八女・岩戸山古墳と「磐井の乱」
岩戸山古墳(6世紀前半)は、北部九州最大の前方後円墳で、古代史上最大の内乱「磐井の乱」(527-528)を率いた筑紫の君・磐井が眠っています。
当時の日本は、完全に統一されておらず、地方豪族が各地を治め、ヤマト王権とは緩やかな従属関係にあったようです。
筑紫の君も、ヤマト王権に従属しつつ、朝鮮半島との交易で豊かな国を築き、独自の文化を持っていたと思われます。
この古墳も、同時期の継体天皇陵と遜色ない規模で、ヤマト王権の埴輪ではなく、独自の石製表飾品(石人・石馬)が使われているのが特徴です。
古墳に隣接する八女市岩戸山歴史文化交流館では、石製表飾品(国重文)の常設展示のほか、「磐井の乱」について詳しく紹介しています。
当時、朝鮮半島では新羅と百済が争い、ヤマトの継体大王(おおきみ)は、交易のあった百済へ援軍を送っていました。
その兵馬や軍船、兵糧を九州の豪族らに度々負担させたことから、九州ではヤマト王権に対する不満が鬱積します。
軍事負担の強要と中央集権化の圧力に、ついに九州の盟主・磐井はヤマト王権の要求を拒否。これを反乱とみたヤマト王権は九州に征討軍を送り、磐井は筑紫国・火の国・豊の国の九州連合で応戦します。戦いは1年半続き、磐井が敗死してヤマト側の勝利に終わりました。
さて勝者側の正史(古事記・日本書紀)では天皇に背いた「反逆者」ですが、敗者側の視点では九州王権を守ろうとした「郷土の英雄」と言えなくもありません。
反逆者か?郷土の英雄か?視点を変えると評価が変わり、真実は一つでない(かもしれない)ことに改めて気付かされました。
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