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2024/05/25

添田・英彦山神宮

福岡県と大分県の県境に位置する英彦山。奈良・大峰山、山形・羽黒山と並び日本三大修験道霊山に数えられます。

Dsc_4792_300中岳(標高1200m)は天忍穂耳尊(日子神=天照大神の子)の御神体とされ、古くは「日子山」と呼ばれ、平安期に嵯峨帝の詔により「彦山」と改めました。

修験道は、日本古来の神道と、インド起源の仏教と中国起源の陰陽道、山岳信仰の道教が習合した信仰です。修験者(山伏、行者)の修行は、古い自分と決別して生まれ変わるために集団で擬死再生の峰入を重ね、心身を鍛えて験力を獲得することで人々の希望を叶える、俗塵に染まった自己を心気一新し活力を得て日常に戻るなど、自己の胆力を鍛えることを目的としています。

彦山では、阿弥陀仏が日子神の姿を借りて出現した「彦山権現」として信仰されました(本地垂迹説)。

最盛期の中世には八百坊三千人が暮らしましたが、戦国期には多くの僧兵を抱え、豊前領主大友氏に攻められ焦土と化し、秀吉の九州征伐(1587)で寺社領を没収され衰退。江戸期に細川氏(豊前小倉藩主)や鍋島氏(肥前藩主)が再興し、江戸中期に霊元法皇の院宣により「英」の字を賜り「英彦山」と改称。九州総鎮守英彦山霊仙寺として栄え、元禄期には二百五十坊を数えました。明治の神仏分離で英彦山神社(昭和50年から神宮)となって現在に至り、近年では修験の再興に力を入れています。

参道の銅鳥居(1637)、中腹の奉幣殿(旧大講堂、1616)は国重文。奉幣殿のすぐ上に下津宮が、山頂に御本社(上宮、修復工事で閉鎖中)が祀られています。

参道の石段は約400段ですが、スロープカーで奉幣殿まで登ることができます(起点の幸駅は廃止、花駅(旧英彦山小学校)~神駅間のみ運行)。

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2024/05/11

八女・中央大茶園と茶の文化館

新茶のシーズンに、八女中央大茶園と茶の文化館(星野村)を訪ねました。

Dsc_4709_300全国茶品評会で最高評価を得ている福岡の八女茶。その生産量は全国のわずか3%で、八女地方のごく一部で大切に栽培されています。

八女地方で茶の栽培が始まったのは、室町中期ころ。明から帰国した栄林周瑞禅師が、黒木に霊巖寺を開き、持ち帰った茶の種を授け、栽培と製法を伝えたのが始まりとされます。

江戸中期には山間部の村々に生産が広まり、江戸後期に久留米藩と柳川藩が茶の製造を奨励して生産が拡大。幕末~維新期には長崎から英米へ輸出され、紅茶の製造も始まるなど、茶の生産量は飛躍的に増加しました。

明治~大正期に拡大した生産は、第二次大戦で減少。戦後、輸出の再開にともない生産が回復し、高度成長期(昭和40年代)に全国に需要が拡大。現在は輸出が好調で、海外では抹茶パウダーとしての需要が高いそうです。

茶は、ツバキ科ツバキ属のチャの木から作られます。摘み取った生のチャ葉に熱を加える製造過程で、酸化酵素による発酵の有無により、「緑茶」(不発酵茶)・「烏龍茶」(半発酵茶)・「紅茶」(発酵茶)の3つに大分類されます。さらに「緑茶」は、栽培方法や製造方法により、煎茶・玉露・かぶせ茶・てん茶(抹茶)・玉緑茶・番茶に細分されます。

茶の文化館(星野村)で茶について学び、お昼に新茶シーズン限定の「新茶葉の天ぷら」をいただきました。

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2024/05/07

佐賀・八太郎の勉強部屋

大隈重信旧宅の二階に残る八太郎(重信候の幼名)の勉強部屋。

Img_7407_300母・三井子さんが、八太郎の教育のため建て増したものです。
文机の前に座ると、居眠り防止の「ごっつん梁」、気が散らないよう外が見えない「腰高窓」など、母の厳しさと愛情が感じられます。

三井子さんは、八太郎が十二歳の時から女手ひとつで育てました。
喧嘩早い八太郎に「喧嘩の前に南無阿弥陀仏を十回唱えよ」と諭したといいます。

母の五つの教え(喧嘩をするな、人をいじめるな、いつも先を見て進め、過ぎたことを振り返るな、人が困っていたら助けよ)は、後の重信候の生き方に大きな影響を与えました。
重信候は、政治家として五つの信条(物事は楽観的に見よ、怒るな、愚痴を言うな、貪るな、世のために働け)と、教育や女性の社会進出を重視する考え方を貫きましたが、これは母の教育の影響が大きいと考えられています。

八太郎の勉強部屋は、建物保護のため通常非公開ですが、五のつく日=「ごっつんの日」のみ公開されています。

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2024/05/06

佐賀・大隈重信旧宅

佐賀城本丸の東、旧佐賀藩士の屋敷が並んでいた会所小路の一角に、大隈重信旧宅が残っています。

Img_7400_300大隈家は、藩の鉄砲組頭を務めた上級武士でした。重信候(幼名は八太郎)は、天保九年(1838)、大隈家の長男に生まれ、藩校弘道館で儒学を学びました。青年期に枝吉神陽に国学を、宣教師の私塾で英語を学び、尊王派として活動。

明治元年(1867)、新政府に徴用され、長崎で外交問題を解決(30歳)。その後は参議、大蔵卿に就任。明治六年政変(征韓論争)では佐賀出身の先輩・江藤新平と袂を分かち、大久保利通を保佐して財政面で活躍しました。

国会開設を巡る明治十四年政変で一時下野し(43歳)、政党を結成。学問の独立を唱えて東京専門学校(今の早稲田大学)を創設。

50歳で第1次伊藤博文内閣の外務大臣となり、条約改正に取り組みますが、暗殺未遂で右足を失います。明治三十一年(1898)、初の政党内閣(隈板内閣)で首相に就任(60歳)。さらに大正三年(1914)、第二次内閣を組閣(76歳)。大正十一年(1922)、早稲田の自宅で没し、日比谷公園で国民葬が行われました(享年83歳)。

旧宅は、重信候が生誕~明治元年に東京に移るまで過ごした生家です。東京に移った後、重信候は3回ほど生家に戻ったことがあるそうです。もとの位置から二間ほど北方に引かれ、玄関や台所は改造されていますが、座敷など主要部は当時のまま残っています。

佐賀城下には武家屋敷がほとんど残っておらず、明治の元勲の生家としてはもちろん、佐賀の武家屋敷の様子を伝える貴重な例として、国史跡に指定されています。

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2024/05/05

江藤新平展

佐賀城本丸歴史館で開催中の特別展「江藤新平~日本の礎を築いた若き稀才の真に迫る」に行ってきました。

20240505_300この特別展は、没後150年の今年、明治新政府で活躍した江藤の功績と人物像に着目し、江藤の視点で「佐賀の乱」を捉え直し、再評価を試みる企画です。

展示は「江藤の人物像」「江藤が残した功績」「江藤を取り巻く人間模様」「江藤を巻き込んだ佐賀戦争」の4テーマで構成。

下級藩士の家に生まれ、苦労して藩校弘道館で朱子学を、枝吉神陽から国学を、蘭学寮で洋学を学んだことが、幕末~明治維新で開花します。尊王攘夷から開国論に転じ、脱藩し京で尊王派と人脈を広げて帰藩。藩から永蟄居を命ぜられます。

維新後、明治新政府に出仕。東京奠都、三権分立と議会制、藩を廃した中央集権制、四民平等、公平な税制と予算の公開などを提言。文部大輔、左院副議長などを経て、明治五年(1872)、初代司法卿に就任。民の司直たるべきを目指し、民法典の編纂、政治と司法の分離、裁判所の新設、判事・検事・代弁人制度の導入など、日本の近代司法の礎を築きました。

しかし、新政府内の不正を相次いで摘発したことで、次第に政権内で疎んじられます。明治六年(1873)、参議となりますが、征韓論争で大久保利通らに敗れ、板垣退助らと下野(明治六年政変)。明治七年(1874)、民撰議院設立建白書を提出し、薩長閥による有司専制を強烈に批判しました。

この年、江藤は、佐賀の不平士族らを抑えるため帰郷。大久保は、佐賀県令を更迭し、熊本鎮台の陸軍を派遣。これに反発した不平士族らが決起し、江藤も戦わざるを得なくなります(佐賀の乱)。近代武装の官軍の前に潰走し、江藤は薩摩と土佐に決起を促しますが叶わず、官憲に捕縛。東京での公平な裁判を望んだ江藤を、大久保は佐賀に送り、弁明の機会を与えることなく、逆賊として斬罪梟首しました(享年40歳)。

江藤が復権したのは、大正五年。かつての盟友大隈重信が首相のとき、正四位を追贈されています。大隈は「江藤を失ったのは国家にとって甚大な損害で不幸」と述懐しています。

この特別展は、5月12日まで開催中です。

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