久留米・久留米城
久留米城の歴史は古く、室町後期には土豪の砦(笹原城)があったとされます。
近世城郭としての久留米城は、安土桃山期の筑後国主・小早川秀包に始まります。
秀吉の九州平定後、七万五千石で筑後に入った秀包は、久留米城を本拠としました。関ヶ原の戦い(1600)では実家の毛利氏に加勢して西軍で参戦。留守中、久留米城は、肥後(黒田如水)・肥前(鍋島直茂)に攻められ降伏開城しています。
関ヶ原の後、秀包は改易され、三河岡崎から田中吉政が三十一万五千石で入ります。田中氏は、柳河城を居城としたため、久留米城は支城の一つとなり、その後「一国一城令」により廃城となりました。
田中氏は二代で無嗣改易となり、筑後は3藩(久留米藩、柳川藩、三池藩)に分割されます。久留米藩には、元和七年(1621)、丹波福知山から有馬豊氏が二十一万石で入り、久留米城と城下町を整備しました。
江戸期には、高い石垣に7つの三層櫓がそびえ、本丸や二の丸に政庁や居館が建ち並び、最も大きい巽櫓が天守の代わりになっていました。
明治の廃城令で破却され、今では広大な城域も工場や民家に姿を変え、本丸の石垣と内堀の一部が残っています(県史跡)。
石垣は、小さな石が乱積みの部分と、大きな切り出し岩を整然と積んだ部分が混在し、新旧の工法の違いが見て取れます。かつての本丸跡には、有馬氏を祀る篠山神社と有馬記念館が建っています。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント