志賀島・元寇史蹟蒙古塚
金印公園から蒙古塚へ。
鎌倉期、蒙古のフビライ・ハンは、日本に服属を要求しましたが、執権・北条時宗はこれを黙殺。蒙古の大軍が日本を襲います(元寇)。
「文永の役」(1274)では、蒙古軍が対馬・壱岐、肥前の沿岸を蹂躙し博多湾から上陸。
九州の御家人は苦戦しますが、やがて蒙古軍が撤退(軍の消耗が激しく継戦不能、将軍の負傷など諸説あり)。
「弘安の役」(1281)では、さらに大軍で来襲。蒙古の軍船が博多湾を埋め尽くし、西国から集まった御家人は防塁を築き上陸を阻止。
志賀島を巡る激戦の末、蒙古軍が後退(この後、伊万里湾に集結した蒙古軍を台風が直撃。蒙古軍は軍船と兵力のほとんどを失い撤退します)。
志賀島では、多くの蒙古兵が捕らえられ処刑されました。異国で命を落とした兵の鎮魂として、昭和2年(1927)に「蒙古軍供養塔」(蒙古塚)が建立されました。
碑の揮毫と讃に田中義一首相(山東出兵で知られた対中強硬派)と張作霖(中国北方軍閥)の名があり、時代背景を感じさせます。昭和13年(1938)には、蒙古自治政府の徳王が参拝しています。
元寇の歴史を語り継ぐ蒙古塚は、訪れる人もなくひっそりとしていました。