荒尾・宮崎滔天と兄弟の生家
宮崎滔天(1870ー1922)は、中国革命の父・孫文の活動を支え、清王朝を倒した辛亥革命の成功を助けたことで、今も中国で敬愛されている人物です。
滔天は、宮崎4兄弟の末弟で、幼少期に長兄八郎が西南戦争で戦死したことをきっかけに、政府や権力に対し批判的な立場をとるようになります。
徳富蘇峰の私塾「大江義塾」(熊本)で学ぶも、自由民権運動の理想と現実のギャップに失望。社会の不平等を目の当たりにし、革命思想へと傾倒していきました。
明治30年(1897)、日本に亡命していた孫文を荒尾の自宅に招き、革命的アジア主義(アジアの解放と平等を目指す)の思想に共鳴。以降、交流を深め、活動と資金面で孫文を支え続けました。滔天の著した「三十三年の夢」は中国語に訳され、革命を目指す人々を勇気づけたとされます。
宮崎兄弟の生家(熊本県荒尾市、県史跡)では、滔天(写真左)と孫文が筆談で議論する場面を再現。併設の資料館では、社会運動に身を投じた4兄弟(八郎、民蔵、弥蔵、滔天)それぞれの生涯と功績を展示・解説しています。
ちなみに、「白蓮事件」(1921)で歌人柳原白蓮(炭鉱王伊藤伝右衛門の妻)と駆け落ちした社会活動家の宮崎竜介(1892-1971)は、滔天の長男です。
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江戸後期には柳河藩と三池藩が採掘。明治初期~中期まで新政府の官営炭鉱となり、明治21年(1888)に三井組(財閥)に払下げられました。
伝承によれば、江戸中期、悪代官に困り果てた領民が、沖ノ島に代官を誘い出し、酔わせて置き去りにしました。