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2012/03/25

青梅・青梅の獅子舞展

東京・青梅の市郷土博物館で開催中の企画展「青梅の獅子舞」展に行って来ました。

20120325a青梅市内に伝わる8つの獅子舞を取り上げ、使われる獅子頭や用具、演舞の写真を展示して紹介しています。

展示されているのは、都無形民俗文化財の「沢井の獅子舞」、市無形民俗文化財の「上成木高水山獅子舞」「成木熊野神社獅子舞」「野上春日神社獅子舞」「友田御嶽神社獅子舞」「鹿島玉川神社獅子舞」「梅郷獅子舞」「天之社獅子舞」です。天之社獅子舞は伊勢神楽系、他は三匹獅子系の獅子舞です。

入場無料ですが訪れる人はまばらで、囃子のテープが流れる会場はガランとしていました。青梅は古い形態を残す三匹獅子舞が多く残り垂涎の「獅子舞の宝庫」ですが、地元の関心は少ないのかな…。

展示図説があれば欲しいところでしたが、各獅子舞の公開日程や解説の印刷物が用意されており、貴重な資料が入手できました。「青梅の獅子舞」展は1月7日(土)~3月25日(日)まで、この日が最終日でした。

20120325bせっかく青梅に来たので、少し足を延ばして吉野梅郷へ。
クルマを置いて梅の郷を散策しました。例年なら梅は最盛期ですが、今冬の異常な寒さで開花は大幅に遅れています。
即清寺の「招春梅」、大聖院の「親木の梅」、観梅通りの「岩割の梅」、「鎌倉の梅」はどれも未開花。梅の公園も東口付近が七部咲きで、あとは蕾か咲き始め…。売店のおばさんも「こんなに遅いのは初めてだ」とぼやいていました。

それでも、青空の下、妻と自然の中をのんびり散策して、とても気持ちのいい休日でした。

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2012/03/18

山武・白幡八幡神社の神楽

山武市白幡の白幡八幡神社講社祭で奉納された神楽を撮影。

20120318白幡八幡宮は、伊豆石橋山の戦いで敗れ安房に逃れた源頼朝が、再起を誓って白旗を奉納した由緒ある古社です。

古くから区外に氏子が多く、地域ごとに講社(12講社約120世帯)が形成され、春(3月15日)と秋(旧暦8月15日)に神社に参詣する「講社祭」が行われます。

講社祭では、儀式の後、直会を兼ねて、伝承文化保存会により十二座神楽と稚児舞が奉納されます。

【この日の進行スケジュール】
10:00~ お練り(御子道中)
11:30~ 講社祭々典(拝殿)
12:30~ 神楽奉納(神楽殿)
猿田彦命→鈿女命→八幡大神→稚児舞(御子舞)→三宝荒神→稚児舞(カンカン能)→種蒔→蛭子舞→稲荷之舞→出雲切
14:45ころ 終了

【メモ】
講社祭は、現在は春・秋ともその日に近い日曜日に催行(追記:2013年から神楽は春のみに変更されたようです)。この日は神楽8座と稚児舞2座が演じられた。八幡大神の面が武神らしく凛々しいのと、蛭子舞で登場するえびす・大黒の賑やかな衣装が特徴。稚児舞は小学2~4年生の5人による「御子舞」と「カンカン能」(天冠と水干なし)。カンカン能の名の由来は謎(地元の人も分からないとのこと)。神楽・稚児舞とも奏楽は絶えており、テープを流していた。神楽殿は床が高く、脚立を使用。
途中で雨が降ったが、見物人は30人くらい、カメラマンは5人。駐車場あり。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2012/03/11

横芝光・宮川の神楽

横芝光町・宮川の熊野神社で奉納された神楽を撮影。

20120311b【現地案内板の解説】
「熊野神社は、貞観十八年勧請された社で、古くは、熊野新宮大権現と言い、明治二年、熊野神社と改称しました。
当社に伝わる神楽は、十三座(十三面)十二舞六曲の謡があり、農作業の安全と五穀豊穣を祈願して春季大祭(三月十五日)に奉納されています。
1天狗 2鈿女命 3三宝荒神 4榊葉 5春日之社人 6お多 7保食神 8田うなひ 9種子蒔 10八幡大武神 11恵比寿 12七五三切
以上の舞で構成されています。」

【この日の進行スケジュール】
13:00~ 神楽奉納
天狗→鈿女命→三宝荒神→榊葉→春日之社人→お多→保食神→田うなひ→種子蒔→八幡大武神→恵比寿→七五三切
16:30ころ 終了

【メモ】
船橋→山武64kmを1時間で移動。現在は、毎年3月第二日曜日に奉納。昨年は、直前に東日本大震災が起きて中止となり、2年ぶりの催行。舞に謡が入る演目が多いのが特徴。「恵比寿」では、九十九里地方の神楽らしく大漁節を踊る。この日は、大震災からちょうど一年。午後2時46分、全員で東北地方に向かい黙祷して続けられた。神楽殿は正面と左右の三方が開き、床はそれほど高くないので撮りやすい。最後の「七五三切」はあっという間で撮り逃がした。
見物人は地元の皆さんが多数、カメラマンは8人。駐車場あり。現地で詳しく教えていただいたHさん、護符を頂いた社友会の皆さん、ありがとうございました。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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船橋・海神の天道念仏

船橋・海神の念仏堂で行われた天道念仏を撮影。

20120311a天道念仏は、農耕が始まる春先に、太陽(てんとう)を拝んで五穀豊穣を祈願する仏教行事です。
福島以南の関東に多く見られ、千葉県内では下総地方で広く行われていました。

海神地区では、毎年3月8日に近い日曜日、念仏堂で行われます。仏様(大日如来)を華やかな梵天で飾り、供え物をして香を焚きます。唱念仏の後、鉦や太鼓を叩き、「念仏踊り」をしながら梵天の周りを回ります。

昭和初期に中断しましたが、昭和56年(1981)に保存会が結成されて再開されました。

【この日の進行スケジュール】
11:00~ 唱念仏→念仏踊り
13:00~ 念仏踊り

【メモ】
場所は、国道14号とJR総武線に囲まれた小さな空間。念仏は、天道念仏→般若心経→廻向文を唱える。念仏踊りは、扇を手に梵天の周りを右回りで踊る素朴な踊りで、唄や念仏はない。念仏堂の木造阿弥陀如来立像は、平安末期の作で市有形文化財。見学者は十数人、カメラマンは5人。甘酒の振る舞いを頂きました。駐車場なし(スペースもなく、コインPを利用)。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載しています。

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2012/03/08

明和・齋宮歴史博物館

二見から国道23号線を北上し、明和町にある齋宮歴史博物館(県立)を訪ねました。

20120308aこの博物館は、飛鳥期から鎌倉期までの約六百六十年間、天皇家の未婚の女性が伊勢神宮の神に仕えた「齋王」(さいおう)制度について詳しく展示しています。

齋王は、天皇の即位ごとに占いで選ばれ、伊勢に派遣されました。都から伊勢に赴く行列は、五百人以上の従者を従え、葱華輿に揺られて5泊6日かけて群行しました(左の写真)。

伊勢に近いこの地には、齋王の宮殿や官所(齋宮寮)として、齋宮(いつきのみや)が置かれました。齋王は、齋宮に常駐し、伊勢神宮で行われる6月と12月の月次祭、9月の神嘗祭に天皇の名代として出仕しました。
齋王の優美な生活は、伊勢物語や大和物語、源氏物語などの古典文学に描かれています。ただ、任期は譲位や崩御で天皇が替わるまでだったので、いったん都を離れると永く戻れなかったようです。

齋宮は、平安期に最盛期を迎え、朝廷の力が衰え武家が台頭した鎌倉期には荒廃し、鎌倉幕府が崩壊した1336年ころに廃絶しました。

20120308b博物館では、1038年に齋王として赴任した後朱雀天皇の皇女・良子(ながこ)内親王の記録(藤原資房の日記「春記」)をもとに、齋王群行の様子を再現した映像展示をしています(下の写真はそのパンフレット)。
時代ドラマのようで完成度が高く、この再現映像展示を見てから館内を回ると、齋王のことがよく分かりました。

このほか、音声ガイダンス(有料)を聴きながら展示を見ると、とてもよく理解できておすすめです。
鎌倉期以降が中心の関東ではほとんど知られていない「齋王」。旅の最後に思わぬ発見がありました。

今回の伊勢の旅はこれで終わり。帰路は松阪ICから高速に乗り、途中、四日市付近で大渋滞に巻き込まれ、東京着は午前1時。自宅には午前1時半に到着しました。
妻と交互に運転したので意外と疲れが少なく、満足度の高い旅でした。

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2012/03/07

二見・夫婦岩

伊勢神宮から二見へは、車で20分ほどです。

20120307a二見といえば、二見海岸の夫婦岩が有名です(写真は、左が男岩、右が女岩)。

この夫婦岩は、沖合660mの海中に沈む興玉神石(二見興玉神社の御神体)の鳥居です。

男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、長さ35m、太さ10cm、重さ40kgの縄を5本束ねています。縄の向こうは常世の神が海原の彼方からやってくる聖なる域で、俗世と隔てる「結界の縄」とされています。

20120307b年3回行われる大注連縄張神事では、木遣り歌が響く中、氏子のみなさんが縄を張り替えるそうです。平成24年は、5月5日、9月5日、12月16日の3回で午前10時半から張替神事が行われます。

毎年5月から7月は夫婦岩の間から昇る朝日を拝むことができます。
海岸の興玉神社には、夫婦岩のそばの蛙岩にちなみ、蛙の彫像がたくさん奉納されていました。

二見を後にして、東京へと帰路につきます。
途中、齋宮歴史博物館に立ち寄ります。

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2012/03/06

伊勢・月読宮

伊勢内宮から月読宮へ。

20120306a月読宮は、内宮から1.8kmと近いものの、観光客は少なく、落ち着いた荘厳な雰囲気の宮です。
(写真奥から)月読荒御魂宮、月読宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の4宮が仲良く横に並んでいます。

古事記によれば、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、黄泉の国で妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会った後、川で禊ぎをした際、左目から天照大神、右目から月読尊(そして鼻から素戔嗚尊)が生まれました。

天照大神は「日の神」として高天の原を治め、月読尊は「月の神」として夜を治める神となりました(素戔嗚尊は、「この世の神」として海原を治めるように命ぜられましたが、言いつけに背き、統治をさぼって好き放題をし、後に天上から追放されます)。

20120306b参拝は、月読宮→荒御魂宮→伊佐奈岐宮→伊佐奈弥宮の順が正しいようです。
ちなみに、荒御魂(あらみたま)とは、時に臨んで格別に顕著な神威を現すときの御魂のことで、和魂(にぎみたま)は平常の穏やかなときの御魂のことです。

また、神名に「尊」が使われているのは、「至って貴きを尊といい、そのほかを命という」(日本書紀)からで、格式の高さをあらわし、本宮に合わせて20年に一度の式年遷宮が行われます。

この日は、雨のせいか人影も少なく、いっそう荘厳な雰囲気で心が洗われました。
次は、観光地・二見へ向かいます。

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2012/03/05

伊勢・伊勢神宮

2日目は伊勢神宮へ。

20120305a松阪から伊勢神宮までは、車で30分ほどです。
まずは山田原の外宮(豊受大神宮)に参拝してから、五十鈴川の内宮(皇大神宮)へ。

内宮では、来年秋の式年遷宮(20年毎)に向けた準備が進んでいて、昨夏に訪れた時は更地だった西の御敷地は、白い巨大な覆いの中で新正殿の工事が始まっていました。

ちょうどこの日(3月4日)は、新正殿の建築初めに御柱を立て奉る「立柱祭」。小工(こだくみ=宮大工)が御柱を木槌で打ち固める神事が行われました(非公開)。
その後、神職と小工が行列をなして五丈殿(ごじょうでん)に移り、殿内で立ったり座ったりして神事を行う様子が見学できました。

20120305b遷宮の準備は7年前から始まっていて、すでに御用材を山から切り出す神事などは終わり、これから遷御へ向けた造営が本格化します。3月6日には、外宮でも同様の「立柱祭」が行われます。

別宮を参拝して内宮を出たのはお昼時。
参道の伊勢角屋麦酒店で牡蠣と鰻の昼食。おはらい町通りやおかげ横丁をのんびりと見て歩き、途中の赤福で頂いたぜんざいが逸品で大満足でした。

次は、月読宮へ向かいます。

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2012/03/04

松阪・本居宣長記念館

再び城内に戻り、本居宣長記念館へ。

20120304a江戸中期の国学者・本居宣長(1730~1801)は、松阪の木綿商の家に生まれました。
23歳で京に出て医術を学び、28歳で松阪に戻り開業。診療の傍ら、29歳で賀茂真淵に師事し、古典研究の道を究めた「もの学び」の人です。
特に、35歳から35年間かけて完成させた古事記伝全44巻は、古事記初の体系的な研究で、その業績は現代にも引き継がれています。

魚町にあった旧宅は、伊勢神宮に行幸した明治天皇が立ち寄った際、整備と保存を命ぜられ、明治42年(1909)に松阪城跡に移築されました。
公開されている1階には、当時としては大変珍しいガラス製の天窓や自家風呂があり、裕福な家柄が偲ばれます。
2階の書斎「鈴屋」(上の写真)は、思索に疲れた宣長が床柱にかけた鈴の音で頭を休めたことからその名があります。床の間には「県居大人(賀茂真淵)之霊位」の軸をかけ、師匠を忘れず勉学に励んだようです。

旧宅に併設の記念館では、古事記伝の直筆本など国重文の貴重な資料がたくさん展示されていました。最近、古事記に関する本を集中的に読んだので、とても興味深く、資料として展示目録を購入。

20120304b次は、城跡内の松阪市立歴史民俗資料館(右の写真)に立ち寄りました。
重厚な建物は、明治45年(1912)築の旧飯南郡図書館で、市の登録文化財です。
商都・松阪の歴史を伝える豪商の看板や、伊勢白粉(おしろい)の実物、松阪木綿の機織り道具などが展示されています。

この日は松阪泊。夜は市内で松阪牛を堪能しましたが、地元ではすき焼きかホルモンが主流とか。ちょっと意外でした。

明日は伊勢神宮に詣ります。

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2012/03/03

松阪・城と城番屋敷

思うところがあって、妻と1泊2日で伊勢神宮へ参拝に行って来ました。

20120303a東名→伊勢湾岸道→東名阪→伊勢道と渋滞もなく、午後1時半、最初の目的地・松阪に到着。まずは松阪城跡へ向かいます。

松阪は、戦国期に秀吉の重臣・蒲生氏郷が城を築き、楽市楽座や参宮街道を町中に付け替え、12万石の城下町として栄えました(氏郷は、築城後2年で会津若松42万石に栄転)。
江戸期には紀州藩領となり、伊勢白粉(おしろい)と松阪木綿で全国有数の商都として発展。三井家などの豪商(松阪商人)が江戸で成功を収めています。

松阪城は、江戸前期に天守閣が倒壊し、その後は陣屋が置かれました。現在は、氏郷が安土城と同じ工法で組んだ美しい石垣だけが残っています。
築城時に接収した寺社の墓石も使っていて、雨に濡れると石の文字が浮かび上がるそうです。

20120303b城跡の外(旧三の丸)には、槙の生け垣に囲まれた御城番屋敷が残っています。
江戸初期に紀州から松阪城番に遣わされた横須賀党の精鋭20人が住んだ組屋敷で、現存する武家長屋として貴重な建物です(国重文)。敷地内には、旧城内にあった米蔵も残っています(県文化財)。

長屋には今も子孫が住み、「わが党各家は永世変わらず苦楽をともにし、家門の繁栄を図ること」と「紀州藩祖徳川頼宣公と長保寺海弁僧正の恩義を忘れてはならないこと」を誓った「苗秀社」を結成し、整然と維持管理しています。

次は、松阪出身の国学者・本居宣長の軌跡を訪ねます。

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