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2024/12/15

久留米・八丁島の御供納

久留米市八丁島の天満神社で行われた「御供納」(ごくおさめ)を見学。

Dsc_6012【現地案内板の説明】
この行事は、八丁島に伝わる「菊姫物語」(桃山時代)、「おかねの恩返し」(江戸時代)などの伝説に由来する「人身御供」と「収穫祭」の行事が一緒になったものと言われ、現在は12月中旬の土曜日曜の二日間にわたって行われます。

八丁島に七つの座があり、七年に一回廻ってくる座の子供たち(0歳から10歳まで)により、玄米三升三合の御供を天神堀に納め、五穀豊穣・無病息災を祈願します。
なお、寛延二年(1749)の記録によれば、享保十七年(1732)までは、御供米三斗三升を神にお供えしていたとあり、かなり以前から行事が行われていたと思われます。

【この日の進行スケジュール】
14:30~ 神事(天満神社)
15:10~ 行列で天神堀へ移動
15:20~ 神事(石祠)
15:30~ 川舟で天神掘を三周(右回り)
     御供米を沈め→矢放し行事(伝統的大蛇殺害)
15:40ころ 終了

【採訪メモ】
今年は男児3人(5歳、8歳、9歳)が参加。前日に汐井汲み(16:30)~禊(0:00)をして身を清めたとのこと。神社から天神堀へ、榊、汐井、塩で道中を浄めながら移動。石祠(玉太郎宮・竜宮姫)で短い神事の後、川舟にヤカゴ(御供米三升三合を入れた竹籠)と神職、子供が乗り、堀を3周。3周目に神職が掛け声とともにヤカゴを沈め、同時に対岸から島に矢が3本放たれる。舟では子供たちが土器(かわらけ)を割る。 集落の皆さんが大勢見守り、声援を送る中、岸に戻り終了。カメラマンは数人。八丁島広場に駐車場あり。久留米市無形民俗文化財。

詳しく教えて頂いた当番座の皆さん、地元の皆さん、ありがとうございました。

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2024/12/07

鳥栖・中冨記念くすり博物館

Dsc_5866_300鳥栖市東部は、旧対馬藩の飛地・田代領(一万三千石)で、江戸中期に製薬産業が発展した所です。

「奇応丸」(胃薬)を自家製造し、越中富山の配置売薬(置き薬)方式で販路を広げ、主に中四国と九州を得意場としました。
行商人は「田代売薬」とか「対馬の薬やさん」と呼ばれ、歓迎されました。

明治期、日清日露戦争で「奇神丹」(胃薬)が軍用薬に指定。さらに和紙に膏薬を塗った延べ膏薬「朝日万金膏」(貼り薬、サロンパスの元)を考案。工場による大量生産で軍や薬局に卸すようになり、配置売薬から本舗売薬への転換が進みました。

大正期、スペイン風邪の流行で、高熱による関節痛を和らげる膏薬の需要が急増。田代売薬は膏薬の生産に特化し、富山など競業者と住み分け発展します(膏薬得意)。

昭和期、戦前は厳しい統制が続き、戦争末期に製薬会社は1県1社、配置薬は1戸1袋に制限。戦後は製薬会社の分離独立が進み、高度成長期で家庭配置薬の全盛期を迎えます。その後は医療機関・医薬品の普及で家庭配置薬の需要が激減。昭和50年代にドラッグストアが出現し、いつでもどこでも薬が手に入るようになりました。

中冨記念くすり博物館(中冨記念財団)は、久光製薬(鳥栖)が創業145周年を記念して設立(1995)。「田代の売薬習俗」(国記録選択無形民俗文化財)の関連資料(佐賀県有形民俗文化財)を展示公開しています。

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2024/12/01

秋月・武家屋敷久野邸

秋月黒田藩五万石の城下・春小路に残る久野邸。

Dsc_5826_300b久野家は、古くから黒田家に仕え、江戸初期に藩祖・長興公(長政三男)とともに秋月に移り、藩三役や奉行など要職を務めた家柄です。

春小路の屋敷は、初代(惣右衛門、知行百三十石)が拝領。660坪の敷地に、武家屋敷には珍しい二階建てです。当時は百石につき300坪、藩重役でも二階家は許されなかったので、久野家は別格だったとされます。

小路に面した腕木門が格式の高さを物語り、家来が常駐した仲間部屋、茅葺き二階建ての母屋、離れ座敷(茶室)、古処山を借景にした庭園など、秋月の上級武家の暮らしぶりを今に伝えています。

屋敷は、九代(米三郎)夫人(悦さん)の没後、後継者がおらず、製薬大手の久光製薬が買い取り、往時の姿に修復。平成6年4月から一般公開しています(久光製薬の創業家とは姻戚関係にあり、現会長の母の実家に当たります)。

写真は、母屋二階の書院から見た庭園の紅葉と古処山です。秋月は紅葉の名所として知られますが、今年は晩秋まで暖かい日が続き、木々の色づきは今ひとつでした。

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