久留米・筑後草野氏と草野界隈
旧日田街道の宿場町として栄えた草野は、平安末期~安土桃山期まで、豪族・筑後草野氏の拠点でした。
草野氏は、平安末期に草野吉木(現・草野町吉木)に入り、山腹に竹井城を築き、麓に町が発展しました。
源平合戦では、源氏に加勢して奮戦し、源頼朝から筑後国守護に任ぜられます。この戦勝御礼で建立したのが「吉木若宮八幡宮」です。
筑後で大きな勢力を誇りましたが、南北朝の動乱では南朝方に付いて事実上の敗北。戦国期には豊後の大友、薩摩の島津、肥前の龍造寺の割拠に翻弄され、拠点を山頂の発心城に移します。
豊臣秀吉が島津討伐のため九州に入ると、草野氏も参加。しかし、戦後の九州仕置(国割)で、秀吉は筑後を小早川秀包に与え、草野氏は領地を大きく削られます。九州諸侯が秀吉に謁見する中、草野氏は謁見に行かなかったとされ、天正十六年(1588)、秀吉は一揆加担の疑いで草野氏を滅ぼしました。
筑後草野氏の歴史は、久留米市草野歴史資料館(旧草野銀行本店、明治43年(1910)建築)で詳しく知ることができます。近隣には、大正3年(1914)建築の久留米市山辺道文化館(旧中野病院)などレトロモダンな建築が残っています。