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2024/09/25

長崎・大浦天主堂

世界遺産・大浦天主堂(国宝)へ。Dsc_5283_300正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」といい、元治元年(1864)の建築。日本現存最古のキリスト教建築物です。

大浦天主堂は、慶長元年(1597)に豊臣秀吉が長崎で処刑した二十六聖人に捧げられた教会です。

幕末、ローマ教皇庁は開国した日本への再布教をパリ外国宣教会に委託。
長崎に派遣された神父は、二十六聖人殉教の地(西坂)に教会建設を希望しましたが、居留地外には許されず、現在地に西坂に向けて建てられました。

献堂式から1か月後の慶応元年(1865)3月17日、浦上から潜伏キリシタンの一団が現れ、プティジャン神父に信仰を告白。歴史的な「信徒発見」となりました。

明治六年(1873)、禁教令が解かれ、潜伏からカトリックへの復帰が本格化。手狭になった天主堂は、明治十二年(1879)、創建当時の聖堂を包み込む形で増改築され、現在の姿が完成。原爆の被害(1945)を乗り越えて、美しい姿を今に伝えています。

隣接して建つ「旧羅典神学校」(1875、国重文)と「旧長崎大司教館」(1915、県文化財)は、カトリック長崎大司教区の「大浦天主堂キリシタン博物館」として公開されています。

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2024/09/24

長崎・旧グラバー邸

安政五年(1858)、江戸幕府は五か国(米・英・仏・蘭・露)と修好通商条約を結び開国。長崎には各国の商人が進出し、大浦に外国人居留地ができました。

Dsc_5366_300英国人トーマス・グラバー(1838-1911)は、安政六年(1859)、貿易商の代理人として来日。日本語に長け、人脈を築いて「グラバー商会」(1862ー1870)を設立。茶・生糸の輸出、織物・香辛料・鉄の輸入のほか、討幕派に武器弾薬や蒸気船を提供して財を成しました。

日本の近代化に大きく貢献しています。蒸気機関車の公開運転(1865)を行ったり、明治二年(1869)には蒸気動力で大型船を引き上げる洋式ドック小菅修船場と、佐賀藩と共同で蒸気機関を導入した最新の高島炭鉱を開発。
晩年は東京に移り、明治天皇から勲二等旭日重光章を授与されています。

旧グラバー邸は、文久三年(1863)の建築で、日本現存最古の木造洋風建物です(国重文)。グラバー家二世代が暮らし、増築や模様替えで今の姿になったのは明治二十年ころ。昭和14年に三菱重工長崎造船所が買収し、昭和32年に長崎市に寄贈。

世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」では、小菅修船場、高島炭鉱と共に構成資産の一つになっています。

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2024/09/23

長崎・出島和蘭商館跡

出島は、寛永十三年(1636)、長崎のポルトガル人を収容するため、江戸幕府が造らせた扇形の人工島です。

Dsc_5402_300幕府は、島原の乱(1637)後、ポルトガル船の来航を禁じ、出島のポルトガル人を追放(1639)。

無人となった出島に、寛永十八年(1641)、平戸のオランダ商館が移転。以降、幕府の対外貿易窓口となりました。

出島の造成は、長崎の豪商25人(出島町人)が出資。年間の賃料として、ポルトガル人から銀80貫(約1億5千万円)、オランダ人からは銀55貫(約1億円)を徴しました。

出島には商館長(カピタン)など17人ほどが居住。対岸では長崎奉行所が出島の出入りを監視。オランダ人が島外に出ることは(江戸参府と長崎くんちを除いて)禁じられ、妻子の帯同も許されていませんでした。

オランダ船は年2隻が夏に来航。生糸・羅紗やビロード・砂糖・ガラス製品が出島の水門から荷揚げされ、銀や銅・陶磁器が輸出されました。船の来航を待つ間、狭い島内でビリヤードやバドミントンに興じて過ごすほかなく、日誌には「まるで国立の監獄のようだ」と記されています。

ペリーの浦賀来航(1853)で開国後、安政二年(1855)に出島対岸に長崎海軍伝習所が置かれ、安政六年(1859)には出島オランダ商館が廃止。急増する外国人の居留地を確保するため、幕末から明治にかけて周辺の埋立てが進み、出島は姿を消しました。

現在は、昭和26年から続く出島復元整備事業が進行中。16棟の建物が復元され、将来的には四方を水面に囲まれた19世紀の姿に完全復元を目指しています。

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2024/09/01

熊本・徳富旧宅と大江義塾

徳富蘇峰・蘆花兄弟が青少年期を過ごした旧宅(熊本市中央区大江)を訪ねました。

Dsc_5273_300b二人は肥後水俣の郷士の家に生まれ、明治三年、父の藩庁出仕に伴い熊本大江に転居しました(蘇峰7歳、蘆花2歳)。

兄・徳富蘇峰(1863-1957)は、京都・同志社英学校で新島襄に学び、大江に戻って「大江義塾」(明治15年)を開設。自由民権を唱え、24歳のとき、雑誌「将来之日本」(明治19年)を発刊。これが好評で、ジャーナリストを目指し上京し、民友社を設立。雑誌「国民之友」(明治20年)、「国民新聞」(明治23年)を刊行し、平民主義(自由経済、個人の尊重、平等な社会の実現)を説きました。しかし、33歳のとき、日清戦争後の三国干渉(明治28年)に失望し、「国家に力が足らなければいかなる正義公道も半文の価値もない」と国権主義に転向。以降、政府側の論客として活動し、戦後は戦犯として公職追放に。全百巻の大作「近世日本国民史」を執筆したことで知られます。

弟・徳冨蘆花(1868-1927)は、兄の影響を受け、同志社英学校、大江義塾で学び、英語教師を経て作家を目指し上京。兄の民友社で記者の傍ら執筆活動を続け、33歳のとき、国民新聞に掲載した小説「不如帰」(明治33年)がヒット。続く「思出の記」「自然と人生」など、キリスト教的な博愛主義を貫き、思想的にも兄と決別します。39歳のとき、ロシアにトルストイを訪ね(明治39年)、晴耕雨読の生活に入り文壇を離れました。晩年、病床で兄と和解した夜に永眠(60歳)。

一家が上京するまで暮らした旧宅には、明治天皇の熊本行幸(明治5年)の行在所(厠)を移築した部屋、9歳の蘆花が神風連の乱(明治9年)で隣家(熊本鎮台司令官種田少将宅)が襲撃されるのを目撃した中二階の部屋(後に「恐ろしき一夜」に発表)、蘇峰が大江義塾を開いた和室が残っています。隣接の記念館では、徳富兄弟の遺品や著書などを展示しています。

庭のカタルパの木は、蘇峰の恩師新島襄から贈られた記念樹の2~4世で、5月中旬に白い花を咲かせます。

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