熊本・神風連の乱
神風連資料館(熊本市中央区黒髪)と桜山神社を訪ねました。
幕末の尊王攘夷思想(天皇親政と外国の排斥)は、明治維新の原動力となりました。
維新後、明治新政府は欧化政策を進め、攘夷(外国の排斥)を奉じて倒幕に立ち上がった多くの志士を失望させます。
肥後では、国学者林桃園の教えを汲み、古来の神道を重んじる敬神党(神風連)が、西洋化の風潮を嘆き、新政府が「人心を惑わし、皇道を失わせる」と厳しく批判。明治九年に廃刀令(3月)、県の散髪令(5月)が出ると、国の将来を憂い、宇気比(神占)の結果(政府に建白か、奸臣の誅殺か、義による挙兵か)に従い、挙兵しました。
同年10月の夜、首領太田黒伴雄の下、170名が藤崎八幡宮から出陣。第一隊は要人宅を襲撃し、熊本鎮台司令官種田少将と参謀長高島中佐を討ち取り、安岡県令を負傷(のち死亡)させます。第二隊(太田黒隊)は熊本鎮台の砲兵営を、第三隊(富永守国隊)は歩兵営を奇襲して、それぞれ焼き払いました。
鎮台側は態勢を立て直すと、一斉射撃で反撃。洋式火力の前に、刀と鎗の神風連は副首領の加屋栄太が戦死、首領の太田黒も重傷を負い自害します。指揮系統を失った神風連は、いったん退却して再挙を図りますが、鎮台側の警戒が厳しく断念。志士らは次々に自害し、生存者は捕縛され、一夜にして鎮圧されました。
神風連側の戦死者31名、自害87名(他は捕縛され斬首や懲役、放免)と伝わります。
桜山神社(旧桜山祠殿)には、神風連の変に倒れた百二十三士と、幕末の動乱に倒れた肥後勤王党二十三士の墓があります。境内の神風連資料館では、思想的背景や志士らの遺品を展示しています(資料館は9月2日限りで閉館し、財団法人を解散)。
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