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2015/04/25

習志野・津田沼めぐり

よく晴れた土曜日、妻と習志野の津田沼周辺を散策して来ました。

20150425a新京成線を新津田沼駅で降り、南口の津田沼一丁目公園へ向かいます。
新津田沼駅がある一帯は、かつて旧陸軍鉄道第二連隊の材料廠がありました。今はすっかり商業地に姿を変えて往時の面影はありませんが、津田沼一丁目公園に、鉄道連隊で使われたK2形機関車134号がひっそりと保存展示されています。
とても小さな蒸気機関車ですが、戦地や内地の軍用線で活躍し、簡易敷設線路に多い急カーブにも対応できるように、第三動輪にフランジがない珍しい設計です。40両以上が製造されましたが、現存が確認されているのはこの1両のみだそうです。戦後は西武鉄道に払い下げられ、平成6年にゆかりの地・津田沼に戻って来ました。

津田沼一丁目公園から東に20分ほど歩き、藤崎森林公園へ移動。ここには、旧大沢家住宅と旧木曽王滝森林鉄道の機関車があります。
20150425b旧大沢家住宅は、江戸初期の寛文四年(1664)に建てられた上総・宮成村(今の長生村)の名主・大沢家の住宅を丸ごと移築したものです。
江戸初期の上総の農家建築の特徴(開口部と柱が少ない広い空間、床の間がないなど)をよく残しています(県有形文化財)。午前中は、茅葺き屋根の除燻を兼ねてカマドで火を焚いており、管理人さんから詳しい説明を聞くことができます。

20150425c旧木曽王滝森林鉄道の機関車は、長野県の木曽王滝森林鉄道で昭和50年の廃線まで使われていました。
昭和15年製のGB4型ディーゼル機関車92号(東京芝浦・酒井工作所製)に、運材台車6・7号とB形客車を連結した状態で、かつて王滝村の中心にあった「田島停車場」を再現した駅舎に保存展示されています。レールと枕木も往時のもので、ピンク色の小さな客車が可愛らしいです。

20150425d藤崎森林公園から北西に数分歩くと、新興住宅地に囲まれた台地にぽっかり開けた畑地とその真ん中にこんもりした富士塚が見えてきます。
縄文中~後期(今から4500~3000年前)の藤崎堀込貝塚で、当時はこの辺りまで海が入り込み、馬蹄型の貝塚の周辺に縄文人の住居が集まっていました。耕した畑には、今も白い貝殻がいっぱい混じっています。
貝塚の中央にある富士塚は、江戸期以降に冨士講の人たちが築いたものだそうです。

20150425e貝塚がある畑地の北西端(日露戦争記念碑が立つ三叉路のところ)に、竹藪の斜面を降りる小さな小径があります。
この小径は、江戸初期に御成街道ができる以前の街道の一部とされ、藤崎古道と呼ばれています。
ちなみに「藤崎」の地名は、東金の鷹狩りに向かう徳川家康が、この地に咲いていた藤の見事さを褒めたことから、一帯を「藤咲」と呼ぶようになり、その後、子安神社の御祭神(木花咲耶姫)に憚って「藤崎」の字を当てるようになったと伝わります。
30mほどの短い道ですが、うっそうと茂る竹藪と木々が古道の雰囲気を漂わせています。

藤崎古道を抜け、バス通りに出て南に下り、正福寺の大銀杏、子安神社に立ち寄り、西進してJR津田沼駅前へと戻ります。

20150425fJR津田沼駅の南側には、千葉工業大学のキャンバスが広がっています。ここは、かつて旧鉄道第二連隊の本部や兵舎があった所です。
大学の建物が建て替えられた際、往時の建物は取り壊されて残っていませんが、正門の煉瓦門柱4基は旧鉄道第二連隊の表門をそのまま使っています(国登録有形文化財)。今では「工大の煉瓦門」と呼ばれて親しまれています。

駅ビルで食事や買い物の後、再び新京成線に揺られて帰宅。やたら曲がりくねって速度が出せない新京成線ですが、かつての旧鉄道第二連隊の演習線だと思うと、何だか許せる気持ちになりました。

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2015/04/19

市原・高瀧神社の花嫁まつり

市原・高瀧神社で行われた花嫁まつりを撮影。

20150419高瀧神社は、白鳳二年(662)の鎮座と伝わり、御祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀っています。
安産・子育て・縁結びのご利益があり、毎年4月中酉(現在は、前後の日曜日)に行われる春季例大祭は、新婚の花嫁が婚礼衣装で参詣することから、「花嫁まつり」と呼ばれています。

もともと高滝地区では、大正期から、氏子に嫁入りした花嫁が仲人に付き添われ、婚礼衣装で神前に結婚を報告し、子宝に恵まれるよう祈願する慣習がありました。
戦時中は中断しましたが、戦後に復活。40年ほど前からは、春季大祭に行列を仕立てて数組が合同で参詣するようになりました。

この日は、3組の新婚カップルが猿田彦の露払いで参詣し、祝福の稚児行列が続きました。

【この日の進行スケジュール】
13:30~ 花嫁まつり
練り行列→神事(拝殿)→記念撮影
14:30ころ 終了

【メモ】
曇天で時折小雨が落ちる中、無事催行。練り行列は、猿田彦・花嫁が一の鳥居から(稚児は二の鳥居から合流)ゆっくり石段を登り、拝殿を右回りに1周してから昇殿する。拝殿神事は20分ほどで終わり、花嫁や稚児が拝殿前で記念撮影して解散。花嫁も花婿も、声をかけるととてもいい表情を見せてくれる。幸せのお裾分けをもらい、こちらまで気持ちが温かくなった。
見物人とカメラマンはものすごく多い。石段の上下から、爺さまカメラマンたちの怒号(「後ろのカメラマン、邪魔だよ」云々)が飛び交い、せっかくの幸せ気分が吹っ飛んでガッカリな感じに。神社に駐車場あるも、門前Pは植木市で利用不可、西参道Pは狭くて満車。周辺道路に路上駐車が溢れていた。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2015/04/17

インドの仏(ほとけ)展

妻と一緒に、上野・東京国立博物館で開催中の「インドの仏~仏教美術の源流」展に行ってきました。

20150417この特別展は、コルカタ・インド博物館のアジア巡回展で、日印の文化交流イベント「Festival of India in Japan 2014-2015」の企画の一つとして開催されています。

古代インド仏教美術のコレクションを、「仏像誕生以前」「釈迦の生涯」「仏の姿」「さまざまな菩薩と神」「ストゥーパと仏」「密教の世界」「経典の世界」の7つのテーマに分けて紹介しています。

日本に仏教が伝わったのは6世紀ころ。仏像や経典も同時に伝わったので仏教=仏像のイメージです。なので「もともと仏教に仏像は存在しなかった」と聞き、仏像誕生の謎に興味がありました。

古代インドでは、釈迦の入滅(紀元前5世紀ころ)後、仏舎利塔(ストゥーパ)礼拝が普通でした。塔の石板には法輪や菩提樹が刻まれ、やがて紀元前2世紀ころには、平面彫刻から立体的で精巧な浮彫彫刻へと発展します。
1~3世紀ころになると、西北のガンダーラと北部のマトゥラーで、釈迦の彫像が作られるようになりました。ガンダーラではギリシャ・ローマの神像の、マトゥラーでは現地神信仰(バラモン教、ヒンドゥー教など)の影響を受けたと考えられています。様々な彫像=仏像が作られ、やがて像そのものが礼拝の対象となり、同時に祈願文を唱えるようになりました。
つまり、釈迦が滅した後、500年以上は仏像も経典もなかったことになります。

展示総数は91点で、仏像誕生の謎や神仏の融合、密教台頭と仏教の衰退など、日本に伝わる以前のインド仏教の流れがよく分かる構成になっています。日本にいながら2000年前の古代インド仏教美術の至宝を一度に見られる貴重な機会です。

今回も金曜の夜間開館を利用しましたが、人が少なく、音声ガイドを聴きながら、間近でじっくり見ることができて大満足でした。ハードカバーの立派な展示図録も内容が濃くてお勧めです。

インドの仏展は、3月17日~5月17日まで開催中です。

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2015/04/12

市原・菊間八幡神社の神楽

市原・菊間八幡神社の春大祭で奉納された十二座神楽を撮影。

20150412b_2菊間八幡神社は、新興住宅街に囲まれた小高い丘の深い森に包まれて鎮座しています。

神社に伝わる十二座神楽は、起源は不詳ですが、江戸後期の1800年代には既に舞われていたと考えられています。
戦中~戦後に途絶えましたが、氏子の熱意で昭和20年代に古老の指導により復活。演目は「神子舞・庭掃き・猿田彦・狐・稲荷・八幡・外道・恵比寿・おかめ」が伝わります。

現在は、菊間八幡神社神楽保存会の皆さんが伝統を守っています。

【この日の進行スケジュール】
13:00~13:40 神子舞
14:00~ 神楽奉納
庭掃き→猿田彦→狐→外道→恵比寿→おかめ→(餅撒き)
15:00ころ 終了

【メモ】
毎年4月第二日曜日に奉納。神子舞は男児1・女児2が交互に舞う。狐の舞(上の写真)は、夫婦狐が鈴と幣束を手に跳ね回る。鈴は豊作を、舞台中央で二匹が交差するのは子孫繁栄を意味している。外道の舞は、別名「鬼の舞」とも呼ばれ、鬼2匹・鍾馗・医者どんと丁稚が登場するユニークな演目。
面と衣装が美しく、舞も本格的な里神楽だが、文化財指定は受けていない(十二座から演目落ちがあるのが理由か)。
神楽殿は、床が高く、正面と左が開いており、撮影は容易(脚立は3段を推奨)。見物人は十数人、カメラマンは7人。神社裏(若宮公民館の奥)に駐車場あり。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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袖ケ浦・飽富神社のお田植神事

袖ケ浦・飽富神社で行われたお田植神事を撮影。

20150412a【現地案内板の説明】
「稲の豊作を祈る神事で4月上旬に行われます。この神事の世話人は高橋孫右衛門宅が世襲で行っています。
当日は、氏子総代が刈ってきた葭(よし)と楢(なら)の小枝を、おばあさん達が苗結びに仕立て、約700本作って神前に供えます。関係者一同が祈願の後、稲籠に入れた葭苗を鳥居の前に運び、すげ笠にたすき姿の「早乙女」が石段下に集まった氏子たちに向かって、この葭苗を投げるという神事です。氏子は、この葭苗を田植えまで神棚に供え、田植えの時に水口に立てて豊作を祈願します。」

【この日の進行スケジュール】
9:00~ 葭苗作り
10:30~ 神事
10:50~ 田植えの儀・早苗振り
11:00ころ 終了

【メモ】
田植え前の予祝行事(旧行5月1日)。早乙女が投げる葭苗は、農家の御婦人方が、葭2本+小楢の枝1本を藁で縛って作る。早乙女役は小学低学年までの女児が勤めるが、地区に適齢の児童がおらず、氏子の関係者で賄っている(今年は4歳と2歳)。石段の最上段から葭苗を投げ、下段で待ち受ける農家の御婦人方が、散らばった葭苗を拾い集めて持ち帰る。神社周辺の水田には水が張られ、田植えに向けた準備が始まっていた。見物人は地元の皆さんほか数人、カメラマンは4人。神社に駐車場あり。
※詳細記事は、本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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