江戸城外・北町奉行所跡と八丁堀の組屋敷
北町奉行所は、呉服橋門内(今のJR東京駅八重洲北口付近)にありました。
こちらは、時代劇「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元(金四郎、1793-1855)で有名です。景元は、五百石の旗本ですが、若いころ江戸市中で放蕩生活を送ったりしています。
出仕中、十二代将軍・徳川家慶の信を得て47歳で北町奉行に就任。
在任中、老中(水野忠邦)・南町奉行(鳥居耀蔵)らの酷な施策に反対し、わずか3年で左遷。ほどなく老中・南町奉行らが失脚すると、町奉行に返り咲き、今度は南町奉行を7年務めています。隠居後は出家し、63歳で亡くなりました。
東京駅八重洲口の再開発で、北町奉行所の排水溝石組が発見されました。鬼門除けに北東を欠いた部分が丸の内トラストタワーN館の東側の小径に再現されています。また、八重洲北口を出た外堀通りの歩道にも「北町奉行所跡」の碑があります。
さて、南北両奉行所には、奉行配下の与力50人・同心280人が働いていました。与力は二百石の徳川直臣、同心はその配下の侍で三十俵二人扶持でした。与力と同心は、八丁堀の組屋敷(今でいう官舎)から徒歩で通勤していたようです。
着流しに羽織、帯に差した十手の朱房が粋で、江戸庶民から俗に「八丁堀(の旦那)」と呼ばれました。
組屋敷があったのは、今の八丁堀駅北側~茅場町駅南側の広いエリアです。遺構は何も残っていませんが、八丁堀駅そばの「京華スクエア」(旧京華小学校)に「八丁堀与力・同心組屋敷跡」の解説板があります。