2017/05/06

国東・宇佐めぐり

宇佐市内では、大分県立歴史博物館と宇佐市平和資料館を訪ねました。

20170506a大分県立歴史博物館は、宇佐神宮からクルマで10分ほどの所にあります。宇佐・国東半島の歴史と文化に焦点を当てた展示が素晴らしく充実しています。

エントランスホールの巨大な熊野摩崖仏(原寸大レプリカ)に度肝を抜かれながら進むと、「富貴寺大堂の世界」が広がります。照明を落とした中、千年前の富貴寺大堂と内陣(原寸大の復元)が浮き上がり、極彩色で描かれた極楽浄土の壁画に圧倒されます。裏面には千手観音が描かれており、学芸員さんの解説で壁画の詳細がよく分かりました。

他にも、「生死いのり」、「豊の古代仏教文化」、「六郷山の文化」、「宇佐八幡の文化」、「広がる仏教文化」、「信仰と暮らし」の各コーナーがあり、所々で写真撮影可なのもポイントが高いです(写真の富貴寺大堂も撮影可です)。
個人的には、「豊の古代仏教文化」では奈良期の天福寺奥院塑像三尊仏像(国重文)が、「六郷山の文化」では各寺の修正鬼会の様子や面の展示が面白かったです。

20170506b県立歴史博物館からクルマで10分ほどの所に、宇佐市平和資料館があります。
宇佐には、かつて旧海軍航空隊の基地があり、開戦時には真珠湾攻撃に向かう攻撃部隊の訓練が行われたり、大戦末期には人間爆弾「桜花」(神雷隊)30機や沖縄に向かう特攻隊(八幡護皇隊)81機が出撃しました。昭和20年3月と4月の宇佐空襲では、軍民合わせて数百人が死傷しています。

市では、戦争の悲惨さと平和の貴さを伝えるため、戦争遺跡や資料の収集・保存に努めており、1800m滑走路跡、爆弾池、米軍機の弾痕が激しい落下傘整備所、掩体壕を保存しています。
その一環として、平和資料館には、映画「永遠の0」の撮影で使われたゼロ戦21型(原寸大模型)や、97式艦攻の尾部(原寸大模型)が展示されています。
将来は、滑走路を復元し、掩体壕にゼロ戦を格納し、97式艦攻1機も復元して、旧宇佐海軍航空隊基地の一帯を平和ミュージアムとして整備することを目指しているそうです。

今回の旅は、国東半島をレンタカーで320kmほど走り回りました。GWで人とクルマは多めでしたが、それでも関東と違ってゆっくりとした時空の旅を楽しむことができました。旅の機材は、Ricoh GRでした。

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2017/05/05

国東・半島めぐり

国東半島を横断しながら、いくつか見どころを廻りました。

20170505a国東半島の南西部にある田染(たしぶ)郷(豊後高田市)へ。
田染は、六郷の一つで宇佐神宮の荘園だった所です。中でも小崎地区は、鎌倉期に荘園を支配した田染氏の本拠で、村落や棚田の風景は700年前のムラの姿をとどめているというから驚きます。平成22年、国の重要文化的景観(田染荘小崎の農村景観)に選定され、脚光を浴びています。

房総では田植えが終わった時期なので、展望台から見た棚田の風景はさぞや…と期待しましたが、当地ではやっと田起こしが始まった段階でした。6月の田植え後は、夕日観音や金比羅から見渡す景色が素晴らしいそうなので、時期を合わせて再訪したいです。

20170505b国東半島の東部にある安国寺集落遺跡(国東市)へ。
弥生時代は、九州北部に稲作技術を持つ集団が渡来して定着して始まったと考えられています。田深川に沿った低湿地帯で見つかった安国寺集落遺跡は、出土品の多様さから「西の登呂遺跡」とも云われ、特徴的な土器は「安国寺式土器」と命名されました。
一帯は国史跡で、現在は、市の「弥生のムラ安国寺遺跡公園」として整備されています。復元された竪穴式住居4棟と水田、湿地帯と高床式倉庫群が、1800年前にタイムスリップした感じでした。

20170505c国東半島の北西部にある粟嶋神社(豊後高田市)へ。
海に突き出た岩窟に建ち、寛永二年(1625)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀って創建されました。少彦名命は、一寸法師のモデルになった神様です。医療、とりわけ婦人病や子授けの御利益が大とされ、縁結びの神として恋人たちが訪れるようになりました。
神社前は恋叶ロードと粟嶋公園が整備され、ハート型のモニュメントに愛の南京錠がたくさん掛けられていました。

20170505d粟嶋神社をやや南下して真玉海岸(豊後高田市)へ。
水平線に沈む夕日の名所として知られ、風景写真を撮る人なら一度は見たことがある有名な撮影ポイントです。潮が引くと縞模様状の干潟と夕日が織りなすコントラストが美しく、この日は曇り空でしたが、日没時にはアマチュアカメラマンをはじめ、大勢の人が集まっていました。ちなみに、完全に日が沈むと人っ子一人いなくなり、静かな干潟に戻ります。

20170505e真玉海岸から1kmほどの所に海門温泉があったので、立ち寄りました。
後から知ったのですが、実は温泉県おおいたでも知る人ぞ知る秘湯だそうで、元旅館が廃業した後、2組のご夫婦が交代で管理人をして共同浴場を再開しています。
泉質は塩化物泉で、湯はぬるめ、茶褐色で強い鉄臭がして、タオルが茶褐色に染まるほどです。湧出口の湯は透明なので、酸化して茶褐色に変わるのかしらん?舐めてみると強い塩分の味がしました。

湯舟に浸かりながら、宇部から国東半島の山めぐりに来た人としばし旅談義。リタイア後、夫婦で車中泊をしながら登山を楽しんでいるとか。75歳と年齢を聞いて、またびっくり。お元気だなあ。
ちなみに、海門温泉の入浴時間は11時~20時、料金は350円です(第二・四木曜は休み)。

次は、宇佐市内を巡ります。

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2017/05/04

国東・六郷満山開山1300年

妻と一緒に、国東半島(大分県)の六郷満山開山1300年で行われた非公開文化財特別公開を巡りました。

20170504a国東半島は、奈良~平安期に、宇佐神宮の八幡信仰と仏教(主に天台密教)が結びつき、神仏習合の「六郷満山」と呼ばれる独自の仏教文化が発展しました。山々に点在する六つの集落(郷)が丸ごと寺を形成し、多くは養老年間に仁聞(にんもん)菩薩(宇佐八幡神の化身)が開基したとされ、2018年で開山1300年を迎えます。

今回は、宇佐神宮・富貴寺・文殊仙寺の3社寺で非公開文化財の特別公開が行われました。

初めに訪ねたのは、文殊仙寺(国東市)です。
正式には峨眉山文殊仙寺(天台宗)で、大化四年(648)、役之行者(えんのぎょうじゃ)の開基と伝わります。断崖の岩窟に文殊菩薩を奉って修験を極めたとされ、鬱蒼として昼なお暗い山中を、長い石段をやっとの思いで登ると、岩肌に張り付くように建つ本殿(文殊堂)が現れ、ここが厳しい修験の場であることを感じさせます。
今回は、文殊堂奥之院内陣と岩窟内の特別拝観(説明付き)と、寺宝の両界曼荼羅2幅・鬼会面5面を特別公開。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉が生まれた寺で、岩窟内に湧き出る「智慧の水」を頂きました。

鬼会面は、満山の各寺に伝わる修正鬼会で使われた鬼の面です。かつては、旧暦1月7日、僧侶が鬼に扮して松明の火を掲げ、各戸を祓って廻りました。当地では、鬼は邪悪でなく、先祖の化身で福をもたらす「鬼さま」で手厚くもてなされます。現在は、多くの寺で廃絶し、天念寺(豊後高田市)と岩戸寺(国東市)で行われています(国重要無形民俗文化財)。

20170504b続いて、富貴寺(豊後高田市)へ。
正式には蓮華山富貴寺(天台宗)で、養老二年(718)、仁聞菩薩の開基と伝わります。国宝の大堂は九州最古の木造建築で、阿弥陀如来坐像と内陣の壁画(いずれも国重文)が有名です。
こちらは10年ぶりの再訪で、今回は一般公開の大堂と、本堂で特別公開の寺宝・観世音菩薩坐像と満山最古の鬼会面(鈴鬼男女2面と菩薩面)を見学しました。

大堂の壁画は、千年の時を経て色あせ、図柄が分からなくなっていますが、大分県立歴史博物館に実物大の復元があり、極彩色で描かれた極楽浄土の壁画が再現されています。

20170504c最後に、宇佐神宮(宇佐市)を訪ねます。
全国八幡社の総本宮で、神亀二年(725)、八幡大神(応神天皇)を祀ったのが始まりです。八幡神が菩薩に化身して六郷満山を開いたとされ、古来の神道と外来の仏教が融合した神仏習合の発祥地です。天平十年(738)、境内に神宮寺として弥勒寺が建立され、僧侶たちはここから六郷満山に修行の場を広げていきました。
今回は、八幡造りの本殿(国宝)と北辰神社の特別拝観と、一般公開の宝物館で孔雀文馨(国宝)を見学。本殿は、一ノ御殿(応神天皇)・二之御殿(比売大神)・三之御殿(神功皇后)が並び建ち、八幡造りの美しい社殿でした(撮影禁止なので、写真は回廊の楼門です)。

今回の非公開文化財特別公開は3社寺のみでしたが、今年10月~来年3月には15か寺で特別公開が予定されているとのことです。

この他にも、六郷満山の寺をいくつか廻りました。

20170504d真木大堂(豊後高田市)は、かつて満山の本山寺八か寺の一つで最大規模を誇った馬城山伝乗寺の跡にあります。
伝乗寺と36坊は中世ころに衰退し、その諸仏像のうち、700年前の大火をくぐり抜けた9体の仏像(不動明王と二童子像、阿弥陀如来坐像、四天王立像、大威徳明王像)を今に受け継いでいるのが真木大堂です。

これらの仏像は、いずれも国宝に指定され、完全空調・遮光の立派な収蔵庫でガラス越しに見学できます。中でも、水牛に跨った大威徳明王像は日本最大とされ、とても迫力がありました(撮影禁止なので、写真は伝乗寺で唯一残る本堂です)。

20170504e両子寺(国東市)は、養老二年(718)、仁聞菩薩の開基と伝わります。満山の中山本寺(根本道場)で、江戸期には杵築藩の最高祈願所として、満山を統括しました。
一般公開されている護摩堂の大聖不動明王像(鎌倉期)や大講堂の阿弥陀如来坐像(鎌倉末期)を拝観。寺域は青紅葉が美しく、紅葉の時期はさぞやと思わせます(写真は、大講堂)。

特に、朱塗りの無明橋から仁王像が立つ山門に続く石段は、国東の石造文化を感じさせる古刹らしい雰囲気です。ガイドブックやパンフレットの写真に取り上げられる理由がよく分かりました。

次は、国東半島の各地に社寺以外を訪ねます。

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2017/03/19

市川・真間めぐり

よく晴れた3連休の中日、市川市の真間地区を散策。

20170319a今回は、真間山下バス停から、弘法寺→手児奈霊神堂→真間の継橋と回る逆巡りのコースです。

まずは真間山弘法寺(日蓮宗)へ向かいます。
もとは奈良期に行基が手児奈の霊を供養するため建立した「求法寺」で、平安期に弘法大師が七堂を整えたときに寺名を改めました。
鎌倉期に日蓮宗に転じ、室町期には門前町(真間・市川宿)が発達してたいそう賑わいました。明治21年(1888)の大火で諸堂を焼失しましたが、仁王門・赤門・鐘楼堂は残りました。他の建物は大火後の再建です。

20170319b祖師堂前の伏姫桜は、樹齢400年と云われています。近年は樹勢の衰えが激しいようですが、春には満開の枝垂れ桜が見事です。地元では、隠れた桜の名所として知られ、大勢の人やカメラマンで賑わいます。

訪れた日は、まだ蕾でしたから、開花はもう少し先になりそうです。

20170319c弘法寺の長い石段を下ると、参道のすぐ左手に手児奈霊神堂があります。
手児奈は、今から1300年ほど前、この地に住んでいた美しい里娘で、男らが自分を巡って争うのを苦に、「自分さえいなければ」と真間の入江に入水したと伝わります。手児奈伝説は、都に伝わり、万葉集にも数多く詠われました。

「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が奥津城処(おくつきどころ)」

地元では、良縁成就・孝子受胎・無事安産・健児育成の女神として親しまれ、10月の手児奈まつりでは女神輿が渡御します。

20170319dさらに参道を進むと、「真間の継橋(つぎはし)」が見えてきます。
国府台に下総国府があったころ、この一帯は古東京湾が入り組む入江でした。いくつもの砂州を橋でつないで官道が通っていたと考えられており、万葉集にも既に「真間の継橋」として詠われています。

「足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋やまず通わむ」

橋の元の位置や形状は不明で、現在は、朱色の欄干のモニュメントがありますが、橋の下に水は流れていません。

いつも通過することが多い市川ですが、改めて目を向けると、万葉の旧跡があちこちに残り興味深かったです。この後、真間川まで歩いて再びバス停に戻りました。

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2017/02/14

京都・冬の旅2017(洛東編)

続いて、洛東の金戒光明寺・知恩院・高台寺・建仁寺・西福寺を巡ります。

20170212c金戒光明寺(浄土宗)は、法然上人が念仏道場を開いた地で「くろ谷さん」の名で親しまれています。
京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が本陣を置き、新選組を組織したことでも知られます。
特別公開の御影堂、大方丈と庭園を見学。
御影堂では、運慶作の獅子に乗った文殊菩薩像が興味深かったです(もとは三重塔に安置)。
大方丈では、近藤勇が松平容保に謁見した「謁見の間」、虎の襖絵が描かれた「虎の間」、松の襖絵が描かれた「松の間」を見て、庭園を見学。虎の絵は、襖の開け閉めで見え方が変わるマジックアートのようでした。寺宝の伊藤若冲の「宝珠に槌図」(軸)や、円山応挙の「鶏図」(抜けひよこで有名)も興味深かったです。

20170212d続いて、13年ぶり公開の塔頭・西翁院へ。江戸期の茶人・藤村庸軒の祖父が建立し、のち庸軒が造った茶室「反古庵」が有名です。
庸軒は、千宗旦の四弟子の一人で、侘び茶の奥義を極めた人です。
寺が大切にしている苔を傷めないよう、クロックスのサンダルに履き替えて庭を移動。「反古庵」では、飛び石伝いに一人ずつ、にじり口から中を見学。
三畳ほどの小さな庵で、中柱と壁で点前座と客座を仕切っているのが特徴です。点前座の左にある窓から、淀川が遠望できたので「淀看席」の名で呼ばれています。茶室前の蹲踞まで張り出した屋根が珍しかったです。

20170212e知恩院(浄土宗)は、法然上人が草庵を結んだ地で、江戸期、徳川将軍家が惜しみなく援助して大伽藍となりました。17年ぶり公開の大方丈・小方丈(いずれも国重文)と庭園を見学。
大方丈は、家光が寛永十八年(1641)に創建した建物です。上下二段の廊下は、知恩院の七不思議の一つ、鶯張りで、歩くとキュッキュッと鳴きます。将軍が上京の折、謁見に使った上段の間・中段の間・下段の間は、狩野派の絢爛豪華な金碧障壁画(襖絵)が見事で、徳川の権勢を誇示した造りになっています。菊の間では、抜け雀で知られる襖絵も公開されていました。対照的に、小方丈は水墨調の襖絵で、落ち着いた雰囲気でした。
境内の裏手にある長い石段を登り、勢至堂と御廟まで足を延ばしたら足が棒になりました。

20170212f高台寺(臨済宗建仁寺派)は、秀吉とねねの寺として知られています。慶長十一年(1606)に秀吉の正室ねね(北政所)が夫の菩提を弔うために開いた寺です。霊屋(国重文)の蒔絵、展望台、池にかかる臥龍廊を通る拝観ルートが特別公開中。
池に架かる長い臥龍廊を通って小高い霊屋へ。彩色で飾られた建物に、須弥壇があり、秀吉とねねの木像を祀っています。ねねは、自身の木像の2m下に眠っています。須弥壇と厨子には、漆と金箔で繊細な蒔絵(高台寺蒔絵)が施され、大変美しいものでした。
境内には、伏見城から移した茶室(傘亭・時雨亭、いずれも国重文)もあり、時雨亭は珍しい2階建てでした。

20170212g続いて、建仁寺へ移動して、20年ぶり公開の塔頭・久昌院へ。信長に仕えた美濃の武将・奥平信昌が菩提寺として開いた寺で、客殿と前庭、書院を見学。
信昌は、織田・徳川連合軍vs武田が戦った長篠の合戦(1575)で、長篠城に籠城して武田勢を撃破した勇将です。関ケ原には東軍として参戦し、初代の京都所司代に任ぜられています。
客殿では、信昌の活躍を描いた寺宝の「長篠合戦図」(襖絵)を見て、前庭を鑑賞。書院「高松軒」では、座敷の隣に設けられた茶室が船底天井で珍しかったです。

20170212h最後は、初公開の西福寺(浄土宗)です。あの世とこの世の境とされる鳥辺野の入口にあり、特別公開の「檀林皇后九相図」「地獄絵図(六道十界図)」「洛中洛外図屏風」を見学。
「檀林皇后九相図」は、嵯峨天皇の后の屍が朽ちて土に還るまでを九段階に分けて描き、通常はお盆の時期のみ公開。「地獄絵図」は、冥界の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)を描き、こちらも通常は精霊迎えの時期のみの公開です。
前に訪れた六道珍皇寺といい、この辺には人の無常をおどろおどろしく伝える寺院が多く集まっています。

今回の京都・冬の旅では、一泊二日で六寺七院と一か所を巡りました。今回もツアーだったので、説明を聞きながら見学と撮影に集中できて楽ちんでした。
旅の機材はD40+18-55mmf/3.5-5.6GIIでした。小型軽量なので、まだまだ旅カメラとして現役です。

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2017/02/13

京都・冬の旅2017(洛南編)

二日目の朝は、洛南の東寺へ。

20170212a世界遺産の東寺(真言宗)は、2度目の訪問です。桓武天皇が国家鎮護を願い、平安京の正門(羅城門)の東に造営した官寺で、のち嵯峨天皇が空海に下賜しました。
特別公開の五重塔(国宝)と、通年公開の金堂(国宝)、講堂(国重文)を見学。

金堂は、東寺の本堂に当たる建物で、延暦十五年(796)に建立されました。文明十八年(1486)、京都で起きた徳政一揆を室町幕府の軍勢が攻めた際、本尊仏とともに焼失。秀頼が慶長八年(1603)に再建しました。本尊・七仏薬師如来と日光菩薩・月光菩薩(いずれも国重文)が祀られています。

講堂は、東寺の中心的な建物で、承和六年(839)に建立されました。金堂とともに焼失しましたが、延徳三年(1491)にいち早く再建。大日如来の周りに五智如来、右側に五菩薩、左側に五大明王、四方に四天王・梵天・帝釈天など21体の仏像(うち16体が国宝、5体が国重文)を配し、空海の密教世界観を立体曼荼羅で具現しています。

20170212b五重塔は、元慶七年(883)に建立され、焼失と再建を繰り返し、現在の塔は寛永二十一年(1644)に再建された五代目。高さ55mの日本一高い五重塔で、京都のシンボルです。
初層の内部は、極彩色の文様が描かれた煌びやかな空間。中心を貫く心柱を大日如来に見立て、その四方を金色の四如来像と八菩薩像が守っています。四方の柱には金剛界曼荼羅が、四面の端柱には八大龍王が、壁には真言八祖像が描かれています。須弥壇の下の穴から、心柱を支える巨大な礎石を見ることができます。ちなみに二層から上は骨組みだけで空洞です。

東寺は、朝早くから拝観できるので、ツアーでは二日目の朝一番に組み込まれることが多いです。この時間帯は五重塔の全景を撮ると必ず逆光になるのが悩ましいところです。

次は、洛東の金戒光明寺へ移動します。

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2017/02/12

京都・冬の旅2017(洛中編)

洛西から、洛東の聖護院・妙法院を巡って、洛中の壬生寺・島原角屋へ移動。

20170211d聖護院(修験宗)は、山伏で知られる修験の総本山です。江戸期には光格天皇が仮皇居としました。特別公開の宸殿・書院(国重文)と、御着替弁才天尊を見学。
宸殿は、絢爛な狩野派の障壁画(金地彩色の襖絵)が圧巻。書院は、御所の女院御殿を移した建物で、2つの床の間や透かし、釘隠しの意匠が雅でした。

聖護院は、明治の廃仏毀釈で廃された末寺の仏像を多く預かります。今回はその中から21体を公開。初公開の弁才天尊(旧才智院の本尊)は、明治まで春・秋に衣装替えした天女像で、衣装をまとった美しい姿は必見です。

20170211e続いて、13年ぶり公開の妙法院(天台宗)へ。天台三門跡の一つで、幕末に尊王攘夷派の三条実美らが失脚した「七卿落ち」の舞台となりました。特別公開の庫裏(国宝)と宸殿、大書院(国重文)と庭園を見学。
庫裏は、秀吉が「千僧供養」を行った際に建てた国内最大級の台所で、桃山期の建築。巨木を組んだ梁と三層の煙出しが豪壮です。宸殿では、寺宝の「七卿落図」が公開中。大書院は、御所の旧殿を移した建物で、狩野派の障壁画(金地彩色の襖絵)が絢爛豪華でした。
龍華蔵(宝物庫)も公開され、ポルトガル国印度副王信書(国宝)のレプリカが珍しかったです(本物は京都国立博物館に寄託中)。

20170211f洛中へ移動し、7年ぶり公開の壬生寺(律宗)へ。鎌倉期、円覚上人が教えを広めるため始めた無言劇は、「壬生大念仏狂言」(国重文)として今に伝え守られています。特別公開の本堂と初公開の狂言堂(国重文)を見学。
本堂で現存最古級の地蔵菩薩立像(国重文)と鑑真和上坐像(レプリカ)を見て、境内の狂言堂へ。演者の衣装や小道具の部屋を通って舞台に上がり、珍しい構造を見学。伊藤若冲が奉納した狂言面なども特別に展示され、民俗芸能好きには垂涎ものでした。
驚いたのは、舞台の目の前に寺の保育園の建物が迫るように建っていたこと。その保育園の2階ベランダ部分を狂言の観覧席に利用する大胆さに感心しました。

ちなみに、壬生寺は幕末に新選組が訓練所とした所です。境内の壬生塚(別料金)に、近藤勇の胸像と暗殺された芹沢鴨(初代局長)の墓があります。

20170211g初日の最後は、13年ぶり公開の島原角屋(国重文)へ。江戸期、花街として栄えた島原に残る唯一の揚げ屋建築です。一階の台所・網代の間・松の間を見学。
網代の間は、網代組みの黒い天井が特徴。松の間は、庭の臥龍松を望む大広間で、新選組が芹沢鴨を暗殺する夜に遊宴を開いた座敷です。
京の花街は、歌舞音曲の修行を積んだ舞妓を呼んで、客が和歌や俳諧など文芸を楽しんだ料亭的な存在で、いわゆる遊郭とは異なります。角屋の造作にも、端々に京文化の粋が感じられました。

夕方、四条大宮駅近くのホテルにチェックイン。夜は電車で河原町へ出て、祇園で夕食後、四条通をぶらぶら散策。

二日目は、洛南の東寺と、洛東の金戒光明寺・知恩院・高台寺・建仁寺・西福寺を巡ります。

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2017/02/11

京都・冬の旅2017(洛西編)

2月の連休を利用して、冬の京都に非公開文化財特別公開を訪ねました。

初日は、洛西の妙心寺と、洛東の聖護院・妙法院、洛中の壬生寺・島原角屋を巡りました。

20170211a妙心寺(臨済宗妙心寺派)は、京都最大の禅寺で、2度目の訪問です。今回は、大庫裏と経蔵(いずれも国重文)が特別公開中。
大庫裏は、七堂伽藍の一つで、承応二年(1653)の再建。大竈や三十畳敷の食堂を備えた巨大な台所で、縦横に組んだ巨大な梁が豪壮な造り。経蔵は八角形の回転式輪蔵で、寛文十三年(1673)に大阪の豪商・淀屋が寄進したもの。経典6500巻を収め、一回転させると全巻を読んだのと同じ功徳とされます。後に淀屋は途絶えましたが、「淀屋橋」の地名に名を留めています。

20170211b続いて、初公開の塔頭・養徳院へ。秀吉の重臣・石河光重が父の菩提寺として建立しました。
本堂(方丈)と枯山水の庭園、寺宝の「酒茶論」や曽我直庵筆「鷹の図」を見学。酒茶論は、酒と茶の徳を論争した2000字の漢文軸で、、最後に引き分ける内容です。他に、鑑真和上の請来と伝わる鉄鉢(いくつも小穴が開いていた)も興味深かったです。

20170211c同じく初公開の塔頭・大雄(だいおう)院へ。こちらは尾張徳川家の家老・石河光忠が父の菩提寺として建立しました。
客殿と書院、池がある庭園を見学。客殿には柴田是真筆の、書院には土岐済美筆の襖絵(山水画)が描かれ、落ち着いた雰囲気を醸し出していました。

養徳院と大雄院を開いた石河氏は、もともと秀吉に仕える武将でした。関ケ原では、一族を東軍と西軍に分けて参戦。勝っても負けても一族が生き残る途を取り、東軍についた石河氏は、後に尾張徳川家の重臣となっています。

今回の妙心寺は、雪で新幹線が30分以上遅延した影響で、他の堂宇を見て廻る余裕がなかったのが残念でした。

次は、洛東の聖護院・妙法院と、洛中の壬生寺・島原角屋を巡ります。

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2016/12/27

吉備路・備中国分寺の五重塔

冬の夜、岡山県総社市の備中国分寺五重塔ライトアップを撮影。

20161227備中国分寺は、天平期に聖武天皇が全国に造営した備中国分寺(廃寺)跡に、江戸中期に再興された同名の寺(真言宗)です。

吉備路のシンボルになっている五重塔(高さ34.32m)は、南北朝期に焼失した七重塔を江戸後期に再建したものです(国重文)。三層まで(欅材)と四~五層(松材)の材質が違うのは、もともと三重塔として再建予定だったからだそうです。

低い稜線の丘陵地帯と田園に囲まれた五重塔は、吉備路の素朴な風情を残していて、春の桜、夏のひまわり、秋のコスモス、冬のライトアップと、地元カメラマンでなくとも魅かれます。

実は今回、実家の90歳の父親と一緒に撮影に出かけました。父親は、フォトコンや撮影ツアーに参加したりする現役のキヤノン使いで、この五重塔も何度か撮影しています。考えてみれば、これまで父親と三脚を並べて撮影したことはなかったので、感慨深いものがありました。

旅先の軽装備(D40+DX18-55/3.5-5.6)で、三脚は父親の予備を借用。標準ズーム1本だと、自分が動き回って構図を決めたり、マニュアルで試行錯誤したりと工夫が必要で、なかなか楽しかったです。

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2016/11/20

松戸・二十世紀梨原樹跡

松戸市大橋にある二十世紀梨原樹跡を訪ねました。

20161120二十世紀梨は、明治21年、八柱村大橋(今の松戸市)の松戸覚之助(1875-1934)が偶然見つけた苗を、父の果樹園(錦果園)に植えたのが始まりです。

当時13歳の覚之助は、黒斑病に悩みながらも十年間世話を続け、ついに甘くて果汁たっぷりの梨の実が採れました。
当時人気の太白より美味いと評判になり、「新太白」と呼ばれましたが、明治37年(1904)、「この先、右に出る品種はない」として「二十世紀梨」と命名。数々の品評会で受賞し、その名のとおり、今世紀最高の梨と評されました。
覚之助は、苗木を独占することなく、希望する栽培農家に苗木を送ったので、全国的に広まりました。

原木は、昭和10年に国天然記念物に指定され、錦果園で大切に育てられていましたが、昭和20年の空襲で梨園は全滅。原木も昭和22年に枯死しました。
現在、錦果園跡は住宅地や公園となり、原樹の跡には「天然記念物二十世紀梨原樹」の碑と、平成14年に鳥取県から送られた「二十世紀梨感謝の碑」のモニュメントが立っています。

原木の一部(破片)は、松戸市立博物館に保存・展示され、見ることができます。

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