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2017/09/24

岡本太郎の東北展

妻と一緒に、東京・南青山の岡本太郎記念館で開催中の写真展「岡本太郎の東北」に行ってきました。

20170924岡本太郎氏と云えば、「芸術は爆発だ!」で知られる前衛的な芸術家です。私は、大阪万博(1970)で太陽の塔をリアルタイムで見に行った世代なので、特に強烈な印象があります。

そんな太郎氏が、日本の民俗芸能にカメラを向けていたことは、つい最近知りました。
写真展では、縄文文化をきっかけにシャーマニズムに関心を寄せた氏が、東北を訪れて土着の魂の叫びを見い出し、独特の視点で切り取った写真を展示しています。

1960年代の東北には、人々の生活に根付いた郷土芸能が純粋な形で、いい意味で「泥くさく」残っていました。氏は、これらの民俗を芸術家の鋭い感性で撮影しています。人々の素朴な表情がモノクロ写真で迫り、凄みすら感じます。

たしかに民俗を撮っているのですが、普通の民俗写真と何か違う…。何が違うんだろうとしばし考えて、氏の視点が被写体の「顔」に据えられていることに気付きました。民俗の表層にではなく、人・動物・物の「顔」に真っすぐ向けられた強烈なまでの関心…。
プロの写真家ではなく芸術家としての斬新な視点、切り取り方にハッとさせられ、民俗芸能と対峙する姿勢を深く考えさせられました。

記念館は、氏のアトリエを公開したもので、生前のアトリエや庭のオブジェが印象的(館内撮影自由)。近くには根津美術館や秋山庄太郎写真芸術館(こちらは当分の間、休館中)もあります。

この写真展は、10月9日(月)まで開催しています。

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2017/09/03

大阪・お初天神

曽根崎・露(つゆの)天神社へ。

20170901c曽根崎地区の総鎮守で、平安期に菅原道真公が大宰府へ左遷される途中、当地で詠んだ句(露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば)に因むと伝わります。

通称「お初天神」の名で知られ、「曽根崎心中」の舞台となった所です。
元禄十六年(1703)、遊女お初と醤油屋の手代・徳兵衛が悲恋に落ち、この神社の森で心中しました。
この事件を近松門左衛門が脚本化し、文楽「曽根崎心中」が誕生。大評判となり、神社に大勢の参詣者が押しかけたそうです。

現在は、ビルと商店街に囲まれて想像できませんが、当時は社殿の裏手に広大な森があったそうです。お初と徳兵衛が見つめ合うブロンズ像には、恋の成就を願うハートの絵馬がたくさん奉納されていました。
例大祭(毎年7月第三金~土曜日)には、舞獅子や傘踊りが伝わり、機会があれば見たいものです。

今回の旅の機材はRICHO GRでした。大阪は何度か来ていますが、初の曽根崎界隈でした。夜は昭和のムード溢れる「お初天神通り」で、旧知と串カツで一杯やるのも楽しかったです。

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2017/09/02

大阪・かしく寺

お初天神への途中、かしく寺に立ち寄りました。

20170901b正式には光智山法清寺(日蓮宗)ですが、遊女かしくの墓があるので「かしく寺」の名で親しまれています。

江戸期、曽根崎遊郭の遊女かしくは、武家に身請けされたものの、酒癖が悪く、心配した職人の兄から度々注意されていました。寛延二年(1749)、昼酒で泥酔しているのを兄から咎められたかしくは、逆上して兄を刃物でメッタ刺しに…。ひと月後、市中引き回しの上、打ち首になりました。

この事件は、兄殺しという特異さと、かしくの最期が浪速っ子の話題をさらいました。処刑の日、かしくは油揚げを所望し、その油で髪を整え、遊女の矜持を示しました。そして、自らの酒癖を悔い「神霊となって酒害を絶たん」と言い残して斬首されたと伝わります。

ここから酒封じの神として「かしくの墓に手向けた手水を飲めば酒嫌いになる」と信じられるようになり、いつしか「墓石を削って飲めば断酒できる」となって、戦後まで墓石を削る人が絶えなかったそうです。

現在は、削られて細った墓石は鞘堂に覆われ、禁酒祈願に奉納された「しゃもじ」がたくさん吊り下がっています。
せっかくなので、(酒癖は悪くありませんが)丁重にお参りしておきました。

さらに歩いて御堂筋を渡り、お初天神へ向かいます。

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2017/09/01

大阪・夕日の神明

大阪に行ったついでに、曽根崎界隈を散策。

20170901a歓楽街の中に見つけた難波神明社の旧跡。

平安初期、嵯峨帝の皇子(源融公)を祀ったのが始まりで、鎌倉末期に後醍醐天皇が勅願所とし度々行幸しました。
江戸期には難波三神明(春日出、鶴町)・日本七神明(東京芝、京都松原、同東山、加賀金沢、信濃安曇、出羽湯殿山)の一つに数えられ、大阪城代や東西町奉行が替わる度に必ず参詣したそうです。

社殿が西向きだったことから「夕日の神明」の名で親しまれましたが、明治末期にキタの大火で焼失。再建されることなく、近くの露天神社に合祀されました。

周辺は昔の遊郭街で、風俗店やホテルが並んでいます。旧跡を示す石碑はきれいに手入れされ、大切に祀られていました。風俗店が名を連ねて刻まれた玉垣が面白かったです。

次は、かしく寺を訪ねます。

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