田川・旧三井田川鉱業所跡
明治期に全国出炭量の半分を占め、日本の富国強兵化と産業革命に大きな役割を果たした筑豊炭田。
筑豊では、大手資本と地場資本(麻生・貝島・安川)が競って石炭産業が急成長。中でも三井田川鉱業所は筑豊炭田で最大の出炭量を誇りました。
その主力坑が伊田竪坑で、明治末期に第一竪坑(深さ314m)と第二竪坑(深さ349m)が相次いで竣工。
動力ボイラー室の高い煙突は、炭坑節に「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ」と唄われました。
石炭産業は、第一次大戦で活況を呈し、大正~昭和初期の世界恐慌で合理化を余儀なくされました。昭和初期の満州事変~日中戦争で増産に拍車がかかりましたが、太平洋戦争が激化すると出炭量は激減。戦後は朝鮮戦争の特需で石炭景気に沸いたものの、昭和30年代後半には石油と安い外国炭に押され、筑豊の炭坑は次々に閉山しました。
昭和39年に閉山した三井田川鉱業所の跡地には、第一堅坑櫓と、田川の二本煙突と親しまれ、炭坑節にも唄われた煙突(高さ45.45m)が残っています(国史跡) 。
隣接の田川市石炭・歴史博物館では、明治の手掘り~昭和の機械採掘の様子を再現し、炭坑住宅(復元)や炭車や採炭機材を展示。ユネスコ世界記憶遺産に選定された山本作兵衛翁の炭坑記録画も公開しています。
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重光葵(1887-1957)は、戦艦ミズーリで降伏調印文書に日本全権代表として署名したことで知られます。