唐津・旧高取邸
旧高取邸は、杵島炭鉱で財を成し、「肥前の炭鉱王」と呼ばれた高取伊好(これよし、1850-1927)の邸宅です。
伊好は、幕末に佐賀藩多久郷の学者の家に生まれ、高取家の養子となります。明治3年(1870)、実業家を志して上京。三叉塾や慶応義塾で洋学を学びました。
工部省「鉱山寮」で採炭学を修め、明治7年(1874)、技術者として当時最先端の高島炭鉱(長崎)に赴任。炭鉱主の後藤象二郎を助けて経営にも参画しました。
明治15年(1882)、故郷の多久に戻り、地元で炭鉱経営に乗り出します。しかし、設備投資と人件費に莫大な資金を要する上、経済の好不況に左右される炭鉱経営は苦難の連続でした。
日露戦争(1904)で石炭需要が高騰したのを機に、伊好は杵島炭鉱に経営資源を集中します。これが奏功し、事業は急拡大。日本有数の採炭量で石炭産業を牽引し、唐津は積出し港として繁栄しました。
旧高取邸は、伊好が明治38年(1905)に私邸兼迎賓館として建築。2300坪の敷地に和洋折衷の主屋と附属建物(土蔵、食糧庫、使用人湯殿、家族湯殿、貯蔵庫)があります。
主屋は、中庭を挟んで居室棟と大広間棟に分かれています。居室棟は、アールヌーボー調の応接室、花頭窓を拵えた仏間など計20部屋。大広間棟は、茶室、能舞台、客人用の大広間など計8室。各部屋の欄間の彫り物や、京都四条派の絵師による72枚の杉戸絵が見事です。
伊好は、70歳で隠居し78歳で亡くなるまで、晩年をこの邸宅で漢詩や書、能を楽しみながら過ごしました。事業の傍ら、唐津小学校の建設費を寄付し、多久に図書館や公会堂、公園を寄贈するなど、地元の社会貢献にも尽くした人でした。
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