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2021/10/31

平戸・平戸城と松浦史料博物館

妻と一緒に、久留米IC~長崎道~西九州道~R204~平戸大橋で平戸島へ。

まずは平戸藩松浦氏六万三千石の居城を訪ねます。

20211031平戸松浦氏は、古くから続く武士集団「松浦党」の一派で、織豊期に隆信・鎮信の二代で壱岐と肥前松浦・彼杵を領する戦国大名となりました。

最初の平戸城(日の岳城)は、初代平戸藩主となった松浦鎮信(しげのぶ)公が築きました。この城は、江戸幕府の疑念を晴らすため、完成直後の慶長十八年(1613)、自ら焼き払ったとされます。

その後、約百年間、平戸藩は城を持たず、藩政は対岸の藩主の館で行われました。

現在の平戸城(亀岡城)は、五代藩主松浦棟(たかし)公が、幕府から城の再建を許され、享保三年(1718)に完成しました。山鹿流軍法を取り入れた設計で、天守はなく乾櫓が代用されたようです。

江戸中期に外様大名が築城を許されるのは異例ですが、棟公は五代将軍綱吉の諮問役と寺社奉行(本来は譜代大名の職)を務めるなど、将軍の信頼が厚かったものと思われます。

藩政期の建物は、北虎口門と多聞楼(狸楼)が現存。乾櫓・地蔵坂櫓・見奏櫓・懐柔櫓・模擬天守(旧沖見櫓)は昭和37年の再建です。

20211031b対岸の藩主の館(御館)跡には、明治期に旧藩主邸「鶴ヶ峰邸」が建てられ、現在はそのまま松浦史料博物館になっています。

長崎県で最古の博物館で、松浦家に伝わる3万点余の資料から約200点を展示。中でも、戦国期のポルトガル交易、秀吉の伴天連追放令(キリシタン禁制定書)、江戸初期のオランダ・イギリスとの交易、伊能忠敬の平戸島図などは、平戸ならではの大変興味深いものでした。

庭園の茶室「閑雲亭」では、四代藩主鎮信(ちんしん)公が隠居後に興した茶道鎮信流の呈茶が楽しめます。対岸にお城を眺めながら、抹茶と復刻和菓子カスドースでまったり休憩しました。

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2021/10/23

佐賀・吉野ヶ里遺跡

妻と一緒に佐賀・吉野ヶ里遺跡を訪ねました。

20211023吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の前~後期の間、約700年かけて集落がムラからクニへと発展する過程を残す貴重な史跡です。

弥生前期(BC5~BC2世紀)、丘陵に分散していた小さな集落は、稲作が進むとともに、大きな集落へと発展します。やがて、環壕を巡らせた集落が出現。これは、稲作で集落間に貧富の差が生じ、集落間で争うようになったものと考えられています。青銅器を造る道具も出土しています。

弥生中期(BC2~AD1世紀)、丘陵南部を大きく囲む環壕から、大規模なムラがあったことが分かります。ムラ内は、居住域と倉庫域に分かれ、丘陵北部には首長を葬る「墳丘墓」や甕棺の列状埋葬墓が作られます。このことから、ムラ間の争いが激しくなり、強大な首長のもとでムラからクニへと発展していく様子が窺われます。

弥生後期(AD1~AD3世紀)、集落は丘陵の北部へ拡大します。環壕は二重になり、物見櫓を備え、兵が守りを固め、祭祀を司る北内郭、王や支配層が住む南内郭を中心に、高床式倉庫群、庶民が住む集落に分かれていました。交易を行った市も推定され、クニとして最盛期を迎えたと考えられます。

平成元年、工業団地開発に伴う発掘調査で大規模な環壕集落と有柄銅剣・ガラス製管玉が出土し、遺跡として保存されることが決まりました。

現在は、国営吉野ヶ里歴史公園として、環壕・柵・逆茂木などの防衛施設、南内郭と北内郭の建物群、甕棺列状埋葬簿と北墳丘墓、市場の高床式倉庫群、南のムラの建物群を当時あった場所に復元。最盛期の弥生後期のクニを再現するほか、遺跡展示室と北墳丘墓の内部展示は必見です。

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2021/10/10

久留米・からくり儀右衛門

「からくり儀右衛門」こと田中久重(1799-1881)は、幕末から明治初期に活躍した発明家で、東芝の創業者です。

20211010久重は、寛政十一年、久留米の鼈甲細工師の家に生まれました。幼いころから探求心の塊で、9歳のとき「開かずの硯箱」を作り人々を驚かせました。

20代のころ、当時流行していた「からくり人形」に魅せられ、研究に没頭。近くの五穀神社の祭礼で、水からくりなど新しい仕掛けを次々に発表し、話題になりました。九州各地だけでなく、上方や江戸でも興行を行い、からくり興行師として全国的に有名だったようです。

江戸末期、質素倹約の世相になると、30代の久重は、からくり興行から実用品の製作に転じます。大坂に移り、真鍮製の「懐中燭台」や消えないランプ「無尽灯」などを考案。
のち京都で天文学と西洋技術を学び、51歳のときに最高傑作の万年時計「万年自鳴鐘」(国重文)を完成させています。

幕末、各藩は軍備増強に乗り出し、久重も佐賀藩や久留米藩に招かれ、50代半ば~60代を反射炉の建設やアームストロング砲の鋳造、蒸気船の開発などに費やしています。開国後は、西洋の文化に触れ、日本初の蒸気機関車の模型を試作して走らせるなど、探求心は少しも衰えていませんでした。

明治6年、73歳の久重は、新政府の要請で国産の電話機を開発するため上京。2年後、東京銀座に工場と店舗を開設し、のち芝浦に移って「田中製作所」となり、現在の「東芝」に発展しました。

JR久留米駅前には、久重のからくり太鼓時計を模したモニュメントがあり、定時に動き出します。久重が幼少期に遊んだ五穀神社には、銅像(上の写真)が建っています。

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