天草・大江天主堂とパアテルさん
下島の西端、大江集落の天主堂へ。
大江集落も、禁教期に潜伏キリシタンとして独自の信仰を続けた集落です。
明治6年(1873)に禁教が解かれると、いち早くカトリックに復帰。パリ宣教会から神父を迎え、最初の教会(1879)を建てました。
大江集落には、明治中期~昭和初期まで、49年間にわたり大江教会の主任司祭を務めたガルニエ神父との絆が語り継がれています。
ガルニエ神父は、明治25年(1892)、32歳で自ら希望して辺境の大江に赴任。この地を愛し、天草方言を話し、貧しい人々と同じ食事をとり、綻んだ司祭服をまとい、質素倹約しながら布教活動に身を挺しました。貧しい人々や弱い人々に宗教の区別なく接する姿に、人々は「パアテルさん」(神父さんの意)と呼んで慕ったそうです。
明治40年(1907)、神父が47歳のとき、与謝野鉄幹が若い詩人4人(北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇)を連れて訪ねて来ます。パアテルさんに会おうと、富岡の港から丸1日歩いた様子を、紀行文「五足の靴」(東京二六新聞)に発表しています。北原白秋は、のちに「邪宗門」で潜伏キリシタンに触れており、彼らの作品に影響を与えました。
昭和8年(1933)、神父が73歳のとき、すべての私財を投じて、大江の信徒とともに現在の天主堂を建設。昭和16年(1941)に82歳で亡くなるまで、一度もフランスに帰らず、すべてを大江に捧げて天草の土に還りました。
ガルニエ神父は、最後に「墓石を作る金があったら、病人や困った人々に与えるように」と言い残しましたが、信徒たちはこの遺言に背きます。天主堂の西側にルドヴィコ・ガルニエ塔を建て、十字架に聖書の言葉「汝等ゆきて万民に教えよ」と刻み、敬愛する神父の教えを末代まで語り伝えています。
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