習志野・津田沼めぐり
よく晴れた土曜日、妻と習志野の津田沼周辺を散策して来ました。
新京成線を新津田沼駅で降り、南口の津田沼一丁目公園へ向かいます。
新津田沼駅がある一帯は、かつて旧陸軍鉄道第二連隊の材料廠がありました。今はすっかり商業地に姿を変えて往時の面影はありませんが、津田沼一丁目公園に、鉄道連隊で使われたK2形機関車134号がひっそりと保存展示されています。
とても小さな蒸気機関車ですが、戦地や内地の軍用線で活躍し、簡易敷設線路に多い急カーブにも対応できるように、第三動輪にフランジがない珍しい設計です。40両以上が製造されましたが、現存が確認されているのはこの1両のみだそうです。戦後は西武鉄道に払い下げられ、平成6年にゆかりの地・津田沼に戻って来ました。
津田沼一丁目公園から東に20分ほど歩き、藤崎森林公園へ移動。ここには、旧大沢家住宅と旧木曽王滝森林鉄道の機関車があります。
旧大沢家住宅は、江戸初期の寛文四年(1664)に建てられた上総・宮成村(今の長生村)の名主・大沢家の住宅を丸ごと移築したものです。
江戸初期の上総の農家建築の特徴(開口部と柱が少ない広い空間、床の間がないなど)をよく残しています(県有形文化財)。午前中は、茅葺き屋根の除燻を兼ねてカマドで火を焚いており、管理人さんから詳しい説明を聞くことができます。
旧木曽王滝森林鉄道の機関車は、長野県の木曽王滝森林鉄道で昭和50年の廃線まで使われていました。
昭和15年製のGB4型ディーゼル機関車92号(東京芝浦・酒井工作所製)に、運材台車6・7号とB形客車を連結した状態で、かつて王滝村の中心にあった「田島停車場」を再現した駅舎に保存展示されています。レールと枕木も往時のもので、ピンク色の小さな客車が可愛らしいです。
藤崎森林公園から北西に数分歩くと、新興住宅地に囲まれた台地にぽっかり開けた畑地とその真ん中にこんもりした富士塚が見えてきます。
縄文中~後期(今から4500~3000年前)の藤崎堀込貝塚で、当時はこの辺りまで海が入り込み、馬蹄型の貝塚の周辺に縄文人の住居が集まっていました。耕した畑には、今も白い貝殻がいっぱい混じっています。
貝塚の中央にある富士塚は、江戸期以降に冨士講の人たちが築いたものだそうです。
貝塚がある畑地の北西端(日露戦争記念碑が立つ三叉路のところ)に、竹藪の斜面を降りる小さな小径があります。
この小径は、江戸初期に御成街道ができる以前の街道の一部とされ、藤崎古道と呼ばれています。
ちなみに「藤崎」の地名は、東金の鷹狩りに向かう徳川家康が、この地に咲いていた藤の見事さを褒めたことから、一帯を「藤咲」と呼ぶようになり、その後、子安神社の御祭神(木花咲耶姫)に憚って「藤崎」の字を当てるようになったと伝わります。
30mほどの短い道ですが、うっそうと茂る竹藪と木々が古道の雰囲気を漂わせています。
藤崎古道を抜け、バス通りに出て南に下り、正福寺の大銀杏、子安神社に立ち寄り、西進してJR津田沼駅前へと戻ります。
JR津田沼駅の南側には、千葉工業大学のキャンバスが広がっています。ここは、かつて旧鉄道第二連隊の本部や兵舎があった所です。
大学の建物が建て替えられた際、往時の建物は取り壊されて残っていませんが、正門の煉瓦門柱4基は旧鉄道第二連隊の表門をそのまま使っています(国登録有形文化財)。今では「工大の煉瓦門」と呼ばれて親しまれています。
駅ビルで食事や買い物の後、再び新京成線に揺られて帰宅。やたら曲がりくねって速度が出せない新京成線ですが、かつての旧鉄道第二連隊の演習線だと思うと、何だか許せる気持ちになりました。
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