天草・富岡城跡
天草の最後に、天草一揆の激戦地・富岡城跡を訪ねます。
富岡城は、関ヶ原の功で天草四万二千石を領した肥前唐津藩主・寺沢広高が、慶長十年(1605)、天草支配の拠点として築いた支城です。
寛永十四年(1637)、寺沢氏二代35年にわたる圧政に天草の領民が一斉に蜂起(島原の乱)。城代三宅重利は藩兵1500人を率いて鎮圧に向かいますが、逆に討ち取られ、一揆勢が城に押し寄せました。
一時は落城寸前になりますが、天然の要害(陸繋島で海に囲まれた山の頂上)に阻まれ、一揆勢は撤退。対岸の島原勢と合流し、原城に籠城することになります。
乱後の寛永十五年(1638)、天草には備中成羽から山崎家治が四万石で入り、富岡藩となります。山崎氏は、乱で荒廃した城と城下町を整備し、植民と新田開発を進めました。
寛永十八年(1641)、山崎氏が讃岐丸亀に転封し、天草は天領となります。天草代官鈴木重昌は、飢饉で苦しむ領民のため、幕府に石高半減を建議するなど、善政で領民に慕われました。
寛文四年(1664)、天草に三河田原から戸田忠昌が二万一千石で入ります。戸田氏は、城と城下の整備を再開しますが、「天草は永久に天領たるべき」と幕府に建議し、自ら城を破却。寛文十一年(1671)、天草は再び天領となり、旧三の丸に陣屋が置かれ、明治維新まで続きました。
富岡城跡は、絵図面が残る山崎・戸田時代の城と石垣を復元。一揆勢の猛攻に耐えた城とは異なりますが、二の丸には寺沢時代の石垣の一部に乱の痕跡が残っています。
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大江集落も、禁教期に潜伏キリシタンとして独自の信仰を続けた集落です。
禁教期は潜伏キリシタンとして信仰を続け、仏教・神道・修験道と共存した独自の信仰が生まれました。
島原の乱(1637)後、徳川幕府の弾圧で最後の宣教師が殉教(1644)し、国内に宣教師はいなくなりました。キリシタンは、密告を恐れて潜伏し、集落ごとに指導者の下で独自の信仰を続けることになります。
コレジヨは、キリスト教の最高学府です。日本では、イエズス会の日本地区責任者ヴァリニャーノ神父が、織田信長の許可を得て、天正九年(1581)に豊後府内(大分)に初めて設置しました。
島原の乱(1637)の首領として知られる天草四郎ですが、その実像は謎のままです。
明治新政府内の対立で西郷隆盛が下野すると、不平士族らの不満は新政府の文治派に向かい、各地で反乱や反政府運動が起きました。
この地域は、鎌倉~戦国期に秋月氏が支配し、秀吉の九州征伐で小早川秀秋(筑前・筑後・肥前三十七万石)に与えられました。
この場所は、旧藩校「稽古館」の跡です。安永四年(1755)、藩士子弟の学問所として設立。八代藩主・長舒公の時、武道場を備えた文武両道の学校に拡張されました。儒学者・原古処のもと、藩政と経済を担う若者が多く巣立っています。
秋月は、旧秋月藩(福岡藩の支藩)の陣屋が置かれ、秋月黒田家五万石の城下として賑わいました。