長崎・浦上天主堂
戦国期、キリシタン大名有馬氏の所領だった浦上は、村民の多くがキリシタンでした。
江戸期、禁教下で弾圧が繰り返され(浦上一番〜四番崩れ)、中でも、幕末から明治にかけての「四番崩れ」が最大かつ最後の弾圧となりました。
大浦天主堂での信徒発見(1865)の後、浦上の潜伏キリシタンは密かにカトリックに復帰。やがて長崎奉行が、信徒と仏教徒との対立を察知。慶応三年(1867)、キリスト教式の埋葬を行ったことで、村民の大量検挙が始まります。これを引き継いだ明治新政府も、明治元~2年(1868~69)にかけて、村民の6割に当たる3040人を流刑に処しました。
この事件は諸外国から猛非難を受けました。不平等条約改正に影響が出るのを恐れた新政府は、明治6年、禁教令を撤廃。浦上の人々は次々に帰村しましたが、流刑先で約450人が刑死したと伝わります。
浦上に戻った人々は、自らの信仰の証として、天主堂を建てることを決意。家も財産も失った人々は、無一文から浄財を集め、明治13年(1880)、かつて弾圧が行われた旧庄屋跡に仮聖堂を建てます。さらに、明治28年(1895)に旧天主堂の建設が始まり、大正3年「1914)に完成。煉瓦造りのロマネスク様式で東洋一と謳われました。
昭和20年8月9日、儀式が行われていた天主堂の直近上空で原爆が炸裂。天主堂は倒壊・焼失し、神父と信徒20数名全員が犠牲になりました。
翌年には仮聖堂が復興。昭和34年、旧天主堂を再現して白いコンクリート壁の現天主堂を再建。昭和55年(1980)、教皇ヨハネ・パウロ2世の来訪に合わせて、被災前の煉瓦タイル貼り・窓は総ステンドグラスに大改装され、現在の姿になりました。
正式名称は「カトリック浦上教会」で、長崎大司教区の司祭座聖堂(カテドラル)に指定。丘の麓を流れる川沿いに、被爆し倒壊した鐘楼の残骸が当時のまま残されています。
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