2024/08/31

熊本・神風連の乱

神風連資料館(熊本市中央区黒髪)と桜山神社を訪ねました。

Dsc_5224_300幕末の尊王攘夷思想(天皇親政と外国の排斥)は、明治維新の原動力となりました。

維新後、明治新政府は欧化政策を進め、攘夷(外国の排斥)を奉じて倒幕に立ち上がった多くの志士を失望させます。

肥後では、国学者林桃園の教えを汲み、古来の神道を重んじる敬神党(神風連)が、西洋化の風潮を嘆き、新政府が「人心を惑わし、皇道を失わせる」と厳しく批判。明治九年に廃刀令(3月)、県の散髪令(5月)が出ると、国の将来を憂い、宇気比(神占)の結果(政府に建白か、奸臣の誅殺か、義による挙兵か)に従い、挙兵しました。

同年10月の夜、首領太田黒伴雄の下、170名が藤崎八幡宮から出陣。第一隊は要人宅を襲撃し、熊本鎮台司令官種田少将と参謀長高島中佐を討ち取り、安岡県令を負傷(のち死亡)させます。第二隊(太田黒隊)は熊本鎮台の砲兵営を、第三隊(富永守国隊)は歩兵営を奇襲して、それぞれ焼き払いました。

鎮台側は態勢を立て直すと、一斉射撃で反撃。洋式火力の前に、刀と鎗の神風連は副首領の加屋栄太が戦死、首領の太田黒も重傷を負い自害します。指揮系統を失った神風連は、いったん退却して再挙を図りますが、鎮台側の警戒が厳しく断念。志士らは次々に自害し、生存者は捕縛され、一夜にして鎮圧されました。

神風連側の戦死者31名、自害87名(他は捕縛され斬首や懲役、放免)と伝わります。

桜山神社(旧桜山祠殿)には、神風連の変に倒れた百二十三士と、幕末の動乱に倒れた肥後勤王党二十三士の墓があります。境内の神風連資料館では、思想的背景や志士らの遺品を展示しています(資料館は9月2日限りで閉館し、財団法人を解散)。

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2024/08/25

小城・村岡総本舗羊羹資料館

小城といえば、特産の「小城羊羹」が有名です。

Dsc_5174_300室町末期〜江戸期、長崎街道は、長崎から江戸に砂糖を運ぶシュガーロードになりました。

街道沿いの地域では、西洋や唐など外来の菓子と在来の文化・風土が融合し、独特の菓子文化が生まれました。

長崎の「カステラ」(ポルトガル伝来)、諫早の「諫早おこし」(藩の余剰米と砂糖で作ったのが始まり)、大村の「へこはずしおこし」(中国伝来)、嬉野の「逸口香」(中国の空心餅が原型)、佐賀の「丸ぼうろ」(ポルトガル菓子の製法が長崎から伝来)、飯塚の「千鳥饅頭」(カステラと丸ぼうろから派生)、北九州の「金平糖」(宣教師が伝来)など、今も愛され続けています。

「小城羊羹」もその一つです。羊羹は中国由来ですが、小城の羊羹作りは、明治五年ころ、森永惣吉が大阪虎屋から製法を習い、「櫻羊羹」の名で売り出したのが始まりとされます。

小城は、水に恵まれ、小豆の産地に近く、砂糖が手に入りやすい上、城下町で茶道文化が残っており、羊羹作りに適した環境でした。日清戦争(明治二十七年)では、長期保存の携行食として小城の羊羹が選ばれ、「羊羹の小城」の名は全国に広まります。

明治三十二年、地元の村岡安吉が長崎から羊羹の製造機械と製法を導入して羊羹作りに参入。大量生産が可能になり、明治~大正期にかけて、小城の羊羹作りは活況を呈しました。村岡安吉は、行商の先々で人々から「小城の羊羹」と呼ばれることに着想を得て、商品名を「小城羊羹」として販路を拡大。現在、「小城羊羹」は小城羊羹協同組合の加盟各社が使う地域団体商標になっています。

羊羹資料館は、村岡総本舗の旧砂糖蔵(昭和16年建築、国登録文化財)を改装したもの。1階では小城羊羹の歴史と製法をVTRで紹介。2階では製造道具や原材料、歴代の包装やラベルを展示しています。見学者には、伝統製法の切り羊羹と抹茶のおもてなしがありました。

小城羊羹は、日本遺産「砂糖文化を広めた長崎街道シュガーロード」の構成文化財に選定されています。

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2024/08/24

小城・肥前千葉氏居城跡

肥前千葉氏の居城跡(佐賀県小城市)を訪ねました。

Dsc_5180_300肥前千葉氏は、鎌倉中期、下総の千葉氏(宗家)が異国警固のため肥前小城の所領に下向し、土着したのが始まりです。

鎌倉幕府は、元の来襲に備え、九州に所領を持つ東国御家人に九州下向を命じました。

千葉氏は、八代頼胤(よりたね、文永の役で戦死)、九代宗胤(むねたね)と続けて肥前に下向。異国警固は長引き、帰国できないまま肥前で没します(この間に、下総の千葉氏宗家は弟胤宗とその嫡流が取って代わります)。

その嫡男胤貞(たねさだ)は、正和五年(1316)、下総から肥前小城に下向。この山に居城を築き、京都から祇園社を勧請し、祇園川に沿って東西に城下町ができました。

胤貞は、下総の宗家十一代を継いでいた貞胤(さだたね、胤宗の子)と家督を争う一方、建武二年(1335)、足利尊氏(北朝)の挙兵に従い各地を転戦。宗家(南朝方)の貞胤を破りますが、直後に病没。このため、北朝方に寝返った貞胤が宗家の地位を安堵され、肥前小城にいた弟の胤泰(たねやす)は土着して肥前千葉氏の祖となりました。

肥前千葉氏は、在地武士団を家臣化し、社寺と国衙官人を掌握。小城・佐賀・杵島の各郡を支配し肥前最大の勢力になります。室町中期、応仁の乱(1467-77)と家督争いで、惣領家(東千葉氏)と庶家(西千葉氏)に分裂。西千葉氏が勝ったものの大きく衰退し、戦国期にはかつて配下だった龍造寺氏に服属。龍造寺氏が没落後は鍋島氏に仕え、江戸期は佐賀鍋島藩の家老職を務めています。

肥前千葉氏の居城跡には、かつての祇園社が「須賀神社」として残っています。山挽祇園祭(毎年7月第四日曜日)は、胤貞が戦の訓練を兼ねて始めたと伝わり、小城の夏の風物詩です。

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2024/08/15

唐津・旧高取邸

旧高取邸は、杵島炭鉱で財を成し、「肥前の炭鉱王」と呼ばれた高取伊好(これよし、1850-1927)の邸宅です。

Dsc_5125_300伊好は、幕末に佐賀藩多久郷の学者の家に生まれ、高取家の養子となります。明治3年(1870)、実業家を志して上京。三叉塾や慶応義塾で洋学を学びました。

工部省「鉱山寮」で採炭学を修め、明治7年(1874)、技術者として当時最先端の高島炭鉱(長崎)に赴任。炭鉱主の後藤象二郎を助けて経営にも参画しました。

明治15年(1882)、故郷の多久に戻り、地元で炭鉱経営に乗り出します。しかし、設備投資と人件費に莫大な資金を要する上、経済の好不況に左右される炭鉱経営は苦難の連続でした。

日露戦争(1904)で石炭需要が高騰したのを機に、伊好は杵島炭鉱に経営資源を集中します。これが奏功し、事業は急拡大。日本有数の採炭量で石炭産業を牽引し、唐津は積出し港として繁栄しました。

旧高取邸は、伊好が明治38年(1905)に私邸兼迎賓館として建築。2300坪の敷地に和洋折衷の主屋と附属建物(土蔵、食糧庫、使用人湯殿、家族湯殿、貯蔵庫)があります。

主屋は、中庭を挟んで居室棟と大広間棟に分かれています。居室棟は、アールヌーボー調の応接室、花頭窓を拵えた仏間など計20部屋。大広間棟は、茶室、能舞台、客人用の大広間など計8室。各部屋の欄間の彫り物や、京都四条派の絵師による72枚の杉戸絵が見事です。

伊好は、70歳で隠居し78歳で亡くなるまで、晩年をこの邸宅で漢詩や書、能を楽しみながら過ごしました。事業の傍ら、唐津小学校の建設費を寄付し、多久に図書館や公会堂、公園を寄贈するなど、地元の社会貢献にも尽くした人でした。

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2024/08/14

長崎・鷹島海底遺跡の元寇船

伊万里湾口に浮かぶ鷹島(長崎県松浦市)は、人口約1700人が暮らす漁業と農業の島です。

Dsc_5097弘安の役(1281)で、博多湾進攻のため集結した元の軍船4400隻が暴風雨に遭い、壊滅した地として知られています。

島の南岸では、昔から漁網に壺や刀剣、碇石がかかり、元寇の伝承が裏付けられていました。

神埼地区の海域では、昭和49年に「管軍総把印」(部隊長の公印)が、平成6年に軍船の碇大小4基が、平成23年に軍船の船底と両舷の外板(鷹島1号沈没船)が、平成27年に2隻目の船底と両舷の外板、隔壁とバラストの石(鷹島2号沈没船)が、それぞれ発見されました。

学術調査で、1号沈没船は全長27m前後、2号沈没船は全長20m前後と推定。また、軍船は、暴風雨を避け島裏に退避したものの、強い南風で島側に吹き寄せられて沈んだと考えられています。

鷹島海底遺跡のうち神崎の沖合一帯は、平成24年、水中遺跡として初の国史跡「鷹島神埼遺跡」に指定されました。

上の写真は、海底の2号沈没船(実物大模型)。2隻の沈没船は、保存のため埋め戻し、モニタリングを継続。741年ぶりに引き揚げられた一石型木製大碇は、新しい保存処理(トレハロース含浸法)を施して松浦市立埋蔵文化財センターで公開されています。令和5年には2号沈没船の近くで新たに3隻目の残骸が発見され、調査が進んでいます。

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2024/08/04

知覧・知覧特攻平和会館

戦後79年目の8月、知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)を訪ねました。

Dsc_5032知覧の大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊は、大戦末期の半年間、陸軍の特攻基地となりました。

昭和20年3月、米軍が沖縄に迫ると、大本営は特攻による戦局打開を命令。海軍は艦艇と航空隊による特攻を、陸軍は全航空機による航空特攻を立案し実行に移します。

陸軍の沖縄特攻は、知覧・万世・都城から「振武隊」が、健軍から「義烈空挺隊」が出撃。6月の沖縄陥落まで続き、1036名が戦死。最年少は17歳、最年長は32歳で、うち439名が知覧から出撃しています。

隊員たちは、知覧で出撃命令を待つ間、三角兵舎で寝泊まりし、富屋食堂で団らんしたり、知覧高等女学校の生徒たちの勤労奉仕に感謝しながら過ごしました。出撃命令が下ると、女生徒たちや町民に見送られ、開聞岳に別れを告げて沖縄を目指しました。

知覧特攻平和会館は、1036柱の遺影を出撃日の順に掲げ、遺書と遺品約6000点を展示。語り部の講話に、若き隊員たちが命をかけて守ろうとしたものが何だったのか、深く考えさせられました。

館内には、陸軍の戦闘機「隼」(レプリカ)と「疾風」(世界で唯一の実機)のほか、海軍の零戦52丙型(昭和20年5月、甑島沖で不時着水し、引き上げられた実機)と特攻艇「震洋」(レプリカ)が展示されています(零戦のみ撮影可)。

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2024/08/03

知覧・知覧麓の武家屋敷

江戸期、薩摩藩は藩内を百十三の外城(行政区画)に分け、鹿児島城下に武士団を集結させることなく分散統治しました。

Dsc_4965各外城には、「御仮屋」(行政庁)を中心に「麓」(ふもと)と呼ばれる武士集落が置かれ、町屋・村落と続いていました。

知覧もその外城の一つです。島津分家の佐多氏が御仮屋を置き、鍵状に曲げた馬場(大通り)に沿って、石垣と生垣で区切られた武家屋敷が門を連ねました。

現在残る知覧麓の武家屋敷群は、江戸中期、佐多氏十八代久峰(1732ー72)のころに形成されたと考えられています。

知覧は、琉球貿易の拠点として栄えた地でもあり、武家の屋敷には母ケ岳を借景に枯山水の和庭園が造られ、武家は和歌をたしなんだと伝わります。各屋敷には、門から邸内を隠す屏風岩(琉球のヒンブン)が立ち、三つ辻には「石敢当」(琉球の魔除け)が置かれるなど、琉球の影響が感じられます。

武家屋敷地区は、薩摩の麓の旧観をよく残し、昭和56年、重要伝統的建造物群保存地区に指定。佐多氏の重臣だった森家の庭園(池泉式)など七つの庭園が「知覧麓庭園」として国名勝に指定され、一般公開されています。

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2024/07/31

唐津・旧唐津銀行本店

旧唐津銀行本店は、明治~大正期を代表する建築家・辰野金吾(1854-1919)が監修した洋風建築です。

Dsc_4845辰野は、唐津の下級藩士の家に生まれ、明治維新後、藩の英学寮で若き高橋是清(唐津に英語教師として1年滞在)に学びました。

19歳で上京し、工部省工学寮に入学。英国人建築家コンコルドに学び、首席で卒業。英国に官費留学し、帰国後、30歳で日本人初の建築科教授になります。47歳で教授を辞すと民間設計事務所を開設。日本で初めて「建築家」という職能を確立しました。

教授時代の代表作に日銀本館(1896)が、晩年の代表作に中央停車場(東京駅、1914)があり、日本近代建築の父と呼ばれています。

唐津は、幕末から明治にかけて、杵島炭鉱の石炭積出港として繁栄。旧唐津銀行は、ともに英学寮で学び、後に実業家となった大島小太郎が、明治十八年(1885)、「郷土に根を張る銀行を」と設立しました。

現存する建物は、大島が辰野に建築を依頼。東京駅の設計中だった辰野が監修し、直弟子で清水組(現在の清水建設)にいた田中実が設計しました。

明治四十五年(1912)に完成し、赤レンガと白御影石に塔屋を載せた意匠は、クイーン・アン様式を日本化した「辰野式」と呼ばれるデザイン。

1階に窓口カウンターや金庫、頭取室や応接室があり、2階に貴賓室と待合室、会議室があり、辰野金吾の功績を展示解説しています。

ちなみに、房総では、香取市の旧川崎銀行佐原支店(現・佐原三菱館)が同様のデザインで、こちらも清水組が大正三年(1914)に建築しています。

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2024/07/30

唐津・肥前唐津城

唐津城は、慶長十三年(1608)、初代唐津藩主・寺沢広高が築きました。

Dsc_5146_300d寺沢広高は、秀吉の側近で、朝鮮出兵では名護屋城の普請と兵站を担当。長崎奉行に取り立てられ、文禄の役(1592)後に改易された波多氏の所領唐津を八万三千石で拝領しました。

関ケ原(1600)の軍功で、肥後天草四万石を加増。しかし、重税に耐えかねた天草領民が蜂起し、島原藩主松倉氏の苛政に蜂起した島原領民と合流して「天草・島原の乱」(1637~38)に発展。

乱後、島原松倉氏は斬首改易。唐津寺沢氏は天草の領地を没収され、二代で改易。以降、譜代大名(大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏)が置かれ、明治維新まで続きました。ちなみに、大久保氏は、下総佐倉藩に八万三千石で転封し、老中首座に就いています。

唐津城は、海に面した平山城で、本丸に藩庁が、二ノ丸に御殿が、三ノ丸に藩士の屋敷がありました。築城には、旧名護屋城の資材も使われ、金箔瓦などが出土しています。天守台に天守はなく、現在の天守は伏見城を模した模擬天守(1966)です。

最上階から望む「虹の松原」(国特別名勝)は、新田開発を奨励した寺沢氏が防風・防塩のため植林したもの。手厚く保護し、許可なく伐採した者は死罪になったそうです。

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2024/07/29

唐津・名護屋城博物館

佐賀県立名護屋城博物館は、日本と朝鮮半島との交流史をテーマにしています。その中で、秀吉の朝鮮出兵と名護屋城についても詳しい展示があります。

Dsc_4899_3001 文禄の役(1592)

一番隊(小西行長ら1万8千)、二番隊(加藤清正ら2万2千)、三番隊(黒田長政ら1万1千)、四番隊(毛利吉成、島津義弘・豊久、秋月種長ら1万4千)、五番隊(福島正則ら2万5千)、六番隊(小早川隆景ら1万5千)、七番隊(毛利輝元の3万)、八番隊(宇喜多秀家の1万)、九番隊(羽柴秀勝、細川忠興ら1万1千)の総勢16万が名護屋から渡海。三方向から進軍し、首都・漢城を陥落させ、一時は半島北部の平壌まで到達。

民衆のゲリラ抗戦で補給線が寸断、朝鮮水軍に連敗し、明軍の援派で苦戦に。半島南部まで撤退し講和に持ち込むも、これに激怒した秀吉が豊後府内の大友氏、肥前唐津の波多氏、薩摩出水の島津氏を改易。講和は、日本・明とも「相手が降伏したがっている」と本国に虚偽報告していたため話が嚙み合わず、決裂。

2 慶長の役(1597)

一番隊(加藤ら1万)、二番隊(小西ら1万4千)、三番隊(黒田、毛利、秋月ら1万)、四番隊(鍋島直茂ら1万2千)、五番隊(島津義弘ら1万)、六番隊(長曾我部元親ら1万3千)、七番隊(蜂須賀家誠ら1万1千)、八番隊(宇喜多ら4万)、九番隊(小早川秀秋ら2万)の総勢14万が各領国から渡海。明・朝鮮連合軍と朝鮮水軍に阻まれ籠城戦に。慶長三年(1598)夏、秀吉が没すると全軍が撤退し帰国。

朝鮮出兵は、莫大な費用と兵力を損失し、諸将の不満と分断が生まれ豊臣政権は急速に支持を失いました。朝鮮には計り知れない惨禍を及ぼし、明は国力を消耗し弱体化して女真族(清)に滅ぼされる一因となりました。

写真は、秀吉水軍の主力軍船・安宅船(10分の1)。西国諸大名に建造させた大型船で、総矢倉形式の船体に二層の屋形を持っていました。

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