長崎・日本二十六聖人殉教地
長崎の西坂は、明治初めに禁教令が解かれるまで、キリシタンが処刑された殉教の地です(県史跡)。
長崎は、大村純忠(キリシタン大名)が対ポルトガル貿易の港とし、イエズス会に寄進(1570)。国内布教の拠点となりました。
九州を平定した豊臣秀吉は、長崎を直轄地とし、伴天連追放令(1587)を発して禁教に転じます。しかし貿易は容認したので、禁教は徹底されず、宣教師は九州各地のキリシタン大名の庇護下で布教を続けました。
土佐に漂着したサン・フェリペ号の船員が「宣教師の布教を通じて他国を征服する」と話し、事態が急変します。秀吉は、慶長元年(1597)、畿内で捕らえた宣教師6人と日本人信者を長崎に送り、西坂の丘で26人を磔にして処刑。
この事件は、宣教師ルイス・フロイスが本国に報告し、大規模殉教として西欧に大きな衝撃を与えました。
その後も、江戸期を通じて京都大殉教(1619)、元和大殉教(1622)など厳しい弾圧が続き、西坂で処刑された殉教者は計600人以上を数えます。
日本が開国後、ローマ教皇は秀吉に処刑された26人を日本初の殉教者として列聖(1862)。 昭和37年、列聖100周年に当たり、西坂の丘にイエズス会が日本二十六聖人殉教碑と記念館を建てました。
碑には、二十六聖人のブロンズ像(彫刻家舟越保武の作)がはめ込まれ、記念館と聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)は日本に初めてガウディを紹介した建築家今井兼次の設計です。
西坂の丘は、カトリックの公式巡礼所に指定(2012)されています。
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