松戸・野菊の墓文学碑
晴れたかと思うと急に土砂降り…,このところ不安定な天気で写欲が湧かない週末が続きます。
少し晴れたので,妻と愛犬を連れて,松戸市矢切の西蓮寺境内にある「野菊の墓文学碑」へ。
「野菊の墓」は,明治39年に伊藤左千夫が発表した純愛小説です。左千夫は,九十九里の旧成東町(今の山武市)の生まれですが,小説では矢切を舞台に政夫と民子の悲恋が描かれています。
この場所には,政夫が民子を待った村はずれの坂道の大銀杏がありました。今は切り株だけが残っていて,小説の一節を刻んだ文学碑が建っています。
高台から畑の風景を眺めていると,どこからか「民さんは野菊のような人だ」と政夫の声が聞こえてきそうです。
この日は,江戸川が増水して,矢切の渡しが欠航していました。そのせいか,柴又側から訪れる人もなく,ひっそりしていました。
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キタムラ主催の写真コンテストの応募作品1万2千点余から選ばれた入賞作品の中から,特に秀逸な作品を展示しています。
1歳のとき,囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負いますが,貧しくて医師にかかれませんでした。15歳のとき,癒着した左手の大手術を受け,これがきっかけで医学を目指します。19歳で上京し,21歳で医師試験に合格しました。
幕末,会津藩では,玄武隊,青龍隊,朱雀隊,白虎隊の4隊が藩の防衛に就きました。白虎隊は,数えで17歳以下の少年兵で構成された予備隊でした。
早くから薬草園が置かれたので,御薬園(おやくえん)と呼ばれるようになりました。
若松城は,別名を「鶴ケ城」といい,白く気品のある名城です。
大内宿は,日光と会津若松を結ぶ会津西街道の途中にある山あいの集落です。その昔,会津若松から江戸に上る旅人は,険しい氷玉峠を越えて大内宿で休息し,日光今市を目指しました。
会津西街道と平行して走る会津鉄道。昭和62年に旧国鉄会津線が廃止され,第三セクターの会津鉄道が運行しています。今回の旅はクルマですが,途中で湯野上温泉駅に立ち寄りました。
しばらく見学していると,ちょうど汽車が到着しました。車体には,会津ゆかりの野口英世とその母シカの写真が描かれていました(新千円札発行記念ペイントだそうです)。
東北道を西那須野塩原ICで降り,会津西街道をひた走ります。道の駅で仮眠した後,阿賀川に沿って北上し,最初の目的地「塔のへつり」へ。
今回は,東京で就職した姪も一緒です。
道の駅で仮眠し,早朝6時ころ現地到着。車を置き,機材を担いで石畳を上り下りします。途中,前回は雨戸が閉まっていた大黒屋さんが,戸を開けて風を通し,打ち水をしていました。今は営業していないので,時々風を通して古い建物を維持しているのですね。