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2024/03/06

朝倉・秋月の乱

秋月は、明治初めの不平士族の反乱「秋月の乱」の地としても知られています。

Dsc_4423_300明治新政府内の対立で西郷隆盛が下野すると、不平士族らの不満は新政府の文治派に向かい、各地で反乱や反政府運動が起きました。

肥後の神風連、萩の前原派、筑前の秋月党は、三者同盟を結び、大君を惑わせる奸賊(文治派)排除を大義に反政府活動を展開。

明治九年(1876)、肥後で「神風連の乱」が起こると、呼応して秋月党約250人が決起。西福寺を本陣とし、今村百八郎を隊長に、かねて決起を約した豊前の旧豊津藩士らと合流して萩を目指すべく、小倉方面へ進軍を始めます。

これを察知した新政府は、旧豊津藩士らを拘束。小倉鎮台の陸軍(指揮官は乃木希典)を派遣し、秋月党を迎え撃ちます。豊津の戦いで、近代装備の新政府軍の前に秋月党は潰走。幹部7藩士は江川谷に逃れ、部下の助命嘆願を遺して自刃。隊長の今村は、残党を率いて秋月に戻り、討伐本部(秋月小学校跡)を襲撃しましたが、逮捕されて裁判で斬首刑となりました。

江川谷で自刃した一人、戸波半九郎の屋敷が秋月博物館隣地に残っています。戸波家は、初代藩主からの重臣で地行三百石。代々、馬廻組頭、鉄砲頭、中老職など藩の要職を務めた家柄です。

乱の後、屋敷は旧藩主家に引き取られ、別邸となりました。間取り、床の間、座敷、玄関式台など、旧秋月藩の上級武家屋敷の特徴を残しています。

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