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2023/09/25

糸島・伊都国歴史博物館

伊都国歴史博物館(福岡県糸島市)を訪ねました。

20230923c伊都国は、弥生時代に存在した国の一つで、糸島地方に王都があったと考えられています。

魏志倭人伝(3世紀末)は、伊都国につき、邪馬台国への陸行ルートの途中にあり、代々王が治め、卑弥呼に服属し、その役人が諸国を検察し、大陸郡使が常駐すると記しています。

糸島平野の南部(旧怡土地域)、三雲伊原地区では、弥生中期(紀元前1世紀)~末期(2世紀末)の王墓が複数確認されています。

三雲南小路王墓(弥生中期)では、多数の中国製銅鏡、ガラス壁、金銅製四葉座金具が出土。威信財の多さから初期の伊都国王と王妃の墓と考えられています。付近から、楽浪土器や石硯(いずれも弥生後期)が発見され、文字を使う渡来人の存在が推認されます。

平原王墓(弥生末期)では、日本最大の大型銅鏡(内行花文鏡、直径46.5cm)5枚を含む多数の銅鏡、鉄剣、瑠璃管、耳璫(耳飾り)が出土。装飾品の内容から、伊都国女王の墓と考えられています。

中国の史書によれば、弥生末期以降、倭国では大乱が起き、卑弥呼が王に共立されて治まった(3世紀)とあります。魏志倭人伝の記述からは、伊都国は、卑弥呼に服属した後も、邪馬台国連合の重要な国として続いた様子が窺えます。

平原王墓の出土品(一括して国宝に指定)は、伊都国歴史博物館で常設展示されています(写真は国宝「方格規矩鏡1号鏡」)。

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2023/09/24

糸島・桜井二見ヶ浦

今津の元寇防塁から、糸島の桜井二見ヶ浦(福岡県糸島市)へ。

20230923b夕陽百選にも選定された桜井二見ヶ浦の夫婦岩は、インスタ映えで人気の観光スポットです。

この夫婦岩は、山上にある櫻井神社の宇良宮(うらみや)です。向かって右(男岩)にイザナギノミコトが、左(女岩)にイザナミノミコトが鎮座する御神体とされています。

櫻井神社は、寛永九年(1632)、福岡藩二代藩主黒田忠之が社殿を寄進して創建。御祭神は、神直日神(かむなおひのかみ)と大直日神(おおなおひのかみ)、八十枉津日神(やそまがつひのかみ)を祀ります。

イザナギノミコトが黄泉の国から戻り、禊をして穢れを流した際、汚れた垢から八十枉津日神が、禍を直す神として神直日神と大直日神が生まれたので、禍除けの神様として信仰されています。

夫婦岩をつなぐ大注連縄は、長さ30m、重さ1t。年1回、4月下旬~5月上旬の大潮の日に、大注連縄掛祭で氏子の皆さんが縄を張り替えます。夏至の日には、伊勢・二見ヶ浦の夫婦岩から朝日が昇り、桜井二見ヶ浦の夫婦岩に夕陽が沈むと云われています。

観光客で混雑する二見ヶ浦を早々に引き上げ、伊都国歴史博物館へ向かいます。

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2023/09/23

福岡・今津の元寇防塁

博多湾の今津元寇防塁(福岡市西区)を見学。

20230923a文永十一年(1274)、元軍は博多湾に上陸し、鎌倉幕府軍と激戦を繰り広げました(文永の役)。
幕府は、再度の元の来襲に備えて、九州の御家人(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・日向・大隅・薩摩の9か国)に命じ、約6か月で博多湾の西部(今津)~東部(香椎)まで20kmにわたり石築地(元寇防塁)を築き、警備を固めました。

御家人は、所領の大きさに応じて築造を分担(田一反につき一寸)。西の端に当たる今津の防塁は、大隅と日向の御家人が担当し、最も長い3kmが築かれました。
幅3m・高さ3mに石を積み上げ、西側は花崗岩で内部は砂、東側は玄武岩で内部も石と、担当した国によって構造が違います。

玄界灘の強い波と風で、天端まで砂に埋まり松林になっていますが、一部(200m)が発掘の上、復元されています。

弘安の役(1281)では、元軍は元寇防塁や御家人の奮戦に阻まれ、博多の地には上陸できませんでした。

博多湾岸には、元寇防塁が8か所残っています。今津の防塁は、大正2年(1913)に発掘され、昭和6年(1931)に国史跡に指定されています。

次は、糸島の二見ヶ浦へ向かいます。

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2023/09/17

熊本・田原坂と西南戦争

田原坂は、豊岡の眼鏡橋から一の坂~三の坂まで1.5kmほどの切通しです。この一帯は、西南戦争の激戦地となりました。

20230916b明治新政府の急激な改革は、旧士族の特権や経済基盤を奪い、不平士族による反乱が頻発。

最大勢力の薩摩を危険視する新政府との対立が激化し、明治十年(1877)、薩摩の旧士族らが西郷隆盛を盟主として挙兵します(2月14日)。新政府は、賊徒として討伐軍を派遣。九州西南部で両軍が激しく衝突しました(西南戦争)。

薩軍は、北上の途中、新政府の陸軍熊本鎮台(熊本城)を包囲して猛攻。鎮台の政府軍は劣勢ながら籠城し、持久戦に持ち込みます。

官軍の主力は、博多から南下して三池往還の田原坂を通り熊本に入るルートを進軍。これを予測した薩軍は、主力を熊本城から田原坂に移し、官軍を迎え撃ちます。

3月4日に始まった田原坂の攻防は、激しい銃撃戦と抜刀による白兵戦で一進一退。当初は、士気が高く、白兵戦に長けた薩軍が優勢に展開。戦いが長引くにつれ、近代的な武装と兵力数、補給に勝る官軍が、徐々に押し返します。
3月20日早朝、雨の中、官軍が田原坂の薩軍本営に総攻撃を決行。兵も弾薬も消耗していた薩軍は、不意を突かれて懸命に応戦しますが、各隊が徐々に潰走。田原坂で敗れた薩軍は熊本から撤退し、以降、九州各地で敗走することになります。

西南戦争は、薩摩城山で西郷が自刃して終結(9月24日)。戦死者(官軍6843人、薩軍6784人)の4分の1が田原坂の攻防で命を落としたと云われます。

現在、田原坂には、田原坂西南戦争資料館と慰霊塔が建ち、激しい銃撃戦を物語る土蔵が復元されています。

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2023/09/16

熊本・肥後熊本城と加藤清正

熊本城は、肥後の戦国大名加藤清正が築きました。

20230916a加藤清正は、尾張中村の鍛冶の家に生まれ、幼少期から同郷の羽柴秀吉の小姓として仕えました。
秀吉側近の武将として頭角を現し、「賤ケ岳の七本槍」(1583)と恐れられ、「小牧長久手の戦」(1584)、九州征伐(1587)、朝鮮出兵に参戦しています。

肥後は、九州征伐の功労で佐々成政が拝領しましたが、国人一揆で失脚。一揆を鎮圧した加藤清正に北半分(隈本25万石)が、小西行長に南半分(宇土24万石)が与えられました。

関ヶ原の戦(1600)では、九州諸大名が西軍につく中、東軍として参戦。関ヶ原には参陣せず、九州に留まって西軍大名の留守領(小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城など)を陥落させます。その功績により肥後一国五十二万石の大々名となりました。

城は、慶長十二年(1607)に完成し、同時に地名を「熊本」に改称。近江の石工集団(穴太衆)の技術を駆使した急傾斜で高い石垣、多数の櫓を巡らせ、複雑な経路で本丸への侵入を阻む難攻不落の城となりました。
加藤家は二代(32年間)で行状不良により改易。熊本藩は、細川家十二代(240年間)が明治維新まで続きました。

明治十年(1877)の西南戦争では、薩軍が熊本鎮台(熊本城)を猛攻。鎮台の政府軍は劣勢ながら籠城して耐え抜きましたが、この戦いで天守閣と本丸御殿を焼失。城下の町も焼野原になりました。撤退する西郷隆盛は「(政府軍にではなく)清正公に負けた」と言ったとか。

現在の天守は、昭和35年(1960)の再建。熊本大地震(2016)で城内の建物・石垣が大きな被害を受け、30年計画で復興が進められています。

次は、西南戦争の分岐点となった田原坂に向かいます。

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2023/09/11

総社・鬼ノ城(きのじょう)

吉備の国に鬼ノ城(岡山県総社市)を訪ねました。

20230910古代吉備の中心だった総社平野を見下ろす標高400mの山頂に築かれた古代山城です。

史書に記載がなく、誰がいつ何のために築いたのか不明とされ、5~6世紀に吉備豪族が築いたとする説や、7世紀後半にヤマト王権が築いたとする説など諸説あります。

5~6世紀とすれば、ヤマト王権が西日本~九州の豪族を平定して統一を進め、九州で「磐井の乱」(527)が起きた時期です。
また、7世紀後半とすれば、倭が朝鮮半島で白村江の戦(663)に大敗し、唐・新羅連合軍の来襲に備えて、大宰府を内陸に移し、筑紫に水城を築いて防人を置き、金田城(対馬)、大野城(福岡)、基肄城(佐賀)、屋嶋城(香川)に朝鮮式山城を急ぎ築城した時期と重なります。

山の八~九合目にかけて、断崖に築かれた城壁、4つの城門、6つの排水門、広大な城域に貯水池跡、鍛冶炉跡、建物の礎石群が見つかり、大規模な神籠石系山城の存在が確認されたのは昭和53年(1978)のこと。

平成16年(2004)、西門の楼閣(推定)と左右の版築土塁、角楼が復元され、古代の姿が蘇りました。西門から反時計回りに城壁を歩くと、南門跡~東門跡~屏風折れの高石垣~北門跡の全周約2.8kmを約2時間で一周できます(アップダウンが激しい荒れ路で、足が棒になりました)。

吉備地方には、吉備津彦命が温羅という鬼を退治した伝承が残ります(桃太郎伝説)。巨大な岩だらけの鬼ノ城は、ひょっとしたら鬼(温羅)の館だったのでは…と思わせるロマン漂う場所でした。

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2023/09/10

福山・草戸千軒(中世の集落遺跡)

旧三の丸にある広島県立歴史博物館に、川底に埋もれた幻の中世集落「草戸千軒」の痕跡を訪ねました。

20230909b「草戸千軒」は、鎌倉~室町初期まで存在した集落です。江戸期には「洪水で滅びた」との伝承だけが残っていました。

大正末~昭和初期、福山市街を曲流していた芦田川を、治水対策のため現在の流路に付け替えた際、大量の遺物が出土。戦後の発掘調査で「草戸千軒」の存在が確認されました。

集落は、河口に近い三角州にあって、明王院(旧常福寺)の門前に、民家や市場、職人の作事場が軒を連ね、港に通じる掘割を舟が行き交い、商取引を記した木簡や大量の銅銭が出土したことから、瀬戸内の物資の集積地として栄えたと考えられています。

中世の庶民生活の実態を伝える遺跡は少なく、貴重な発見となりました。

遺跡は、現在は芦田川の中州になっており、度重なる河川工事でほぼ失われています。出土した品々や復原集落の様子(室町期、初夏の黄昏時を想定)が、県立歴史博物館で一般公開されています。

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2023/09/09

福山・備後福山城

西国一と謳われた福山城(広島県福山市)を訪ねました。

20230909a元和五年(1619)、安芸広島藩五十万石の福島正則が改易となり、備後には徳川家康の従兄弟で「鬼日向」と恐れられた水野勝成が十万石で入封しました。

居城は、九州~中四国地方にひしめく有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として、江戸幕府の威信をかけて、五重の天守と7つの三重櫓に多聞櫓を巡らせ、城内に伏見城から御殿や建物を移築して、十万石の大名としては破格の規模(百万石クラス)となりました。

勝成は、城下町に上水道を引いて整備し「福山」と命名。いぐさや綿花、塩の生産など地場産業を奨励し、鞆の浦など瀬戸内の水運を通じて城下は大変賑わいました。
水野家は五代(80年間)で無嗣改易。福山藩は、天領~松平家一代(10年間)〜阿部家十代(162年間)と続き、明治維新まで存続しました。

阿部家七代藩主の阿部正弘は、26歳で幕府の老中首座(今の内閣総理大臣)に就任。日米和親条約を締結して開国し、講武所(陸軍)、長崎海軍伝習所(海軍)、洋学所(東京大学)を設立して人材を育成するなど、安政の改革で知られます(39歳で急逝)。

福山城は、明治維新後も破却を免れ、国宝として市民に親しまれましたが、終戦直前の福山大空襲で焼失。現在の天守、月見櫓、御湯殿は昭和41年(1966)の再建です。戦災を免れた伏見櫓、筋鉄御門は国重文に指定されています。
令和の大普請(2022)で、天守北側の総鉄板張り外壁(全国唯一)が再現されました。

次は、旧三の丸にある広島県立歴史博物館へ向かいます。

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