唐津・名護屋城跡
豊臣秀吉が朝鮮出兵のため築いた名護屋城跡(唐津市鎮西町)を訪ねました。
天下統一を遂げた太閤秀吉は、天正十九年(1591)、「唐入り」を布告。本営として壱岐・対馬に近い肥前名護屋に築城を命じました。
筑前の黒田孝高・長政、肥後の加藤清正、唐津の寺沢広高が縄張りを担当。西国諸大名が分担して普請を競い、わずか6か月で完成しました。
秀吉の威光を内外に示すべく、大坂城に次ぐ巨大な城郭で、玄界灘を望む五層の天守閣には金箔を貼った軒瓦が輝き、本丸、二ノ丸、三ノ丸と、山里丸(秀吉の居館)には能舞台や茶室がありました。
周辺には全国から参集した大小名が陣屋を置き、数十万の軍勢が駐屯。城下町が急発展し、最盛期人口は20万人を超えたと云われています。
文禄元年(1592)春、名護屋から総勢16万の軍勢が出陣(文禄の役)。秀吉も名護屋城に着陣し、翌年夏に伏見城に戻るまでの間、全軍の指揮を執りつつ、黄金の茶室で茶会を催し、能を披露するなどしています。
慶長二年(1597)、明との和平交渉が決裂し、総勢14万の軍勢が出陣(慶長の役)。この時は秀吉が名護屋に入った記録はなく、諸大名も各所領から出陣したようです。翌年夏、秀吉が没すると全軍が撤収して帰国。名護屋城は約7年で廃城となりました。
江戸初期、名護屋城は破却されます。唐津藩主の寺沢広高は、唐津城の新築に名護屋城の部材を流用。仙台藩主の伊達政宗は、青葉城の大手門(仙台空襲で焼失)に名護屋城の本丸大手門を移築したとされます。また、島原の乱(1638)後、江戸幕府は、原城の二の舞になるのを恐れ、石垣の主要部分(隅角石など)を破却しました。
現在、名護屋城跡には、崩れた石垣や天守台が残っており、周辺の大名陣屋跡150余とともに国特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」に指定されています。
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