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2021/09/26

朝倉・堀川用水と揚水車

朝倉市・堀川用水の揚水車を訪ねました。

20210926【現地案内板の解説】
「当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文三年(1663)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。更に60年後の享保七年(1722)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設したのである。しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。そのためにこの地では自動回転式の水車が設置されたのである。三連水車は寛政元年(1789)に設置されており、三島・久重の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、3基で35ヘクタールにも及ぶ。」

「朝倉の三連水車」を知ったのは、TVの全国各地のニュースでした。田に水を引く時期に組み立て、終わると解体するという報道内容だったと記憶しています。

ちょうど水車が動いている時期で、ちらほらと見学者が来ていました。田園風景の中、堀川用水の流れを受けて回る水車の動きを見ていると、心まで洗われるような気がしました(写真は、久重地区の二連水車)。

近くの道の駅「三連水車の里あさくら」は、満車で大混雑。人混みは避けたいので、立ち寄るのを諦めました。

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2021/09/23

八女・福島の灯篭人形

江戸中期から続く「からくり人形芝居」で、毎年9月秋分の日を含む3日間、八女市・福島八幡宮の放生会で奉納されます。

20210923もとは人形の燈籠を奉納していましたが、上方から人形浄瑠璃の技術が伝わり、現在のからくり人形芝居になりました。

期間中、三層二階建の巨大な芝居屋台が建てられ、舞台下に下遣い6人、1階の左右に横遣い各6人ずつ、2階に囃子方が入ります。
舞台では、拍子木とお囃子に合わせてからくり人形芝居が上演され、観客は旧福島城跡の石垣に腰かけて観覧します。千秋楽では、一~三層の障子を全て開け放って上演します。

かつては当番町が輪番制で演じましたが、現在は保存会が「吉野山狐忠信初音之鼓」「薩摩隼人国若丸厳島神社詣」「玉藻之前」「春景色筑紫潟名島詣」の4演目を毎年順番に公演しています(国重要無形民俗文化財)。

残念ながら令和3年の秋も感染症拡大予防のため中止となりましたが、八女民俗資料館に実物大の屋台(再現)と、からくり人形が展示されています。

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2021/09/13

佐賀・祐徳稲荷神社と萬子媛

祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)は、江戸中期に肥前鹿島藩主・鍋島直朝の夫人・萬子媛が創建し、日本三大稲荷の一つとされています。

20210913萬子媛は、後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好の娘です。
媛は、京都から肥前鹿島藩二万石の鍋島家に嫁ぐ際、花山院邸の稲荷大神から神鏡を授かり、皇室の永久と国家の安泰を祈るよう諭されたとされます。
媛は、2人の子を授かりましたが、いずれも早世。このこともあって、貞享四年(1687)、62歳の時、当地に庵を作り、自ら神仏に仕えて暮らしました。宝永二年(1705)、80歳の時、山腹に寿蔵(生前に作る自らの墓)を築き、断食して入定しています。

媛の諡名(祐徳院殿瑞顔実麟大姉)から、祐徳院と呼ばれ、御祭神の稲荷神とともに人々の信仰を集めました。明治の神仏分離で祐徳稲荷神社に改称して現在に至ります。

朱塗りに極彩色が施された楼門、神楽殿、拝殿と山腹の崖に懸造りで組み上げられた本殿があり、その絢爛さは「鎮西日光」と称されました。本殿の背後に萬媛命(萬子媛の神号)を祀った石壁社があり、さらに登ると千本鳥居を経て山上に命婦社が祀られています。

参道には土産物店が並び、昔ながらの生姜煎餅、筒状の稲荷ようかんなど、懐かしい味がうれしかったです。

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2021/09/12

伊万里・大川内山

妻と伊万里秘窯の里・大川内山を訪ねました。

20210912大川内山(おおかわちやま)は、江戸期、佐賀藩(鍋島家)の御用窯が置かれた地です。

秀吉の朝鮮出兵の際、参戦した鍋島氏は、朝鮮半島から高度な技術を持った陶工達を連れ帰りました。
これらの陶工達が佐賀・有田で磁器を焼いたのが現在の有田焼の始まりです。

有田焼は、伊万里港から積み出されたので、伊万里焼とも呼ばれました。
特に、佐賀藩では、17~18世紀にかけて大川内山に陶工達を集め、藩の御用窯で朝廷・将軍家・諸大名などへ献上する高品位な焼物を焼かせました。これが後の「鍋島焼」(鍋島様式)です。
大川内山では、製作技法が他に漏れないよう集落の入口に関所を置き、失敗作の廃棄まで厳重に管理されていました。

大川内山の集落には、現在も30数軒の窯元があり、山水画のような落ち着いた風情を見せています。窯元を巡りながら、探していた急須にちょうどいい品を見つけたので購入。集落には、旧関所跡、陶工達の無縁墓や高麗人の墓などが残っていて、往時を偲びながら歩きました。

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2021/09/04

「筑後ノ国32万5千石初代国主 田中吉政」展

八女市伝統工芸館(福岡県八女市)で開催中の「筑後ノ国32万5千石初代国主 田中吉政」展に行ってきました。

20210904田中吉政(1548-1609)は、近江出身の戦国武将です。豊臣家に仕え、近江八幡四十三万石の豊臣秀次(秀吉の甥)の筆頭家老として、城下と琵琶湖を結ぶ八幡堀を開削するなど、商人町の隆興に尽力しました。

秀吉の小田原征伐では、秀次軍を率いて出兵。論功で三河岡崎五万七千四百石の国持ち大名となり、堀割や河川の築堤、東海道が城下町を通るよう付け替えるなど普請に手腕を振るいました。

秀吉亡き後は徳川家康に従い、関ヶ原の合戦は東軍で参戦。敗走する石田三成を伊吹山中で捕縛した功績で、筑後柳河三十二万五千石の大々名となりました。

吉政は、柳河城を拠点に、久留米や八女福島など十支城とこれを結ぶ街道を整備。得意の土木普請で矢部川の治水・柳河城下の掘割、有明海沿岸の干拓を行い、新田開発を奨励しました。

筑後柳河藩は、二代忠政のとき無嗣断絶により改易(1620)。北部が久留米藩(有馬氏)二十一万石、南部が柳川藩(立花氏)十一万石と三池藩(立花氏)一万石に三分割されました。

今回の企画は、吉政が手掛けた各地の普請や吉政関連資料をパネルで紹介。併せて、八女福島城の模型や天守閣の鯱を展示しています。有馬氏入城以前の久留米城主に関する資料は少ないので、参考になりました。

この企画展は、9月12日(日)まで開催中です。

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