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2023/09/09

福山・備後福山城

西国一と謳われた福山城(広島県福山市)を訪ねました。

20230909a元和五年(1619)、安芸広島藩五十万石の福島正則が改易となり、備後には徳川家康の従兄弟で「鬼日向」と恐れられた水野勝成が十万石で入封しました。

居城は、九州~中四国地方にひしめく有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として、江戸幕府の威信をかけて、五重の天守と7つの三重櫓に多聞櫓を巡らせ、城内に伏見城から御殿や建物を移築して、十万石の大名としては破格の規模(百万石クラス)となりました。

勝成は、城下町に上水道を引いて整備し「福山」と命名。いぐさや綿花、塩の生産など地場産業を奨励し、鞆の浦など瀬戸内の水運を通じて城下は大変賑わいました。
水野家は五代(80年間)で無嗣改易。福山藩は、天領~松平家一代(10年間)〜阿部家十代(162年間)と続き、明治維新まで存続しました。

阿部家七代藩主の阿部正弘は、26歳で幕府の老中首座(今の内閣総理大臣)に就任。日米和親条約を締結して開国し、講武所(陸軍)、長崎海軍伝習所(海軍)、洋学所(東京大学)を設立して人材を育成するなど、安政の改革で知られます(39歳で急逝)。

福山城は、明治維新後も破却を免れ、国宝として市民に親しまれましたが、終戦直前の福山大空襲で焼失。現在の天守、月見櫓、御湯殿は昭和41年(1966)の再建です。戦災を免れた伏見櫓、筋鉄御門は国重文に指定されています。
令和の大普請(2022)で、天守北側の総鉄板張り外壁(全国唯一)が再現されました。

次は、旧三の丸にある広島県立歴史博物館へ向かいます。

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