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2011/10/30

西伊豆・松崎

2日目は,松崎の町をのんびりと散策。

111030a松崎町は,人口7500人ほどの小さな港町です。明治~大正期は養蚕で栄え,全国の繭相場に大きな影響力を持ちました。

繭や木炭の積出しで賑わい,財をなした商家が「なまこ壁」の蔵屋敷を構えました。現在も,那賀川沿いに「なまこ壁」の旧家が点在しています。

松崎に来たもう一つの目的は,長八の鏝(コテ)絵です。
長八(1815-1889)は,江戸末~明治中期に活躍した松崎出身の左官の名工です。貧しい農家に生まれ,左官になり,後に江戸に出て狩野派の画を学びました。
左官の漆喰細工に狩野派の技法を取り入れ,漆喰をコテで細かく彫塑して彩色し,独特の芸術「鏝絵」の分野を開拓しました。
江戸・浅草寺や成田・新勝寺などにも作品を残したそうですが,技術的な継承も途絶え,現在はほとんど残っていません。

生まれ故郷の松崎には,幼少期を過ごした浄感寺の本堂(長八記念館)や町立伊豆の長八美術館に,見事な鏝絵や絵画が残されています。
上の写真は,松崎の旧呉服商・中瀬邸の土蔵に施された鏝絵です(長八の作品かは不明)。

111030bこの日は,観光駐車場にクルマを置いて,浄感寺(八方にらみの龍)→なまこ壁通り(近藤邸)→ときわ大橋(漆喰の橋)→中瀬邸→那賀川沿い→伊那上神社→伊豆文邸→伊豆の長八美術館と歩いて散策しました。
その後,クルマで郊外の旧岩科学校(重文)に移動して見学し,松崎町を後にしました。

今回の旅の機材は,AF-S DX 18-55mmF3.5-5.6G,Nikon D40,SB-600でした。土肥金山の坑道でストラップが緩んでカメラが落下。ストラップも時々チェックしないといけませんね。
帰りはR136を北上して,黄金崎でガラス美術館に立ち寄り,沼津ICから東名で帰宅。途中,渋滞15kmにつかまり,帰宅は午後10時ころでした。

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2011/10/29

西伊豆・堂ヶ島

土肥から西伊豆町へ続くR136は,狭くて峠道が多いものの,眼下の駿河湾と遠景の富士山が美しいドライブ・コースです。

111029c恋人岬,黄金崎,大田子海岸と絶景が続き,夕日が美しい町として写真愛好家にも人気があります。今回は,妻とのんびり旅行なので,撮影スポットはパスして堂ヶ島を目指します。

堂ヶ島は,入り組んだ海食崖に小島が点在する景勝地です(「堂ヶ島」という島がある訳ではないそうです)。
断崖は,富士山の噴火で隆起した白い凝灰岩の堆積地層で,大小の洞窟があります。中でも,天窓洞は,内部が広く,岩盤が抜け落ちた天窓から光が降り注ぎ,神秘的な美しさです(国天然記念物)。

今回は,洞窟巡りの遊覧船を利用。奇岩の間を巧みに操船するのは若い船長さん。船は仁科漁港沖の島を廻った後,狭い南の穴から天窓洞の奥へ。洞窟の奥には,エメラルドグリーンに輝く神秘的な光景が待っていました(上の写真)。この日は天気が良くてラッキーでした。

111029d遊覧船は,所要20分ほどで,休日は10分おきに出船しているので待ち時間はありません。写真を撮るなら客室内より外のデッキがお勧め。ただ,天気が良くても波が荒いと欠航になるようです。

船乗り場の向かいには(なぜか)加山雄三ミュージアムや蘭園があります。若大将に特に想い入れはないので,今回は立ち寄らず,松崎に向かいました。

夕方,松崎町の宿に到着。海に沈む夕日が見える温泉と,夕食の伊勢エビとアワビに大満足。明日は,「なつかし街」を求めて町を散策します。

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西伊豆・土肥金山

妻を誘って,西伊豆の土肥~松崎を訪ねました。

111029a東名を沼津ICで降り,R136で最初の目的地・土肥(伊豆市)に向かいます。

土肥は,かつて金鉱山で栄えた町です。
足利幕府が直轄の金山奉行を置いたのが始まり。その後,徳川家康が開発に注力し,一時は「土肥千軒」と称されるほど隆盛を極め,徳川幕府の財力を支えましたが,鉱脈が痩せて寛永二年(1625)に休山。

明治~大正期,新鉱脈が見つかり,土肥金山(株)が大規模に採掘しましたが,鉱脈が枯渇して昭和40年に閉山。この間,掘られた坑道は総延長100km。金40t,銀400tを生産し,新潟の佐渡金山に次ぐ大金山でした。

現在,坑道跡は市史跡に指定され,一部(栄進通洞坑)が公開されています。
上の写真は,釜の口(坑道入口)に復元された化粧柵。4本の支柱で山を留めているので,「四つ留」と云うそうです。

111029b坑道内では,水替え・支柱組み・通風・切羽・運搬・採掘など,リアルな人形で江戸期の過酷な採掘の様子が再現されています。男女混浴?の坑内風呂のシーンが面白かったです。

隣接する金山資料館では,千両箱の重さ体験や,ギネス認定の巨大な金のインゴット(250kg,当日の時価で11億2400万円)が触れます。

次は,西伊豆町の堂ヶ島を目指します。

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2011/10/23

船橋・飯山満町大宮神社の神楽

船橋市飯山満町の大宮神社で奉納された神楽を撮影。

111023【現地解説板の説明】
「大宮神社の神楽には,谷津の本郷(習志野市谷津)から伝えられたという伝承がある。古い装束や箱には,「文久三癸亥年」(1863)や「安政六巳未年」(1859)の墨書が見え,江戸時代末期頃にはすでに演じられていたようである。

1月7日夜(七草),10月23日夜(例祭)神楽殿において,氏子からなる約20名の大宮神社楽人により演じられる。

現在伝えられている演目は次の12座である。「みこ舞」「天狗」「八幡太郎」「うすめ」「こかじ」「翁」「しんめ」「きつね」「神功皇后」「ひょっとこ」「いびす舞(蛭子)」「鬼・鍾馗(山神)」このうち神功皇后は,市内では大宮神社だけで演じられる。

楽器と演奏者は,大太鼓(鋲打太鼓)・1人,小太鼓(締太鼓)・1人,笛・3人である。

古くから村が確立していたといわれ,農作が盛んであった飯山満の地において,五穀豊穣を願い豊作に感謝し,独自の工夫を加え,伝えられてきた特色ある神楽である。」

【この日の進行スケジュール】
17:00~ 神楽奉納
みこ舞→天狗→八幡太郎→うすめ→こかじ→しんめ→きつね→ひょっとこ→いびす舞→鬼・鍾馗
20:45ころ 終了

【メモ】
毎年10月23日の夜に奉納。この日は「翁」と「神功皇后」を除く十座が演じられた。一座あたりの舞時間は7~10分で,幕間に10~15分の休憩が入る。舞台は前と左右の三方が開き,左奥に笛,右奥に太鼓が着座。床は高め。餅を撒く演目では見物人が(子供たちを中心に)殺到し身動きできなくなる。カメラマンは3人。駐車場なし(周辺にスペースなし)。隣駅のコイン駐車場にクルマを置き,軽装備に切り替えて電車で訪問(飯山満駅から徒歩7分)。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載。

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2011/10/22

船橋・飯山満町神明神社の神楽

船橋市飯山満町の神明神社で奉納された神楽を撮影。

111022明治末期に船橋大神宮から伝わった十二座神楽で,神社の秋例祭(旧行十月十八日)に境内の神楽殿で奉納されます。

演目は「神子舞」「天狗舞」「翁舞」「天狐舞」「知乃里の舞」「笹舞」「小鍛冶の舞」「三人舞」「火男・張口舞」「蛭子舞」「鬼・鍾馗舞」「天の岩戸」の12座で,保存会等はなく,氏子の皆さんが舞手と囃子方をつとめています。

飯山満町神明神社と高根神明社は,男女の神様と云われています。飯山満町神明神社の神楽殿脇には,高根神明社に通じた路があります。この路は,夜になると神明神社の神様が高根に遊びに出向いた「神様の夜遊びの道」と呼ばれているそうです。

【この日の進行スケジュール】
18:00~ 神楽奉納
神子舞→天狗舞→翁舞→天狐舞→知乃里の舞→笹舞→小鍛冶の舞→(小休止)→三人舞→火男・張口舞→蛭子舞→鬼・鍾馗舞→天の岩戸
20:45ころ 終了

【メモ】
秋例祭は10月18日以降の最初の土曜日に催行(3月初午にも演じられる)。神楽は文化財指定を受けず,氏子だけで伝承保存。七座「小鍛冶の舞」後,10分ほど小休止。その後の演目はすべて複数演者が登場する。楽人は,笛4,大胴1,鼓1,チャッパ1。休憩時間が少なくテンポ良く進行するので撮りやすい。舞台は前と左右の三方が開き,撮影位置の移動は容易。脚立は2段を使用。明るい蛍光灯にWBが引っ張られ,「鬼・鍾馗舞」は動きが速くカメラマン泣かせ。頻繁に菓子を撒くので見物人は子供たちを中心に多数,カメラマンは4人。駐車場なし(境内裏手にスペース数台あり)。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載。

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2011/10/15

松戸神社の秋例祭と神楽

地元・松戸神社の秋例祭に出かけました。

111015地元の祭りなのですが,大都市圏の祭りは新住民の関心も少なく,地元町会の小さな神輿が練り歩くものの,今ひとつ盛り上がりに欠ける感が…。

今回は,たまたま見かけた貼り紙で神楽奉納を知り,久しぶりに地元の祭りに出かけてみました。

事前情報が少なく,神楽の内容も分からないまま現地入り。着替えをしていた演者に尋ねると,社中の「おかめ会」さんによる江戸神楽でした。
プロの公演なので,私が撮り続けている「房総の民俗芸能」とは異なりますが,興味深く見学。衣装や面が美しく,無駄な動きがない綺麗な演技に感心しました。

「おかめ会」さんは,葛飾区が本拠で,各地に呼ばれて江戸神楽や獅子神楽を演じているそうです。

【この日の進行スケジュール】
17:00~ 稲荷山(天狐ほかの祝い舞)
19:00~ 申し付け(出陣する武神に剣を授ける)
20:00~ 天孫降臨(猿田彦と鈿女の舞)
20:20ころ 終了

【メモ】
15日・16日とも同時刻の公演。初日のこの日は「稲荷山」・「申し付け」・「天孫降臨」の3座が演じられた。黙劇風に展開する江戸神楽で,一座あたり15分ほど舞って休憩。社中による演技なので,動画撮影は不可。スチル写真は撮影可だが公開不可(なお撮影時の脚立使用も不可)。見物人は少なく,カメラマンは3人。神社に駐車場なし(付近のコイン駐車場を利用)。

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2011/10/09

山武・お竜頭の舞

山武市(旧成東町)白幡の白幡八幡神社で奉納された「お竜頭の舞」を撮影。

111009b【現地解説板の説明】
「お竜頭は、鎌倉時代の作と伝えられる。このお竜頭をつかい疫病退散のために奉納された。このお竜頭の舞は源頼朝公によって始められたと伝えられる。この舞は疫病退散のために奉納されたが現在は祭礼(旧暦九月八日)の時に舞われている。この舞に使われるお竜頭は現在社宝として社殿に祭られている。このお竜頭の舞はこの地方を代表する舞である。」

【この日の進行スケジュール】
12:30~ お竜頭の舞
水垢離→四方固め,水垢離→弓くぐり,水垢離→橋がかり
15:00ころ 終了

【メモ】
鴨川→山武79kmを2時間かけて移動。この日は「四方固め」「弓くぐり」「橋がかり」の3演目を奉納。獅子(当地では竜)は,男竜・子竜・女竜で,目まで真っ黒な竜頭が珍しい。演目の前に必ず舞手が水垢離で身を清める。お囃子は笛が途絶えて久しく,テープを流していた。途中でストロボの電池が切れて焦った。見物人は地区の皆さんが多数,カメラマンは5人。駐車場あり。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載。

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鴨川・和泉の三役

鴨川市和泉の男金神社で奉納された「和泉の三役」(棒術・羯鼓舞・神楽獅子舞)を撮影。

111009a【市教委資料の説明】
「男金神社の祭礼日に毎年神前及び公会堂前庭にて、棒術・羯鼓舞・神楽獅子舞の三つが合わせて行われます。その三つを合わせて和泉の三役と呼びます。この三つがいつ頃から同時に行われるようになったかは定かではありませんが、言い伝えでは文政元年(一八一八年)に三役が揃って奉納されたと言われています。
明治四一年(一九〇八年)に和泉村の各集落の小祠が男金神社に合祀されて以降は揃って奉納されていたことは確実です。戦後は後継者難から神楽獅子舞のみが行われていましたが、平成二年には三役として復活し現在もそれぞれの保存会が保存継承に努めています。

棒術 里見氏の時代から農民の武芸奨励のために行われていたとの伝承もあります。六尺棒を基本にして真刀や木刀、鎌などを中心として用いますが、時代の推移とともに武芸的なものばかりではなく芸能的な扇や杖や傘なども用いられるようになりました。

羯鼓舞 戦国時代に始まり雨乞い神事として行われていたと伝えられています。現在でも使用されている三つの面には嶋村久八郎(波の伊八の弟子)作の文政二年(一八一九年)の銘が記され、この羯鼓舞がそれ以前から行われていたことが推測できます。

獅子舞 鴨川の磯村には江戸時代から代々続いた、伊勢神楽の流れをくむ館三太夫がいました。時代ははっきりしませんが、市内各地ではその三太夫から獅子舞を習得したと推測されます。この和泉地区でも家内安全と五穀豊穣を願う芸能として代々伝承されてきました。」

【この日の進行スケジュール】
10:00~ 三役奉納(男金神社)
棒術(大人・子供・真剣切り)→羯鼓舞(綱の舞)→神楽獅子舞
11:00ころ 終了

12:00~ 三役公開(和泉公会堂前庭)
棒術(大人・子供・真剣切り)→羯鼓舞(綱の舞・雌獅子争い・揃いの舞)→神楽獅子舞

【メモ】
祭礼日は毎年10月第二日曜日。神社は標高82mの山頂に338段の石段で登る。通り雨を過ごしてから境内で三役の基本型を奉納。神社での見物人・カメラマンは数人ほど。昼から公会堂の前庭で多彩な演目が地区の皆さんに披露され,こちらは見物人・カメラマンとも多数。当日は地区4社の合同祭で,地区内を屋台が巡行していた。駐車場なし(スペースあり)。
※詳細記事は,本宅サイト「ぐるり房総」に掲載。

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