相国寺(臨済宗相国寺派大本山)は、室町幕府三代将軍・足利義光が創建し、京都五山の第二位に列した京都最大の禅寺です。法堂(国重文)と方丈、塔頭寺院2つ(豊光寺と林光院)を見学。
法堂(国重文)は、慶長十年(1605)、豊臣秀頼が再建した現存最古の法堂建築です。須弥壇に本尊・釈迦如来像を祀り、天井には狩野光信作「蟠龍図」が描かれています。この龍は、八方睨みの「鳴き龍」として有名です。
方丈は、文化四年(1807)の再建。襖の障壁画や、白砂で禅の「無」の境地を表した平庭が印象的でした。
初公開の塔頭・豊光寺は、豊臣秀吉が没した慶長三年(1598)に相国寺の西笑和尚が秀吉追善のために創建。天明大火(1788)後は荒廃しましたが、明治期に相国寺の獨園和尚が慧林院冷香院(廃絶塔頭)の客殿を移築して再興しました。
本堂の本尊・釈迦如来像、西笑和尚(豊光寺開祖)・太嶽和尚(慧林院開祖)の像や、寺宝の「足利義稙肖像画」(室町十代将軍)のほか、山岡鉄舟の書を見学。
苔が広がる庭園は閑寂な趣で、楓の古木は秋の紅葉が見事だそうです(非公開)。
初公開の塔頭・林光院は、室町期に夢窓国師が足利義嗣(室町四代将軍の弟)の菩提を弔うために創建。当初は二条西ノ京の紀貫之屋敷跡にあり、安土桃山期に豊臣秀吉が相国寺山内に移したとされます。現在の本堂・書院は、江戸後期の近江・仁正寺藩邸を移築したものです。
長く拝観謝絶の寺でしたが、今回は、4年がかりで完成した日本画家・藤井湧泉作の襖絵のお披露目で公開。話題の虎図は、住職が「龍と虎の絵を」と頼んで任せたところ、出来上がったのは黒い眠り猫のような可愛い虎で大層驚いたそうです。ボランティアガイドさんによれば、林光院の公開はおそらく最初で最後ではないかとのこと。
庭の「鶯宿梅」(おうしゅくばい)は、紀貫之の娘の逸話で有名です。平安期、村上天皇が紀貫之の屋敷にあった梅を気に入り、勅命で御所に移植させたところ、貫之の娘が「帝の仰せなので畏れ多いことですが、春に鶯が戻り『私の宿り木はどこですか』と尋ねられたら何と答えればよいのでしょう」と詠み、心を打たれた天皇が梅を返したと伝わります。何代もの接ぎ木を経て、3月には八重の紅白の花が美しく咲くそうです。
初公開の常林寺(浄土宗)へ。天正元年(1573)に創建され、古くから知恩院の役番を務めました。
幕末に勝海舟が定宿とし、坂本龍馬らと会談した座敷が「勝海舟の間」として残されています。
本堂に本尊・阿弥陀三尊像と由来不明の帯刀僧形像を祀り、天井絵の日展画家・野村はるみ作の花画77枚がモダンな感じです。
現在地に移ったのは江戸中期ころ。川が交わる砂州が萩に適し、「萩の寺」として知られています。
境内の地蔵堂は、寺が移る前からこの地で若狭街道を行き交う旅人の信仰を集めていた「世継子育地蔵尊」です。
初公開の妙覚寺へ。永和四年(1378)の創建で、京都における日蓮宗十六本山の一つです。織田信長が上洛時の宿舎で、本能寺の時は嫡男・信忠が宿泊中でした。
表門は、聚楽第の裏門を移築したと伝わり、数少ない豊臣遺構です。
巨大な祖師堂は江戸期の再建で、日蓮上人・日朗上人・日像上人の坐像を祀ります。本堂では、寺宝の狩野元信作「大涅槃図」(幅4.6m×高さ5.9m)や、この寺で修行した美濃の戦国大名・斎藤道三の遺言状(レプリカ)を公開。本堂北の華芳塔堂は、安土桃山期の建築で、精巧な木造多宝塔「華芳塔」を収めます。内部の「華芳塔」も開扉され、日蓮直筆の法華経を納めた石塔が見えました(本堂から眺める方式での公開)。
江戸期の絵師・狩野一族の菩提寺でもあり、少し歩いた境外墓地には狩野元信・永徳など一族の墓があります。
5年ぶり公開の宝鏡寺(臨済宗)は、室町期に創建された尼門跡で、代々皇女が住職を務めたので「百々(とど)御所」とも呼ばれています。
本堂は本尊・聖観音菩薩像を祀り、江戸初期の狩野探幽作の襖絵「秋草図」が煌びやかな趣き。書院は、江戸中期の円山応挙作の杉戸絵や円山派の襖絵ですが、子犬などが子供目線の低い位置に描かれ、幼い皇女への配慮が感じられます。書院の庭園「鶴亀の庭」は、皇女和宮が幼少時に遊んだと伝わります。
阿弥陀堂では、光格天皇作の阿弥陀如来像や、日野富子(室町八代将軍・義政の正室)の木造を公開。日野富子は、応仁の乱の原因を作った悪女とされ、像などは残っておらず貴重です。
寺宝に歴代天皇から贈られた人形を所蔵し、孝明天皇がお気に入りだった御所人形「孝明さん」も特別公開されています。至る所に女性的な優しい雰囲気を感じる寺でした。