唐津・肥前唐津城
唐津城は、慶長十三年(1608)、初代唐津藩主・寺沢広高が築きました。
寺沢広高は、秀吉の側近で、朝鮮出兵では名護屋城の普請と兵站を担当。長崎奉行に取り立てられ、文禄の役(1592)後に改易された波多氏の所領唐津を八万三千石で拝領しました。
関ケ原(1600)の軍功で、肥後天草四万石を加増。しかし、重税に耐えかねた天草領民が蜂起し、島原藩主松倉氏の苛政に蜂起した島原領民と合流して「天草・島原の乱」(1637~38)に発展。
乱後、島原松倉氏は斬首改易。唐津寺沢氏は天草の領地を没収され、二代で改易。以降、譜代大名(大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏)が置かれ、明治維新まで続きました。ちなみに、大久保氏は、下総佐倉藩に八万三千石で転封し、老中首座に就いています。
唐津城は、海に面した平山城で、本丸に藩庁が、二ノ丸に御殿が、三ノ丸に藩士の屋敷がありました。築城には、旧名護屋城の資材も使われ、金箔瓦などが出土しています。天守台に天守はなく、現在の天守は伏見城を模した模擬天守(1966)です。
最上階から望む「虹の松原」(国特別名勝)は、新田開発を奨励した寺沢氏が防風・防塩のため植林したもの。手厚く保護し、許可なく伐採した者は死罪になったそうです。
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