天草・崎津集落と教会堂
下島の崎津集落は、200世帯ほどの小さな漁村で、戦国期の領主天草氏が招いたアルメイダ神父により、早くから布教が進んだ地域でした。
島原の乱(1637)後、徳川幕府の弾圧で最後の宣教師が殉教(1644)し、国内に宣教師はいなくなりました。キリシタンは、密告を恐れて潜伏し、集落ごとに指導者の下で独自の信仰を続けることになります。
崎津集落では、仏教徒や神社氏子を装いながら、自作のメダルやアワビの貝殻を信心具とし、寺や神社で「あんめんりゆす」(アーメン、デウス)と唱えて祈りを捧げました。
文化二年(1805)、神社に降誕祭の牛肉を供えたことが密告され、潜伏が発覚。住民の7割(1710人)が摘発されました(天草崩れ)。幕府は、取調べの結果、信仰形態がキリスト教とあまりに異なるため、キリシタンでなく異宗を信仰する「心得違い」の者らとして扱い、信心具の没収と絵踏みに応じた人々を赦免しています。
禁教が解かれるのは明治6年(1873)。長崎に大浦天主堂が建ち、外国人宣教師が赴任すると、各地の潜伏キリシタンが信仰を告白。しかし、宣教師不在の230年間も独自の信仰を続けてきた人々は、カトリックに復帰する人、独自の信仰を続ける人(隠れキリシタン)、棄教して寺の檀家や神社氏子に戻る人に分かれました。
カトリックに復帰した集落では、信仰の証として自分たちの教会を建てました。崎津でも、明治21年(1888)に初代教会が建ちます(神社隣に旧修道院として残存)。現在の教会堂は、昭和9年(1934)の建築で、木造(一部鉄筋コンクリート造)の礼拝堂は珍しい畳敷きです。敷地は、厳しい弾圧が行われた旧吉田庄屋役宅跡で、絵踏みをさせた場所に祭壇を祀り、信仰の復活を示す象徴的な建物になっています。
湾口の岬(番所の鼻)では、海上マリア像が海の安全と豊漁を優しく見守っていました。
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