長崎・出島和蘭商館跡
出島は、寛永十三年(1636)、長崎のポルトガル人を収容するため、江戸幕府が造らせた扇形の人工島です。
幕府は、島原の乱(1637)後、ポルトガル船の来航を禁じ、出島のポルトガル人を追放(1639)。
無人となった出島に、寛永十八年(1641)、平戸のオランダ商館が移転。以降、幕府の対外貿易窓口となりました。
出島の造成は、長崎の豪商25人(出島町人)が出資。年間の賃料として、ポルトガル人から銀80貫(約1億5千万円)、オランダ人からは銀55貫(約1億円)を徴しました。
出島には商館長(カピタン)など17人ほどが居住。対岸では長崎奉行所が出島の出入りを監視。オランダ人が島外に出ることは(江戸参府と長崎くんちを除いて)禁じられ、妻子の帯同も許されていませんでした。
オランダ船は年2隻が夏に来航。生糸・羅紗やビロード・砂糖・ガラス製品が出島の水門から荷揚げされ、銀や銅・陶磁器が輸出されました。船の来航を待つ間、狭い島内でビリヤードやバドミントンに興じて過ごすほかなく、日誌には「まるで国立の監獄のようだ」と記されています。
ペリーの浦賀来航(1853)で開国後、安政二年(1855)に出島対岸に長崎海軍伝習所が置かれ、安政六年(1859)には出島オランダ商館が廃止。急増する外国人の居留地を確保するため、幕末から明治にかけて周辺の埋立てが進み、出島は姿を消しました。
現在は、昭和26年から続く出島復元整備事業が進行中。16棟の建物が復元され、将来的には四方を水面に囲まれた19世紀の姿に完全復元を目指しています。
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