江戸城外・大岡越前邸と南町奉行所跡
外桜田には、時代劇でお馴染みの大岡越前守忠相の屋敷もありました。
忠相(1677-1752)は、江戸町奉行を19年間も務めた実在の人物です。
家格は三千石の旗本で、幕府中央のエリート官僚ではありませんでした。遠国の伊勢奉行に赴任中、天領と紀州家の境界争いを公正に裁き、これに感服した紀州藩主・徳川吉宗が、八代将軍に就くなり忠相を江戸町奉行に抜擢したとされます。
町奉行就任は40歳のとき。在任中、吉宗の改革を助け、町火消し制度の創設や小石川療養所の開設、青木昆陽のサツマイモ栽培を援助したりしています。
60歳で寺社奉行に昇進した後、三河西大平藩(今の岡崎市)一万石の大名に列せられました。吉宗が亡くなると、葬儀奉行の大任を務めた後、吉宗の後を追うように病没しました(享年76歳)。
忠相の屋敷は、今の霞が関の裁判所近く(弁護士会館と簡易裁判所のビル辺り)にあり、弁護士会館の敷地に「大岡越前守忠相屋敷跡」の解説板があります。
さて、忠相が勤めていた南町奉行所は、数寄屋橋門内(今のJR有楽町駅東側)にありました。
当時、江戸町奉行所は呉服橋門内と数寄屋橋門内の2か所にあり、月番で交代に開所していました。このため、江戸の庶民は「北」「南」と呼んで区別したようです。
このお白洲で「三方一両損」など数々の名裁きが生まれた…と思いたいところですが、それを裏付ける史料はなく、どうやら判官贔屓の江戸庶民の創作のようです。
有楽町駅前の再開発で、南町奉行所の下水溝石組や穴蔵などの遺構が発見されました。石組の一部は駅前に再現され、小さな金色の解説板があります。また、穴蔵の床が地下街ホールに立て掛けられ、木樋とともにベンチとして再利用されています。
次は、北町奉行所跡と八丁堀の組屋敷を訪ねます。