佐賀・大隈重信旧宅
佐賀城本丸の東、旧佐賀藩士の屋敷が並んでいた会所小路の一角に、大隈重信旧宅が残っています。
大隈家は、藩の鉄砲組頭を務めた上級武士でした。重信候(幼名は八太郎)は、天保九年(1838)、大隈家の長男に生まれ、藩校弘道館で儒学を学びました。青年期に枝吉神陽に国学を、宣教師の私塾で英語を学び、尊王派として活動。
明治元年(1867)、新政府に徴用され、長崎で外交問題を解決(30歳)。その後は参議、大蔵卿に就任。明治六年政変(征韓論争)では佐賀出身の先輩・江藤新平と袂を分かち、大久保利通を保佐して財政面で活躍しました。
国会開設を巡る明治十四年政変で一時下野し(43歳)、政党を結成。学問の独立を唱えて東京専門学校(今の早稲田大学)を創設。
50歳で第1次伊藤博文内閣の外務大臣となり、条約改正に取り組みますが、暗殺未遂で右足を失います。明治三十一年(1898)、初の政党内閣(隈板内閣)で首相に就任(60歳)。さらに大正三年(1914)、第二次内閣を組閣(76歳)。大正十一年(1922)、早稲田の自宅で没し、日比谷公園で国民葬が行われました(享年83歳)。
旧宅は、重信候が生誕~明治元年に東京に移るまで過ごした生家です。東京に移った後、重信候は3回ほど生家に戻ったことがあるそうです。もとの位置から二間ほど北方に引かれ、玄関や台所は改造されていますが、座敷など主要部は当時のまま残っています。
佐賀城下には武家屋敷がほとんど残っておらず、明治の元勲の生家としてはもちろん、佐賀の武家屋敷の様子を伝える貴重な例として、国史跡に指定されています。
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