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2024/10/19

佐世保・セイルタワー

旧海軍の鎮守府が置かれ、軍港として栄えた佐世保。現在は、海上自衛隊の佐世保地方総監部があり、対馬海峡と九州・沖縄近海の防衛を担っています。

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セイルタワー(海上自衛隊佐世保史料館)は、旧佐世保水交社跡にあります。水交社は、海軍士官の宿泊や外国武官の接待に使われた洋館で、六角形の塔屋など当時の面影が残っています。

史料館は7階建のビルで、最上階から順に見学しながら降りる方式です。

展示は、7階「映像ホール」(広報VTR)、6階「幕末~海軍創設」と佐世保鎮守府史料、5階「日清・日露戦争」と海軍史料、4階「太平洋戦争」と海軍史料、3階「海上自衛隊のあゆみ」と艦艇模型、2階「海上自衛隊の任務・活動」と史料閲覧室、1階「企画展示」と佐世保地方隊史料となっています。

3階には護衛艦「くらま」のコーナーがあります。ヘリ搭載型護衛艦DDH-144「くらま」(5200t)は、しらね型の2番艦で、36年間佐世保を母港とし、平成29年(2017)に引退。除籍後は標的艦となり役目を終えましたが、艦橋内部が館内に再現され、主錨が玄関脇に展示されています。

全フロアとも展示資料が多く、動画やパネルの解説が詳しいので、じっくり見ると半日では足りません。

個人的には、他で見ることの少ない幕末の海軍創成期の史料が詳しく、幕府海軍に比して佐賀藩・久留米藩・熊本藩など九州諸藩の海軍力が高かったことが分かり、とても興味深く見学しました。

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2024/10/14

長崎・浦上天主堂

戦国期、キリシタン大名有馬氏の所領だった浦上は、村民の多くがキリシタンでした。

Dsc_5524_300江戸期、禁教下で弾圧が繰り返され(浦上一番〜四番崩れ)、中でも、幕末から明治にかけての「四番崩れ」が最大かつ最後の弾圧となりました。

大浦天主堂での信徒発見(1865)の後、浦上の潜伏キリシタンは密かにカトリックに復帰。やがて長崎奉行が、信徒と仏教徒との対立を察知。慶応三年(1867)、キリスト教式の埋葬を行ったことで、村民の大量検挙が始まります。これを引き継いだ明治新政府も、明治元~2年(1868~69)にかけて、村民の6割に当たる3040人を流刑に処しました。

この事件は諸外国から猛非難を受けました。不平等条約改正に影響が出るのを恐れた新政府は、明治6年、禁教令を撤廃。浦上の人々は次々に帰村しましたが、流刑先で約450人が刑死したと伝わります。

浦上に戻った人々は、自らの信仰の証として、天主堂を建てることを決意。家も財産も失った人々は、無一文から浄財を集め、明治13年(1880)、かつて弾圧が行われた旧庄屋跡に仮聖堂を建てます。さらに、明治28年(1895)に旧天主堂の建設が始まり、大正3年「1914)に完成。煉瓦造りのロマネスク様式で東洋一と謳われました。

昭和20年8月9日、儀式が行われていた天主堂の直近上空で原爆が炸裂。天主堂は倒壊・焼失し、神父と信徒20数名全員が犠牲になりました。

翌年には仮聖堂が復興。昭和34年、旧天主堂を再現して白いコンクリート壁の現天主堂を再建。昭和55年(1980)、教皇ヨハネ・パウロ2世の来訪に合わせて、被災前の煉瓦タイル貼り・窓は総ステンドグラスに大改装され、現在の姿になりました。

正式名称は「カトリック浦上教会」で、長崎大司教区の司祭座聖堂(カテドラル)に指定。丘の麓を流れる川沿いに、被爆し倒壊した鐘楼の残骸が当時のまま残されています。

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2024/10/13

長崎・平和公園を訪ねて

昭和20年8月9日早朝、原子爆弾を搭載した爆撃機B-29は、マリアナ諸島のテニアン基地を発進。第一目標の北九州工業地帯がある小倉上空に到達しましたが、視界不良のため第二目標の長崎へ飛来しました。

Dsc_5496_300三菱長崎兵器製作所の工場群に、高度9600mから原子爆弾(ファットマン)を投下。目標から北に3kmほど逸れ、午前11時2分、松山町の上空500mで炸裂しました。

街は、巨大な火球と熱線、衝撃波と爆風により一瞬で焦土と化し、人口24万人のうち死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災者12万820人の大被害を受けました。

昭和25年、爆心地に近い丘(旧長崎刑務所浦上刑務支所跡)に平和公園を開設。昭和30年にはシンボルの平和祈念像が設置されました。
像は、彫刻家北村西望(長崎出身)の作品。右手で原爆の脅威を、左手で平和を、体は絶者の神威を、顔は神仏の慈悲を表し、軽く閉じた目は犠牲者の冥福を祈り、右足で瞑想を、左足で救済を表現しています。

訪れた日はノーベル平和賞(日本被団協)が発表された直後で、マスコミ各社が取材に来ていました。

長崎原爆資料館では、被爆建物(部分)と被災した浦上天主堂(再現展示)、ファットマンの実物大模型、被爆者の遺品や体験談で、被爆の実相と平和希求の大切さを後世に伝えています。

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2024/10/12

長崎・日本二十六聖人殉教地

長崎の西坂は、明治初めに禁教令が解かれるまで、キリシタンが処刑された殉教の地です(県史跡)。

Dsc_5620_300長崎は、大村純忠(キリシタン大名)が対ポルトガル貿易の港とし、イエズス会に寄進(1570)。国内布教の拠点となりました。

九州を平定した豊臣秀吉は、長崎を直轄地とし、伴天連追放令(1587)を発して禁教に転じます。しかし貿易は容認したので、禁教は徹底されず、宣教師は九州各地のキリシタン大名の庇護下で布教を続けました。

土佐に漂着したサン・フェリペ号の船員が「宣教師の布教を通じて他国を征服する」と話し、事態が急変します。秀吉は、慶長元年(1597)、畿内で捕らえた宣教師6人と日本人信者を長崎に送り、西坂の丘で26人を磔にして処刑。

この事件は、宣教師ルイス・フロイスが本国に報告し、大規模殉教として西欧に大きな衝撃を与えました。

その後も、江戸期を通じて京都大殉教(1619)、元和大殉教(1622)など厳しい弾圧が続き、西坂で処刑された殉教者は計600人以上を数えます。

日本が開国後、ローマ教皇は秀吉に処刑された26人を日本初の殉教者として列聖(1862)。 昭和37年、列聖100周年に当たり、西坂の丘にイエズス会が日本二十六聖人殉教碑と記念館を建てました。

碑には、二十六聖人のブロンズ像(彫刻家舟越保武の作)がはめ込まれ、記念館と聖フィリッポ教会(日本二十六聖人記念聖堂)は日本に初めてガウディを紹介した建築家今井兼次の設計です。

西坂の丘は、カトリックの公式巡礼所に指定(2012)されています。

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