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2023/10/29

久留米ちくご大歌舞伎

久留米シティプラザで開催された「久留米ちくご大歌舞伎」を撮影。

20231029久留米歌舞伎とのつながりは、260年前、七代藩主有馬頼徸が五穀神社建立の際、歌舞伎の興行が行われたと伝わります。

市民による公演は昭和45年(1970)に始まり、今回はコロナ禍で4年ぶり50回目の節目公演です。

演技指導は人間国宝の二代目中村又五郎丈(1979~2008)、十代目坂東三津五郎丈(2009~2014)と受け継がれ、現在は二代目松本白鸚丈が監修。市民による本格歌舞伎で、舞踏家の花柳貴答さん・花柳津祢里さんが稽古を付けています。

この日の演目は「菅原伝授手習鑑(車引)」「白浪五人男(稲瀬川勢揃いの場)」「双蝶々曲輪日記(角力場)」「御楽歌舞伎吹寄(二人藤娘、三人吉三巴白浪(大川端庚申塚の場)、末広がり)」。演者は小学生~80代までの50人で、稽古は6月から始め、2週間前に合同稽古を行いました。

本番は、本格的な舞台道具と衣装、素人とは思えない熱演で、驚いたり感心したり。台詞を間違える場面も、市民歌舞伎ならではのご愛敬です。

かつて各地で盛んに行われた農村歌舞伎・市民歌舞伎は、時代の流れとともに徐々に姿を消しました。この大歌舞伎は、幅広い市民が参加して末永く続いて欲しいと思いました。

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2023/10/28

山鹿・熊本県立装飾古墳館

「装飾古墳」は、古墳時代後期(4世紀末~7世紀)に北部九州を中心に見られる古墳の形態です。

20231028壁や石棺に、浮彫や線刻、彩色で幾何学的・抽象的な文様を描くのが特徴です。

石棺系(石棺に線刻)、石障系(石の障壁に線刻や彩色)、壁画系(石室の壁面に彩色文様)、横穴系(横穴入口の外壁に浮彫)に分類されます。

ヤマト王権の古墳には見られない特徴で、磐井の乱(527)で九州豪族連合がヤマト王権に屈した後、九州独自の墳墓(古墳に石人石馬を飾る)が否定され、反発した九州豪族が新たな墳墓の装飾文化を生み出したと考えられています(通説)。

近年は、石室の構造の違いなどから、九州では「飾られた死者」を見せることで権威付け、畿内では死者を見せないこと(隠された死者)で権威付ける、死生観の違いとする説も有力です。

古墳時代は、終末期に畿内で「壁画古墳」(大陸的な人物画を描いた高松塚古墳・キトラ古墳)が出現した後、大化の薄葬礼(646)で終焉を迎えます。

熊本県立装飾古墳館は、県内の装飾古墳の石室を原寸大で復元。普段は見ることのできない石室内の雰囲気を体験でき、被葬者になった気分が味わえます。

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2023/10/23

山鹿・鞠智(くくち)城

鞠智(くくち)城(熊本県山鹿市)は、7世紀後半にヤマト政権が肥国(ひのくに)に築いた古代山城の一つです。

20231023築城時期や目的は文献がなく不明ですが、白村江の戦(663)で敗れたヤマト政権が、唐・新羅の来襲に備えて、太宰府を内陸に移し、筑紫に水城を築いて防人を置き、大野城(福岡)、基肄城(佐賀)を築いたのと同じころ、両城の兵站基地として築いたと考えられています。

菊鹿盆地を抱く標高140mの丘陵に、周囲3.5kmの土塁(一部は版築)と3つの城門、水門、貯水・貯木池跡、建物跡(掘立柱・礎石群)が発見されました。国内の古代山城では初の八角形建物跡、軒丸瓦、百済系仏像が出土。百済の亡命官人の関与が推認されています。

城は、古代山城としては異例の300年間(7世紀後半~10世紀後半)も続きました。この間、太宰府防衛の兵站基地(7世紀後半)から、倉庫群を伴う官衙(8世紀)へ、最後には大型倉庫群(8世紀後半~)に役割が変化しています。

唐との外交が回復して国防の要がなくなり、南九州支配(隼人対策)に重点が移り、隼人が服属した後は、律令制下の徴税(米)倉庫・非常時の備蓄施設として使われ、平安末期に廃されたと推測されます(諸説あり)。

城跡は歴史公園として整備され、ガイダンス施設のほか、防人兵舎と板倉(武器庫)・八角形建物(鼓楼)・米蔵を当時の工法で復元。平成16年、国史跡に指定されています。

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2023/10/07

特別展「古代メキシコ」

九州国立博物館で開催中の特別展「古代メキシコ 」展に行ってきました。

20231007BC1500年のオルメカ文明に始まり、1697年にマヤ文明がスペイン侵攻で滅びるまで、3千年以上も栄えたメキシコの古代都市文明。

この特別展では、代表的な文明として、マヤ(BC1200~1697)、テオティワカン(BC100~550)、アステカ(1325~1521)の3つに焦点をあてて紹介しています。

火山の噴火や地震、干ばつ、他国との戦争など厳しい環境の中で、人々は神に祈り畏怖しながら、天文・暦法・文字を発達させ、王墓や神殿、ピラミッドなど壮大な建造物を築きました。

各文明が育んだ独自の世界観と造形美を伝える約140点の至宝が来日。特に、マヤの都市国家パレンケの黄金時代を築いたパカル王朝(615~683)の妃「赤の女王」(レイナ・ロハ)の副葬品は、日本初公開です。

古代メキシコ文明の奥深さと魅力に迫った展覧会で見応えがありました。この日は夜間開館で人も少なく、じっくりと見ることができました(場内は写真撮影可)。

この特別展は、東京、福岡、大阪の巡回展で、九州国立博物館では12月10日(日)まで開催中です。

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2023/10/04

南島原・原城跡と島原の乱

原城は、慶長九年(1604)、領主・有馬晴信(キリシタン大名)が築いた日野江城の支城です。

20231001d三方を有明海に囲まれた天然の要害に、二の丸、三の丸、鳩山出丸、天草丸など中世的な土曲輪と、本丸は石垣に隅櫓・三層櫓・多聞櫓を巡らし、櫓門を設けた近世的な造りでした。

晴信は慶長十七年(1612)に失脚。その子直純も日向延岡に転封となり、元和二年(1616)、新たな領主として松倉重政が入封。元和四年(1618)、島原城を築いて本拠を移し、原城は廃城となりました。

島原・天草地方は、キリシタン大名の庇護で宣教の拠点となり、領民の多くがキリシタンでした。晴信の失脚と幕府の禁教令(1612)以降、キリシタン大名はいなくなり、厳しい弾圧の下、改宗する者と密かに信仰を続ける者に分かれていきました。

松倉氏は、城普請に領民を総動員し、苦役と重い年貢(九公一民)を課し、飢饉でも容赦せず、払えない者は家族まで処刑。さらには、キリシタンを蓑に巻いて火を付けたり、雲仙地獄で逆さ吊りのまま熱湯漬けにするなど、弾圧は残虐を極めました。

松倉氏二代の圧政に耐えかね、寛永十四年(1637)、農民・キリシタンが蜂起(島原の乱)。一揆勢は、天草四郎を首領として、村ごとに組織的に戦い、最後は原城に集結して籠城しました(各地のキリシタン蜂起とポルトガル船の援軍を期待したとも云われています)。

幕府は板倉重昌を派遣し、九州諸大名の連合軍で原城を力攻めにしますが、功を焦った重昌は大損害を出して戦死。新たに派遣された老中松平信綱は、12万の大軍で原城を兵糧攻めにしました。籠城4か月、兵糧・弾薬が尽きた一揆勢は、幕府軍の総攻撃で全滅。双方の死者は3万数千人(一揆勢2万数千人、幕府軍1万人)とも云われます。

乱後、松倉勝家は失政を問われ斬首改易。原城は二度と使えないよう徹底的に破壊され、一揆勢の亡き骸ごと地中に埋められました。

この乱をきっかけに、幕府は禁教・鎖国政策を強化。この後、キリシタンは人目を避けて仏教や神道を装いながら、外国人宣教師不在の中、それぞれの集団で独自の信仰を守りながら暮らす、「潜伏キリシタン」に変容していきます。

原城跡は、潜伏キリシタン始まりの場所として、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つに登録されています。

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2023/10/03

南島原・有馬キリシタン遺産記念館

島原のキリシタン史は、戦国期の領主・有馬氏に始まります。

20231001c戦国期、九州北部の諸大名は、南蛮貿易で得る富と武器の見返りに、宣教師の布教を許しました。

島原の領主・有馬晴信は、勢力を拡大する佐賀・龍造寺氏との領地争いが絶えず、南島原(口之津)に来航する南蛮船との貿易に活路を求めます。

自らも洗礼を受けキリシタン大名となり、織田信長の許可を得て、セミナリヨ(神学校)を建設。遣欧少年使節(1582)を派遣するなど、熱心に宣教に協力(逆に、領内の寺社を破壊して弾圧しています)。沖田畷の戦(1584)では、宿敵・龍造寺氏を破り、戦勝に感謝して領地の浦上村(長崎)をイエズス会に寄付しています。

豊臣秀吉は、布教による植民地化を警戒。伴天連追放令(1587)で宣教師の国外退去を命じます。晴信は、秀吉の九州平定や朝鮮出兵に臣従しつつ、追放された宣教師、セミナリヨやコレジヨの神学生を領内に受け入れ保護しました。

徳川家康も、当初は貿易を重視し、宣教を黙認。晴信は、家康の許可を得て、日野江城下に大天主堂を建設(1600)。また原城(1604)も完成し、幕府から朱印船貿易の許可を得て、東南アジアと交易するなど繁栄を謳歌しました。

宣教の拠点となった島原・天草地方では、領民の多くがキリシタンでした。晴信の突然の失脚(1612)で庇護者を失った島原のキリシタンは、これ以降、幕府の厳しい禁教令の下、長い弾圧の時代を迎えることになります。

この記念館は、有馬氏に始まるキリシタン史の光と陰を「南島原の繁栄とキリシタン文化」と「キリシタン弾圧と島原天草一揆」の2テーマに分けて展示・解説。原城跡を訪れる前に通史を俯瞰でき、理解が深まりました。

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2023/10/02

島原・武家屋敷

島原城外に残る武家屋敷を散策。

20231001b島原の城と城下を整備した松倉氏は、城の周囲に上級藩士を、その外側に下級藩士をまとめて住まわせました。

下級藩士の住む地区は、7つの町筋が碁盤の目のように整備され、扶持取り七十石以下の徒士屋敷が690戸ありました。一軒は約90坪の敷地に建坪約25坪の藁ぶきで、隣家とは塀がなく丸見えだったそうです。

城に近い方から下ノ丁、中ノ丁、古丁(ここまで松倉氏時代)、下新丁、上新丁、新建、江戸丁、新屋敷と呼ばれました。
現在残っているのは下ノ丁と江戸丁の一部で、石垣の町筋と山本邸(砲術師範)、篠塚邸(祐筆)、鳥田邸(材木奉行)の三邸(いずれも松平氏時代)が公開されています。

町筋の中央を流れる水路は、水の権現(温泉熊野神社)から引いた清水で、飲み水にも使われ、水奉行が管理して大切にされていました。

武家屋敷地区への入口には、島原藩を立て直した松平氏初代忠房公が「民に時刻を知らしめ、これを励行せしむることは政治の要道である」として、延宝三年(1675)に造らせた「時鐘楼」(復元)があります。

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2023/10/01

島原・肥前島原城

長崎県の島原半島は、戦国期にキリシタン大名の有馬氏が、布教と南蛮貿易を奨励して栄えました。江戸初期、大和五條から移った松倉重政は、新たに島原城を築き、城下町を整備しました。

20231001a新しい城は、南北に本丸、二の丸、三の丸を配し、堀と石垣で固め、五層の天守と3つの三層櫓、7つの二層櫓を練塀で囲み、四万石の小大名には過分の城構えでした。

松倉氏は、城普請に領民を総動員し、苦役と重い年貢(九公一民)を課し、払えないと家族まで処刑する苛政に加え、徹底的にキリシタンを弾圧。圧政が「島原の乱」(1637)につながり、二代松倉勝家は責任を問われ斬首改易となりました。

城は、松倉氏二代・高力氏二代・松平氏五代・戸田氏二代・再び松平氏八代の四氏十九代の居城として、明治維新まで続きました。
松平氏六代忠恕のとき、「寛政の大地震」(1792)で普賢岳が噴火し、眉山が崩壊して城下町を埋めましたが、城は倒壊せず耐えています。

城は明治に破却され、現在の天守は昭和39年(1964)の再建。内部は、キリシタン資料、松平家関連資料などを展示しています。本丸には、西の櫓、巽の櫓(西望記念館)、丑寅の櫓(民具資料館)が再建され、旧三の丸から御馬見所が移築されています。

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