太宰府・坂本八幡宮と大伴旅人
都府楼跡の北西に鎮座する坂本八幡宮は、戦国期に勧請されたと伝わり、応神天皇を祀っています。
この場所は、もとは大宰帥(長官)として赴任した大伴旅人(正三位)の公邸跡ではないかと推定されています(諸説あり)。
大伴旅人は、官僚であり武人であり、優れた歌人でもありました。
赴任後に詠んだ「やすみしし 我が大君の食(を)す国は 大和もここも 同じとそ思ふ」(巻六・九五六)、この地で妻を亡くした際に詠んだ「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」(巻五・七九三)、大納言として都に戻る際に詠んだ「ますらをと 思へる我や 水茎の 水城の上に 涙拭はむ」(巻六・九六八)など、数多くの歌が万葉集に収録されています。
天平二年(730)正月、大伴旅人は、自邸に大宰府の役人と九州各地の国司らを招き、梅の花(当時は唐から伝来した貴種とされた)を愛でながら、歌会を開きました(梅花の宴)。
「我が園に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも」(巻五・八二二)。
梅花の宴で詠まれた三十二首は万葉集に収録され、その冒頭に大伴旅人が記した序文の一節「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫ず」が、元号「令和」の典拠となりました。
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