江藤新平展
佐賀城本丸歴史館で開催中の特別展「江藤新平~日本の礎を築いた若き稀才の真に迫る」に行ってきました。
この特別展は、没後150年の今年、明治新政府で活躍した江藤の功績と人物像に着目し、江藤の視点で「佐賀の乱」を捉え直し、再評価を試みる企画です。
展示は「江藤の人物像」「江藤が残した功績」「江藤を取り巻く人間模様」「江藤を巻き込んだ佐賀戦争」の4テーマで構成。
下級藩士の家に生まれ、苦労して藩校弘道館で朱子学を、枝吉神陽から国学を、蘭学寮で洋学を学んだことが、幕末~明治維新で開花します。尊王攘夷から開国論に転じ、脱藩し京で尊王派と人脈を広げて帰藩。藩から永蟄居を命ぜられます。
維新後、明治新政府に出仕。東京奠都、三権分立と議会制、藩を廃した中央集権制、四民平等、公平な税制と予算の公開などを提言。文部大輔、左院副議長などを経て、明治五年(1872)、初代司法卿に就任。民の司直たるべきを目指し、民法典の編纂、政治と司法の分離、裁判所の新設、判事・検事・代弁人制度の導入など、日本の近代司法の礎を築きました。
しかし、新政府内の不正を相次いで摘発したことで、次第に政権内で疎んじられます。明治六年(1873)、参議となりますが、征韓論争で大久保利通らに敗れ、板垣退助らと下野(明治六年政変)。明治七年(1874)、民撰議院設立建白書を提出し、薩長閥による有司専制を強烈に批判しました。
この年、江藤は、佐賀の不平士族らを抑えるため帰郷。大久保は、佐賀県令を更迭し、熊本鎮台の陸軍を派遣。これに反発した不平士族らが決起し、江藤も戦わざるを得なくなります(佐賀の乱)。近代武装の官軍の前に潰走し、江藤は薩摩と土佐に決起を促しますが叶わず、官憲に捕縛。東京での公平な裁判を望んだ江藤を、大久保は佐賀に送り、弁明の機会を与えることなく、逆賊として斬罪梟首しました(享年40歳)。
江藤が復権したのは、大正五年。かつての盟友大隈重信が首相のとき、正四位を追贈されています。大隈は「江藤を失ったのは国家にとって甚大な損害で不幸」と述懐しています。
この特別展は、5月12日まで開催中です。
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