佐賀県太良町)。

Img_8365_2伝承によれば、江戸中期、悪代官に困り果てた領民が、沖ノ島に代官を誘い出し、酔わせて置き去りにしました。

潮が満ちて沈む島に、驚いた代官は龍神に助けを乞います。大魚(ナミウオ)が現れて、代官は九死に一生を得て生還しました。

改心した代官は、大魚神社を祀り、海中に鳥居を建てたと伝わります。

 

海中鳥居は、大魚神社と沖ノ島を結ぶ延長線上に建ち、扁額に「沖之神」とあります。

神社は、今も豊漁と海の安全を守る神として人々の信仰が篤く、海中鳥居は三十年毎に建て替える慣わしが残っています。

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