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2024/07/29

唐津・名護屋城博物館

佐賀県立名護屋城博物館は、日本と朝鮮半島との交流史をテーマにしています。その中で、秀吉の朝鮮出兵と名護屋城についても詳しい展示があります。

Dsc_4899_3001 文禄の役(1592)

一番隊(小西行長ら1万8千)、二番隊(加藤清正ら2万2千)、三番隊(黒田長政ら1万1千)、四番隊(毛利吉成、島津義弘・豊久、秋月種長ら1万4千)、五番隊(福島正則ら2万5千)、六番隊(小早川隆景ら1万5千)、七番隊(毛利輝元の3万)、八番隊(宇喜多秀家の1万)、九番隊(羽柴秀勝、細川忠興ら1万1千)の総勢16万が名護屋から渡海。三方向から進軍し、首都・漢城を陥落させ、一時は半島北部の平壌まで到達。

民衆のゲリラ抗戦で補給線が寸断、朝鮮水軍に連敗し、明軍の援派で苦戦に。半島南部まで撤退し講和に持ち込むも、これに激怒した秀吉が豊後府内の大友氏、肥前唐津の波多氏、薩摩出水の島津氏を改易。講和は、日本・明とも「相手が降伏したがっている」と本国に虚偽報告していたため話が嚙み合わず、決裂。

2 慶長の役(1597)

一番隊(加藤ら1万)、二番隊(小西ら1万4千)、三番隊(黒田、毛利、秋月ら1万)、四番隊(鍋島直茂ら1万2千)、五番隊(島津義弘ら1万)、六番隊(長曾我部元親ら1万3千)、七番隊(蜂須賀家誠ら1万1千)、八番隊(宇喜多ら4万)、九番隊(小早川秀秋ら2万)の総勢14万が各領国から渡海。明・朝鮮連合軍と朝鮮水軍に阻まれ籠城戦に。慶長三年(1598)夏、秀吉が没すると全軍が撤退し帰国。

朝鮮出兵は、莫大な費用と兵力を損失し、諸将の不満と分断が生まれ豊臣政権は急速に支持を失いました。朝鮮には計り知れない惨禍を及ぼし、明は国力を消耗し弱体化して女真族(清)に滅ぼされる一因となりました。

写真は、秀吉水軍の主力軍船・安宅船(10分の1)。西国諸大名に建造させた大型船で、総矢倉形式の船体に二層の屋形を持っていました。

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