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2024/09/01

熊本・徳富旧宅と大江義塾

徳富蘇峰・蘆花兄弟が青少年期を過ごした旧宅(熊本市中央区大江)を訪ねました。

Dsc_5273_300b二人は肥後水俣の郷士の家に生まれ、明治三年、父の藩庁出仕に伴い熊本大江に転居しました(蘇峰7歳、蘆花2歳)。

兄・徳富蘇峰(1863-1957)は、京都・同志社英学校で新島襄に学び、大江に戻って「大江義塾」(明治15年)を開設。自由民権を唱え、24歳のとき、雑誌「将来之日本」(明治19年)を発刊。これが好評で、ジャーナリストを目指し上京し、民友社を設立。雑誌「国民之友」(明治20年)、「国民新聞」(明治23年)を刊行し、平民主義(自由経済、個人の尊重、平等な社会の実現)を説きました。しかし、33歳のとき、日清戦争後の三国干渉(明治28年)に失望し、「国家に力が足らなければいかなる正義公道も半文の価値もない」と国権主義に転向。以降、政府側の論客として活動し、戦後は戦犯として公職追放に。全百巻の大作「近世日本国民史」を執筆したことで知られます。

弟・徳冨蘆花(1868-1927)は、兄の影響を受け、同志社英学校、大江義塾で学び、英語教師を経て作家を目指し上京。兄の民友社で記者の傍ら執筆活動を続け、33歳のとき、国民新聞に掲載した小説「不如帰」(明治33年)がヒット。続く「思出の記」「自然と人生」など、キリスト教的な博愛主義を貫き、思想的にも兄と決別します。39歳のとき、ロシアにトルストイを訪ね(明治39年)、晴耕雨読の生活に入り文壇を離れました。晩年、病床で兄と和解した夜に永眠(60歳)。

一家が上京するまで暮らした旧宅には、明治天皇の熊本行幸(明治5年)の行在所(厠)を移築した部屋、9歳の蘆花が神風連の乱(明治9年)で隣家(熊本鎮台司令官種田少将宅)が襲撃されるのを目撃した中二階の部屋(後に「恐ろしき一夜」に発表)、蘇峰が大江義塾を開いた和室が残っています。隣接の記念館では、徳富兄弟の遺品や著書などを展示しています。

庭のカタルパの木は、蘇峰の恩師新島襄から贈られた記念樹の2~4世で、5月中旬に白い花を咲かせます。

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