小城・肥前千葉氏居城跡
肥前千葉氏の居城跡(佐賀県小城市)を訪ねました。
肥前千葉氏は、鎌倉中期、下総の千葉氏(宗家)が異国警固のため肥前小城の所領に下向し、土着したのが始まりです。
鎌倉幕府は、元の来襲に備え、九州に所領を持つ東国御家人に九州下向を命じました。
千葉氏は、八代頼胤(よりたね、文永の役で戦死)、九代宗胤(むねたね)と続けて肥前に下向。異国警固は長引き、帰国できないまま肥前で没します(この間に、下総の千葉氏宗家は弟胤宗とその嫡流が取って代わります)。
その嫡男胤貞(たねさだ)は、正和五年(1316)、下総から肥前小城に下向。この山に居城を築き、京都から祇園社を勧請し、祇園川に沿って東西に城下町ができました。
胤貞は、下総の宗家十一代を継いでいた貞胤(さだたね、胤宗の子)と家督を争う一方、建武二年(1335)、足利尊氏(北朝)の挙兵に従い各地を転戦。宗家(南朝方)の貞胤を破りますが、直後に病没。このため、北朝方に寝返った貞胤が宗家の地位を安堵され、肥前小城にいた弟の胤泰(たねやす)は土着して肥前千葉氏の祖となりました。
肥前千葉氏は、在地武士団を家臣化し、社寺と国衙官人を掌握。小城・佐賀・杵島の各郡を支配し肥前最大の勢力になります。室町中期、応仁の乱(1467-77)と家督争いで、惣領家(東千葉氏)と庶家(西千葉氏)に分裂。西千葉氏が勝ったものの大きく衰退し、戦国期にはかつて配下だった龍造寺氏に服属。龍造寺氏が没落後は鍋島氏に仕え、江戸期は佐賀鍋島藩の家老職を務めています。
肥前千葉氏の居城跡には、かつての祇園社が「須賀神社」として残っています。山挽祇園祭(毎年7月第四日曜日)は、胤貞が戦の訓練を兼ねて始めたと伝わり、小城の夏の風物詩です。
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