« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »

2021/12/12

倉敷・楯築弥生墳丘墓と施帯文石

岡山県倉敷市にある楯築弥生墳丘墓(2世紀末)を訪ねました。

弥生後期の墳丘墓では国内最大級で、古代の吉備勢力を取りまとめた大首長の墓とされます。

20211212a形は双方中円墳で、円丘部のみ現存しています。墳頂に5つの巨大な環状列石(ストーンサークル)があり、その中央に丹を敷き詰めた木棺が埋葬されていました。副葬品は、鉄剣やガラス玉などが見つかっています。

墳頂を覆っていた円礫の層からは、特殊器台や特殊壺などの供献土器、弧帯文(こたいもん)石の破片が出土。これらは埋葬後の祭祀儀式で使われ、意図的に壊して墳丘上に置いたものと考えられています。

2世紀末といえば、後漢書が「倭国大乱」と伝える時代と重なります。豪族間の勢力争いが続き、吉備地方でも各豪族をまとめる強いリーダーが必要だったと思われます。

20211212b墳頂には、大正期まで楯築神社がありました。
御神体の旋帯文(せんたいもん)石は、破片で出土した弧帯文石と同じ独特の模様が彫り巡らされ、正面には人面らしきものが彫られています(国重文)。

普段は墳丘墓の収蔵庫に納められ見ることはできませんが(東京国立博物館にレプリカあり)、破片を復元した弧帯文石よりふた回りほど大きく、2つの石の関係は謎のままです。
訪れた日は、たまたま旋帯文石を間近で見る機会に恵まれ、貴重な体験でした。

双方中円墳と特殊器台は、後の前方後円墳と埴輪のルーツとされ、この墳丘墓は弥生期~古墳時代にかけて墓制の変遷を考える上で重要な遺跡とされています(国史跡)。

| | | コメント (0)

2021/12/05

八女・岩戸山古墳と「磐井の乱」

岩戸山古墳(6世紀前半)は、北部九州最大の前方後円墳で、古代史上最大の内乱「磐井の乱」(527-528)を率いた筑紫の君・磐井が眠っています。

20211205当時の日本は、完全に統一されておらず、地方豪族が各地を治め、ヤマト王権とは緩やかな従属関係にあったようです。
筑紫の君も、ヤマト王権に従属しつつ、朝鮮半島との交易で豊かな国を築き、独自の文化を持っていたと思われます。
この古墳も、同時期の継体天皇陵と遜色ない規模で、ヤマト王権の埴輪ではなく、独自の石製表飾品(石人・石馬)が使われているのが特徴です。

古墳に隣接する八女市岩戸山歴史文化交流館では、石製表飾品(国重文)の常設展示のほか、「磐井の乱」について詳しく紹介しています。

当時、朝鮮半島では新羅と百済が争い、ヤマトの継体大王(おおきみ)は、交易のあった百済へ援軍を送っていました。
その兵馬や軍船、兵糧を九州の豪族らに度々負担させたことから、九州ではヤマト王権に対する不満が鬱積します。

軍事負担の強要と中央集権化の圧力に、ついに九州の盟主・磐井はヤマト王権の要求を拒否。これを反乱とみたヤマト王権は九州に征討軍を送り、磐井は筑紫国・火の国・豊の国の九州連合で応戦します。戦いは1年半続き、磐井が敗死してヤマト側の勝利に終わりました。

さて勝者側の正史(古事記・日本書紀)では天皇に背いた「反逆者」ですが、敗者側の視点では九州王権を守ろうとした「郷土の英雄」と言えなくもありません。

反逆者か?郷土の英雄か?視点を変えると評価が変わり、真実は一つでない(かもしれない)ことに改めて気付かされました。

| | | コメント (0)

« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »