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2020/02/29

江戸城外・大岡越前邸と南町奉行所跡

外桜田には、時代劇でお馴染みの大岡越前守忠相の屋敷もありました。

20200229忠相(1677-1752)は、江戸町奉行を19年間も務めた実在の人物です。
家格は三千石の旗本で、幕府中央のエリート官僚ではありませんでした。遠国の伊勢奉行に赴任中、天領と紀州家の境界争いを公正に裁き、これに感服した紀州藩主・徳川吉宗が、八代将軍に就くなり忠相を江戸町奉行に抜擢したとされます。

町奉行就任は40歳のとき。在任中、吉宗の改革を助け、町火消し制度の創設や小石川療養所の開設、青木昆陽のサツマイモ栽培を援助したりしています。

60歳で寺社奉行に昇進した後、三河西大平藩(今の岡崎市)一万石の大名に列せられました。吉宗が亡くなると、葬儀奉行の大任を務めた後、吉宗の後を追うように病没しました(享年76歳)。

忠相の屋敷は、今の霞が関の裁判所近く(弁護士会館と簡易裁判所のビル辺り)にあり、弁護士会館の敷地に「大岡越前守忠相屋敷跡」の解説板があります。

20200229bさて、忠相が勤めていた南町奉行所は、数寄屋橋門内(今のJR有楽町駅東側)にありました。
当時、江戸町奉行所は呉服橋門内と数寄屋橋門内の2か所にあり、月番で交代に開所していました。このため、江戸の庶民は「北」「南」と呼んで区別したようです。

このお白洲で「三方一両損」など数々の名裁きが生まれた…と思いたいところですが、それを裏付ける史料はなく、どうやら判官贔屓の江戸庶民の創作のようです。

有楽町駅前の再開発で、南町奉行所の下水溝石組や穴蔵などの遺構が発見されました。石組の一部は駅前に再現され、小さな金色の解説板があります。また、穴蔵の床が地下街ホールに立て掛けられ、木樋とともにベンチとして再利用されています。

次は、北町奉行所跡と八丁堀の組屋敷を訪ねます。

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2020/02/15

江戸城外・日比谷御門と伊達政宗終焉地

歴史の痕跡を訪ねて、江戸城外を散策しました。

20200215まずは日比谷公園内にある「日比谷見附跡」へ。ここは、江戸城外の日比谷御門があった所です。

江戸城に近いこの一帯は、江戸期に外桜田と呼ばれる大名屋敷街でした。城外の要所には、江戸防衛のため36の外郭門(見附)が設けられ、日比谷御門もその一つです。

御門が設けられたのは三代将軍家光のころ。今の日比谷交差点付近に高麗門・枡形・番所があり、渡櫓から内山下濠に沿って石垣が続く堅牢な造りでした。門は仙台藩伊達家の、石垣は安芸藩浅野家の普請によります。

御門の守衛は、二万石の外様大名が担当したようです。明治初めに取り壊され、現在は浅野家が築いた石垣と内山下濠の一部(心字池)が残っています。

20200215bその少し先、日比谷サローの手前に「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」の解説版があります。

関ケ原で活躍した伊達政宗は、慶長六年(1601)、徳川家康から仙台藩六十二万石と外桜田の御用屋敷を与えられます。以降60年間、ここに仙台藩江戸屋敷がありました。
この間、政宗は、寛永六年(1629)に日比谷御門の普請を行っています。

政宗は、家康・秀忠・家光と三人の将軍に忠誠を尽くし、高齢ながら病を押して参勤交代で参府した寛永十二年(1635)、江戸屋敷で病没(享年70歳)。その亡骸は葬列で仙台に戻り、霊廟「瑞鳳殿」(仙台市青葉区)に葬られました。

日比谷公園の一帯は、明治維新後に陸軍練兵場が置かれ、戦災後は急速に開発されたエリアで、江戸期の遺構はほぼ残っていません。わずかに解説版で痕跡を知ることができるのみです。

次は、大岡越前邸と南町奉行所の痕跡を訪ねます。

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2020/02/08

匝瑳・時曽根の大蛇まつり

匝瑳市の時曽根地区で行われた「時曽根の大蛇まつり」を見学。

20200208豊栄地区時曽根では、毎年2月8日、古くから伝わる大蛇まつりが行われます。

朝、時曽根コミュニティセンターに各戸から藁を持ち寄り、長さ3m・太さ30cmほどの大蛇を3匹作ります。できあがった大蛇は、庭の槇の木に巻き付け、千手院の護符を口に挿し、御神酒を飲ませて魂入れの後、ムラ境3か所の樹上に吊るします。区内安全、無病息災、五穀豊穣、悪魔退散を祈願します。

ムラ境に道祖神と同じ性格を持つ蛇神を祀り、ムラに災いが入るのを一年間防ぐことを願う「辻切り」習俗の一つです。

【この日の進行スケジュール】
8:00~ 藁を持って集まり始める
9:00~10:30ころ 藁蛇作り
14:15~ 護符・魂入れ
14:30~ ムラ境に吊るす(北・東・西)
15:00ころ 片づけて終了

【メモ】
藁蛇は、下あご、上あご、胴体の順に作る。時曽根では、眼や舌も藁を編んで作る。昼食休憩の後、米倉の千手院(西光寺の末寺)から頂いた護符を榊葉の枝で挿し、一升瓶で盛大に御神酒を飲ませて魂を入れる。3組に分かれて北・東・西のムラ境に運び、樹上に結び付けて吊るす。古い藁蛇はその場で焼き、煙にして天に戻す。時曽根では地区の若者により受け継がれている。
見学者は3人、駐車場なし(周辺にスペースあり)。忙しい中、詳しく教えていただいた区長さん、地区の皆さん、ありがとうございました。

※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2020/02/01

来訪神・仮面仮装の神々の現在~東北・北陸地方を中心に

国立歴史民俗博物館で行われた映画の会「世界無形文化遺産 来訪神・仮面仮装の神々の現在~東北・北陸地方を中心に~」に行ってきました。

20200201今回は、歴博研究部民俗研究系の川村清志氏が撮影・編集した「来訪神の今ーナマハゲ・アマメハギ・スネカ」(2020)の上映と解説でした。

ナマハゲ(秋田・男鹿半島)は、大晦日の夜、異形の仮面を付けて家々を廻り、怠け者の行状を諫めます。
アマメハギ(石川・能登半島)は、天狗・ガチャ(角のない鬼)2人・猿の4人で家々を廻り、ノミと槌を打ち鳴らして暴れ、家人の行状を諫めます。
スネカ(岩手・大船渡地方)は、異形の仮面に蓑をまとい、包丁を持って数人で家々を廻り、家人の行状を諫めますが、現在は中学生が扮して行われています。

いずれも家々の繁栄と豊穣を祈る来訪神で、家人を諫める過程で子供を威すのは郷中教育の一種です。しかし、民俗芸能は、世界無形文化遺産登録などで地域外にも知られるようになると、地元の想いとは無関係に、メディアの要望や海外からの誤解など様々な外的要因の影響を受けて芸能が変容する現実があり、東北・北陸地方の芸能もその局面にあるようです。他方、変容を避けるため外の影響を厳しく遮断(撮影・録音・メモ取りを禁止)して文化財化を拒むアカマタクロマタ(沖縄・八重山諸島)の例も紹介され、民俗行事の伝承と記録・公開の在り方(資源化)について深く考えさせられました。

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