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2021/11/23

「九州洋画Ⅱ・大地の力」展

久留米市美術館で開催中の「九州洋画Ⅱ・大地の力」展に行ってきました。

20211123a開館5周年記念で、九州ゆかりの洋画家の作品78点を集め、「九州」の土壌に育まれた彼らに通底するものを探る企画展です。

展示は「プロローグ」「神話の世界-イメージの撹拌」「選択的土着-ここで描く」「手ざわりの視覚化-煙と土と働く手」「やまのある風景-記憶の遺産」「時空をこえて-物語はつながる」の6部構成です。

九州出身の洋画家ということで、アーティゾン美術館(東京)から黒田清輝、藤島武二の作品が来ているほか、久留米出身の青木繁、坂本繫二郎、古賀春江の作品が里帰りしています。

展示作品を通じて、古くから多彩な文化が交錯した「九州」の風土が画家の感性に大きな影響を与えたことがよく分かります。その根底にあったのは土の手触りや生きることの実感を描き続けるエネルギーだと感じました。

久留米市美術館は、旧石橋美術館(1956-2016)から移行した美術館です。もとは久留米でブリヂストンを創業した石橋正二郎氏が、坂本繁二郎の依頼で夭折した青木繁の作品を収集し、次いで坂本繁二郎など九州の洋画家の作品を収集したのが始まりです。現在、石橋コレクションはすべてアーティゾン美術館に移っており、地元で見る機会が少ないのが残念です。

この展覧会は、12月12日(日)まで開催しています。

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2021/11/20

久留米・青木繁旧居

洋画家・青木繁(1882-1911)は、明治15年、久留米市荘島町の旧藩士の家に生まれました。

20211120a荘島尋常小学校から久留米高等小学校、久留米中学明善校に進み、14歳のころ、久留米の洋画家・森三美に師事。

芸術の道を志し、明善校を中退して上京。画塾で学びながら、東京美術学校西洋画科専科に入学しました。
在学中に神話、伝説、哲学、宗教に興味を広め、神話を題材にした作品が白馬会展で受賞。画壇にデビューを果たします。
明治37年、22歳で卒業すると、仲間の坂本繁二郎、福田たねらと写生旅行で房州布良に滞在。布良で描いた「海の幸」は、繁の代表作となりました。

福田たねとの間に子が生まれ、人生の最盛期を迎えますが、その後は入選することもなく、生活は困窮します。

25歳のとき、父親の危篤で久留米に戻りますが、父の没後は身内と衝突して家を飛び出し、放浪生活へ。九州各地を流浪して作品を描く中、心身を病み、明治44年、肺結核により福岡の病院で没しました(享年28歳)。

繁が17歳まで過ごした旧居は、月星化成の部長社宅などに使われた後、老朽化で取り壊される予定でしたが、地元の保存会の尽力で復元保存されています。

旧居に展示されている「海の幸」「わだつみのいろこの宮」など12点(複製)は、保存会が募金を集めて原寸大での複製にこぎつけたもの。
中でも、唐津で静養中に描いた絶筆の「朝日」(1910)は、心象風景の房州布良の夕陽とされ、原画(佐賀県立小城高校同窓会黄城会蔵)は寄託先の佐賀県立美術館でも常設展示していない稀少な作品です。

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2021/11/03

平戸・生月島の柱状節理

平戸島から生月大橋を渡り、生月島(いきつきしま)へ。

20111103生月島は、南北10km、東西3.8kmの細長い島です。その昔、中国から帰国する人々は、船上からこの島が見えると「日本に帰ってきた」とひと息ついたので、その名が付いたと伝わります。

島は、溶岩に玄武岩が重なった溶岩台地で、島の西側に漁港や集落があり、島の東側はほぼ断崖絶壁になっています。

島を北上する途中にある「塩俵の断崖」は、奇岩が続く景観が圧巻です。

典型的な柱状節理で、厚い溶岩流がゆっくり固まる際、岩が収縮して柱状の亀裂ができました。波に浸食された石柱の断面(六角形)が塩俵を積んだように見えたことから「塩俵の断崖」と呼ばれています。

さらに北上して、最北端の大婆鼻を目指します。

20111103b大婆鼻は、対馬海峡に突き出た高さ80mほどの断崖です。崖の上に立つ大バエ灯台は、小さな無人灯台ですが、展望台からの眺めが絶景です。崖を吹き上がる強い風に、思わず足が竦みました。

東に度島や的山大島を望み、天気が良ければ遠く壱岐や対馬まで見えるそうです。

今回の旅は、初めての平戸で盛りだくさんでした。帰路は、生月大橋~平戸大橋~R204で松浦~伊万里~武雄北方ICから長崎道で帰宅。旅の機材はNIKON Z50+Z DX 16-50/3.5-6.3でした。

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2021/11/02

平戸・オランダ商館跡

平戸瀬戸に面した平戸オランダ商館跡へ。

20111102平戸は、戦国期のポルトガル貿易(1550~1561)が長崎に移った後、江戸初期のオランダ貿易(1609~1641)で繁栄しました。

1600年、オランダ船リーフデ号が豊後臼杵に漂着。当時、オランダはスペインから独立した新興国で、積極的に海外へ展開中。1602年に東インド会社(VOC)を設立し、貿易、外交、武力行使の権限が与えられ、バタビア(今のジャカルタ)を本拠にアジアに進出しました。

1605年、平戸藩主松浦鎮信(法印)は、徳川家康の命で、リーフデ号の生存者を平戸からバタビアに送還。これに応える形で、1609年、オランダ船が国王の親書を携えて平戸に来航します。通商のみで布教を求めないVOCは、幕府の通商許可を得て、この年、平戸にオランダ商館を開設。平戸にポルトガル貿易以来の賑わいが戻りました。

1613年、イギリスも来航して平戸に商館を置きますが、熾烈な貿易競争に敗れて1623年に撤退。この後、オランダの貿易額は増え続け、商館の規模も拡大します。

1637年、島原の乱が勃発すると、幕府は禁教を強化し、布教を支持するポルトガルと断交。1639年には鎖国令を出し、友好関係にあったオランダに長崎移転を命じます。この年、平戸オランダ商館に大規模な石造り倉庫が完成しましたが、幕府から銘板の西暦年号(キリスト紀元)を咎められて破却。1641年、商館は長崎の出島に移り、平戸のオランダ貿易は幕を閉じました。

オランダ商館があった一帯は、平戸和欄商館跡(国史跡)として、オランダ塀やオランダ井戸、石積みの埠頭や常灯の鼻石垣が残っています。復元された白い1639年築造倉庫(2011)では、平戸交易と大航海時代のオランダ、禁教で国外追放された日本女性のジャガタラ文など、往時を物語る資料が展示されています。

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2021/11/01

平戸・ザビエル記念聖堂

キリスト教の伝道者フランシスコ・ザビエルの聖名を冠した平戸ザビエル記念聖堂へ。

20111101フランシスコ・ザビエル(1506ー1552)は、スペインの地方貴族の家に生まれました。

パリ大学で哲学を学び、在学中に聖書の一節に感銘を受け、同志7人でイエズス会を創設。ポルトガル領インドに渡って布教した後、1549年に明国から鹿児島に上陸。当時戦国期だった日本に初めてキリスト教と西洋文化を伝えました。

天文十九年(1550)、平戸に初めてポルトガル船が来航します。時の領主松浦隆信は、交易の見返りにキリスト教の布教を許可(ただし、その後、仏僧の反対で禁教に転じ、平戸のポルトガル貿易は15年ほどで終了しています)。この年、ザビエルも平戸に移って布教を行い、長崎のキリスト教信仰の始まりとなりました。

その後、山口、京都に移ったザビエルは、大分で布教の後、再びインドに戻り、明国への布教の途中、病で没しました。

ザビエルは、わずか20日の平戸滞在で1,000人を超える信者を得たと伝わります。その後も、平戸に初の教会が建った時と、京都に上る前に平戸を訪れた記録が残っています。

平戸ザビエル記念聖堂は、昭和6年(1931)に建てられたカトリック平戸教会の教会堂です。中央の大塔に、左側のみ小塔を配した左右非対称なゴシック様式が特徴で、外観のミントグリーンの配色が珍しいです。
内部はコロナ対策のため見学不可だったのが残念でした。

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