太宰府・都府楼(大宰府政庁)跡
万葉集に「大君の遠の朝廷(とおのみやこ)」と詠われた大宰府。
飛鳥期、遣隋使の迎接のため置かれた筑紫大宰(つくしのおおみこともち)が起源とされます。
白村江の敗戦(663)後、水城〜古代山城(大野城・基肄城)防衛ラインの内陸部に移されました。
奈良期、律令制の下、平城京に次ぐ大都市として朝堂院式の官衙群と朱雀大路、条坊制の街区が整備されました。
大宰帥(長官)には都から高位の貴族が赴任。外国の賓客は、博多湾の鴻臚館から水城を通って大宰府に入り、政庁が朝廷に取り継ぎました。「西の都」として軍事・外交・西海道の内政を掌り、大宰府は繁栄を謳歌します。
「令和」の典拠となった大伴旅人(大宰帥、正三位)が自邸で梅花の宴を催したのもこのころです。
平安期になると、国風文化と中央の勢力争いで、都の貴族は地方への関心を失います。大宰帥も、親王が任命されるようになる(806~)と実際に赴任せず、政務は現地に任されました。
右大臣菅原道真が大宰権帥(次席)に左遷(901)されたときも、権限は何もなく、大弐(三席)以下の下級官人が実権を握っていたようです。
府官人の土着化と土豪の府官人化が進み、朝廷の支配が弱まり有力者は自衛のため武装。地方政治に武力集団の影響力が拡大します。刀伊の入寇(1019)では藤原隆家(大宰権帥、正二位)が九州武士団を率いて外敵を撃退しましたが、朝廷の対応は冷ややかでした。
平安末期、貴族に代わり源平の武士勢力が台頭。鎌倉幕府(武家政権)の成立により、律令制下の大宰府政庁も完全に廃絶したと考えられています。
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