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2024/01/28

世界遺産 大シルクロード展

福岡アジア美術館で開催中の「世界遺産 大シルクロード展」に行ってきました。

20240128_300日中友好45周年の記念企画で、シルクロードの世界遺産登録(2014)後、初めて中国国外で開催される大規模展です。

古代から東洋と西洋を結ぶ重要な交易ルートで、多様な民族と文化が融合したシルクロード。
今回、洛陽、西安、蘭州、敦煌、新疆など各地で発見されたシルクロードの至宝が来日。金銀宝飾、青銅器、ガラス、陶磁器、壁画、絵画、染織、経典、仏像など、中国の一級文物(国宝)45点が公開されています。

展示は第1部「民族往来の舞台~胡人の活動とオアシスの遺宝」、第2部「東西文明の融合~響き合う漢と胡の輝き」、第3部「仏教漸の遥かな旅~眠りから覚めた経典と祈りの造形」で構成。
隊商を組み砂漠を往来した胡人(騎馬遊牧民族)がもたらした金杯の造形。砂漠のアスターナ古墳群から出土した絹織物に、乾燥した砂漠のおかげで古代の繊維も朽ちずに残ることに驚きます。漢~唐、特に多民族国家だった唐時代の、西方の造形と唐風の装飾が融合した精緻な工芸品が目を引きました。

この企画展は、東京富士美術館と中国9省2自治区の27博物館・研究機関が協力。一級文物(紀元前8~11世紀)と、日本が遣唐使で学んだ唐の文化を体感できて、見応えがありました。

大シルクロード展は、福岡アジア美術館で3月24日(日)まで開催。その後、東北歴史博物館~愛媛県美術館~岡山県立美術館~京都文化博物館と巡回します。

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2024/01/21

山鹿・骨なし灯籠とよへほ節

「主は山鹿の骨なし灯籠、骨もなけれど肉もなし」(よへほ節)と歌われた山鹿灯籠。

20240120b_300精巧な金属製に見えますが、実は、和紙と糊だけで作り上げる繊細な手工芸品です(国伝統工芸品)。

江戸期、山鹿地方は楮(こうぞ)栽培が盛んで、手漉き和紙の特産地でした。紙細工の職人を、富商の旦那衆が援助して、技を競い合った結果、現在のような精巧な紙細工に発展しました。

山鹿灯籠は、大宮神社の祭礼(旧暦七月十六日)に奉納するため、灯籠師が制作します。金(かな)灯籠の他、神殿造り、座敷造り、城造りなどの種類があり、深夜に神社に奉納され(上がり灯籠)、展示された後、零時に灯籠殿に納められます(下がり灯籠)。

金灯籠を頭に載せて踊る「山鹿灯籠踊り」は、昭和29年(1954)、民俗学者三隅治雄の助言により「八瀬の赦免地踊り」(京都)に倣って誕生しました。

踊りで歌われる「よへほ節」は、野口雨情の作詞。「よへほ」の意味は肥後弁で「ほら、あなたもお酔いなさい」だとか。ゆるりとした歌と組み踊りが実に優美で、「山鹿灯籠まつり」(毎年8月15~16日)で披露されます(写真は八千代座にて撮影)。

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2024/01/20

山鹿・八千代座

旧豊前街道の宿場町に残る八千代座(熊本県山鹿市)を訪ねました。

20240120a_300明治43年(1910)の建築で、江戸期の歌舞伎小屋の様子を伝える数少ない例として国重要文化財に指定されています。

山鹿は、古くから温泉と参勤交代の宿場として栄えました。八千代座は、山鹿の明治三大改革(温泉改革、鉄道、劇場)の一つで、地元の富商(旦那衆)が劇場組合を作り、株を募って資金を捻出し完成。

明治~大正~昭和と、庶民の娯楽の中心だった歌舞伎や芝居の興行で賑わいました。
公演は、明治期の大歌舞伎・活動写真、大正期の浪曲・少女歌舞伎・芸術座の公演(松井須磨子のカチューシャ)、昭和期の新派劇・連鎖劇など、時代の流行を反映。

戦後は楽団やバイオリンの演奏会、淡谷のり子の歌謡ショーなど、わさもん(新しいもの好き)らしい公演も。昭和30年代に映画館に転用されますが、高度経済成長期には娯楽の多様化で映画も衰退。経営不振で廃業・閉館(昭和48年)後、使われないまま老朽化し、身売り話も出ていました。

地元の人々に保存の機運が高まり、転機が訪れます。松竹歌舞伎の一行が見学、国の文化財指定が決定、坂東玉三郎が公演に訪れるなど、その価値が再評価。平成の大修理(1996~2001)で、シャンデリアや天井広告などを復元し、最盛期(大正十二年当時)の華やかな姿が甦りました。今も坂東玉三郎の公演から地元小学生の演劇発表まで広く使われる現役の劇場です。

休演日には館内見学が可能。木戸口(テケツ)→花道→舞台→舞台裏(道具部屋・楽屋)→奈落(廻り舞台下の迫り・花道下のスッポン)→二階桟敷と巡り、構造がよく分かります。特に「八千代座物語」チケットは、館内見学と「灯籠踊り」公演がセットで楽しめてお勧めです(1日1回午前のみ限定)。

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2024/01/17

太宰府・水城(みずき)跡

白村江の大敗(663)で朝鮮半島から撤退したヤマト政権は、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れ、筑紫に防衛のため大堤(664)と古代山城(大野城、基肄城)を築き、博多湾の筑紫大宰(外交拠点)を内陸に移しました。

20240113e_300日本書記に「筑紫に大堤を築き水を貯え、名付けて水城という」と記された大堤は、長さ1.2km、幅(基底部)80m×高さ10m、外濠は幅60m×深さ4m。

博多湾から内陸へ通じる平野の最も狭い部分を遮断して、海からの外敵に備えました。
朝鮮由来の版築土塁工法で亡命百済官人が技術指導。最優先の国家プロジェクトとして大量の労働力を投入し、1年程度で築いたと考えられています。

奈良期、水城の内側に大宰府が置かれます。外交・軍事・西海道の内政を掌る政庁と、平城京に次ぐ条坊制の大都市が整備され「西の都」と呼ばれました。水城は大宰府の「関所」となり、外国の賓客は、博多湾の鴻臚館(迎賓施設)から水城(西門)を通り、大宰府の羅生門から朱雀大路で政庁へ向かいました。

平安期、朝廷の支配が弱まり、源平~武家政権の誕生で大宰府は事実上消滅。水城も荒廃しましたが、鎌倉期、元寇「文永の役」(1274)では西国の武士団が水城まで後退して抗戦。元軍の進軍を阻止しています。

明治期、九州鉄道(JR鹿児島本線)建設でカットされた土塁の断面が、JR水城駅近くに残っています(上の写真)。以降は貴重な国特別史跡を壊さないよう、御笠川で土塁が切れた部分に国道3号、九州高速道、西鉄天神大牟田線が集中。東門跡には、ガイダンス施設「水城館」があります。

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2024/01/16

太宰府・榎社(菅公館跡)

榎社は、かつて朱雀大路に面した大宰府南館(なんかん)の跡と伝わります。

20240113d_300都から赴任した官人の官舎で、菅原道真公が謫居した館として知られています。

道真公は、需家出身の学者で家格は低い貴族でした。文章博士や讃岐国司を務めた後、宇多天皇が重用。異例の出世を重ね、右大臣(従二位)に昇ります。

次の醍醐天皇は、側近の左大臣(正二位)藤原時平を重用。時平の讒言で、道真公は大宰権帥(次席)に左遷されました(901)。

都を発つ時、「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」と詠んで名残りを惜しみました。その梅の木は、一夜にして大宰府まで飛んできたと伝わり(飛梅)、太宰府天満宮の御神木となっています。

大宰府では流刑に等しく、外出も許されなかったようで、「都府楼は わずかに瓦色を看る 観音寺はただ鐘声を聴く」と詠んでいます。
見かねた浄妙尼(もろ尼御前) が、梅の枝に刺した餅を差し入れ世話をしたのが、梅ヶ枝餅の始まりと伝わります。

903年、失意のまま59才で亡くなり、その遺骸を運ぶ牛が伏して動かなくなった地に葬られました(今の太宰府天満宮)。

その後、都では時平の急死、宮中への落雷と触穢(公卿らの死)、醍醐天皇の崩御と凶事が続きます。道真公の祟りと恐れた朝廷は、右大臣(正二位)を贈り、北野天満宮に祀りました(947)。南館には、大宰大弐(三席)藤原惟憲が浄妙院を建立し(1023)、現在の榎社となりました。

毎年9月の太宰府天満宮神幸式大祭では、道真公の御霊が榎社に下り、境内の「浄妙尼祠」の前で着座後、「御旅所」で一晩を明かします。 

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2024/01/15

太宰府・観世音寺(府大寺)

続日本記によれば、天智天皇は、筑紫の地で崩御した母斉明天皇の菩提を弔うため、観世音寺と筑紫尼寺を建立しました。

20240113c_300観世音寺は、壬申の乱(672)の影響で鎮護国家の目的に変更。完成は天平十八年(746)でした。

奈良期、大宰府の「府大寺」として西海道の仏教の中心となりました。
鑑真が来日した際(753)、大宰府で入京の許可を待つ間、観世音寺で初めて僧に戒壇を授けています。「天下三戒壇」(奈良東大寺・下野薬師寺)の一つとして、西国中から僧侶が集まりました。

平安期、空海が唐から帰国した際(806)、入京の許可が出ず、数年間観世音寺に留め置かれています(留学期間を待たず帰国したため)。境内北西の堂宇に止宿したとされ、湧水「弘法水」が今の山号(清水山観世音寺)になっています。

南門・中門、講堂、西に金堂、東に五重塔、北に僧房を配し、多くの子院を擁した大寺も、律令制が揺らぐと官寺の権威も失われ、度々の火災と大風被害で衰退。平安後期には、人々の観音信仰の寺に変容した様子が源氏物語から伺われます。

近世、秀吉が九州征伐の際、別当の応対が怒りを買い、寺領を没収され廃寺の危機に。江戸期、藩主黒田氏が講堂・金堂と戒壇院を再建し、のち藩命により戒壇院を分離して現在に至ります。

寺宝として、平安後期の巨大な仏像群(宝蔵)の他、日本最古の梵鐘(国宝)があります(九州国立博物館に寄託)。

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2024/01/14

太宰府・坂本八幡宮と大伴旅人

都府楼跡の北西に鎮座する坂本八幡宮は、戦国期に勧請されたと伝わり、応神天皇を祀っています。

20240113b_300この場所は、もとは大宰帥(長官)として赴任した大伴旅人(正三位)の公邸跡ではないかと推定されています(諸説あり)。

大伴旅人は、官僚であり武人であり、優れた歌人でもありました。

赴任後に詠んだ「やすみしし 我が大君の食(を)す国は 大和もここも 同じとそ思ふ」(巻六・九五六)、この地で妻を亡くした際に詠んだ「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」(巻五・七九三)、大納言として都に戻る際に詠んだ「ますらをと 思へる我や 水茎の 水城の上に 涙拭はむ」(巻六・九六八)など、数多くの歌が万葉集に収録されています。

天平二年(730)正月、大伴旅人は、自邸に大宰府の役人と九州各地の国司らを招き、梅の花(当時は唐から伝来した貴種とされた)を愛でながら、歌会を開きました(梅花の宴)。

「我が園に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも」(巻五・八二二)。

梅花の宴で詠まれた三十二首は万葉集に収録され、その冒頭に大伴旅人が記した序文の一節「時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫ず」が、元号「令和」の典拠となりました。

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2024/01/13

太宰府・都府楼(大宰府政庁)跡

20240113a_300万葉集に「大君の遠の朝廷(とおのみやこ)」と詠われた大宰府。

飛鳥期、遣隋使の迎接のため置かれた筑紫大宰(つくしのおおみこともち)が起源とされます。
白村江の敗戦(663)後、水城〜古代山城(大野城・基肄城)防衛ラインの内陸部に移されました。

奈良期、律令制の下、平城京に次ぐ大都市として朝堂院式の官衙群と朱雀大路、条坊制の街区が整備されました。
大宰帥(長官)には都から高位の貴族が赴任。外国の賓客は、博多湾の鴻臚館から水城を通って大宰府に入り、政庁が朝廷に取り継ぎました。「西の都」として軍事・外交・西海道の内政を掌り、大宰府は繁栄を謳歌します。
「令和」の典拠となった大伴旅人(大宰帥、正三位)が自邸で梅花の宴を催したのもこのころです。

平安期になると、国風文化と中央の勢力争いで、都の貴族は地方への関心を失います。大宰帥も、親王が任命されるようになる(806~)と実際に赴任せず、政務は現地に任されました。
右大臣菅原道真が大宰権帥(次席)に左遷(901)されたときも、権限は何もなく、大弐(三席)以下の下級官人が実権を握っていたようです。

府官人の土着化と土豪の府官人化が進み、朝廷の支配が弱まり有力者は自衛のため武装。地方政治に武力集団の影響力が拡大します。刀伊の入寇(1019)では藤原隆家(大宰権帥、正二位)が九州武士団を率いて外敵を撃退しましたが、朝廷の対応は冷ややかでした。

平安末期、貴族に代わり源平の武士勢力が台頭。鎌倉幕府(武家政権)の成立により、律令制下の大宰府政庁も完全に廃絶したと考えられています。

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2024/01/09

朝倉・恵蘇八幡宮と御陵山

恵蘇八幡宮(朝倉市恵蘇宿)は、朝倉地域の総社で、応神天皇、斉明天皇と天智天皇を祀っています。

202401bbb_300創建は、661年、斉明天皇とともに朝倉橘広庭宮に下った中大兄皇子が、国家安泰・戦勝祈願のため宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わし、この地で天から「八幡大神」の白幡が降りたので天降八幡なる宮社を祀ったのが始まりとされます。

673年、天武天皇の命により斉明天皇と天智天皇を合祀して恵蘇八幡宮と称しました。

日本書紀によれば、斉明天皇は遷幸後まもなく橘広庭宮で崩御し、七日後に朝倉の山上に仮に葬られ、中大兄皇子が山麓で十二日間の喪に服し、飛鳥に戻って葬られました。

中大兄皇子は、母帝を失った悲しみを「秋の田の かりほの庵の苫をあらみ 我が衣手は露にぬれつつ」(秋の田(地名)に、殯(もがり)のための簡素な仮庵を建て、涙で衣の袖を濡らしている)と詠んでいます(小倉百人一首の筆頭歌)。

恵蘇八幡宮の社殿の裏山(円墳)に、斉明天皇を仮葬した「御陵山」と中大兄皇子が服喪した「木の丸殿跡」が伝承されています。

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2024/01/08

朝倉・橘広庭宮跡

斉明天皇の朝倉橘広庭宮跡(福岡県朝倉市)を訪ねました。

20240108a_300斉明天皇は、夫の舒明天皇の崩御により、皇極天皇として即位(642-645)。「大化の改新」で弟の孝徳天皇に譲位しますが、孝徳天皇の崩御で重祚し、斉明天皇(655-661)となりました。中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)の母君でもあります。

660年7月、新羅・唐連合に滅ぼされた百済は、再興のため倭に救援を要請。これを受け、倭(ヤマト政権)は援軍派兵を決定します。

661年1月6日、斉明天皇は、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足らとともに、難波の津から海路筑紫へ出発。1月14日に石湯行宮(伊予)、3月25日に那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)を経て、5月に朝倉橘広庭宮に遷幸しました。

派兵のさなか、7月24日に病で崩御(68歳)。8月1日に恵蘇の山稜に仮葬され、中大兄皇子は山の仮小屋で12日間の喪に服しました。亡骸は海路難波に戻り、飛鳥で葬られました。派兵の指揮は中大兄皇子が引継ぎましたが、663年8月に白村江の戦で大敗することになります。

橘広庭宮の正確な場所は不明で、江戸期の儒者貝原益軒が記した伝承地に「橘廣庭宮之蹟」碑が建っています。地元では、奈良~平安期の大寺院跡が出土しており(長安寺廃寺跡)、天智天皇が母帝を弔うため橘広庭宮の跡に建立したとされる筑紫尼寺ではないかと云われています。

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