2022/09/24

八女・福島の燈籠人形

福岡県八女市・福島八幡宮で奉納された「八女福島の燈籠人形」(国重要無形民俗文化財)を撮影。

20220924【現地案内板の説明】
「燈籠人形は延享元年(1744)に八幡宮放生会に奉納されたのが初まりで、当時は至って簡素な設備をなし燈火を点じ飾人形を陳列奉納したものであったが、次第に改良され飾付人形から棒、糸によるカラクリ仕掛けの人形を動かすようになったものである。
燈籠人形が郷土の民俗芸能として高く評価されるのは古い伝統だけではない。豪華な二階建の屋台が一本の釘や鎹(かすがい)も使わないで自由に組立て解体できるようになっていて、この屋台の中で囃子にあわせて人形をあやつるものであり全国に例がないとされている。屋台が出現したのは明和年間(1772頃)といわれ、現在のようになったのは天保年間(1835頃)である。
この屋台の二階には囃子方十五人、人形遣いは横遣い下遣いに分かれ、横遣いが東西それぞれ六人計十二人、下遣いは人形一体に六人を配し、その他背景係等総勢四十人から五十人が出演、囃子方の地唄につれて人形が踊るのである。屋台の壮麗美と人形が舞うカラクリの精巧さは、まさに優雅で嘆賞久しうするものである。」

【今年の進行スケジュール】
9月23日(金)~25日(日)の三日間、演目は「春景色筑紫潟名島詣」
13:30~ 第1回公演
15:00~ 第2回公演
16:30~ 第3回公演
19:00~ 第4回公演
20:30~ 第5回公演

【メモ】
屋台の提灯に灯が入る夜公演(第4回・第5回)を撮影。舞台正面の観覧席と石垣席は整理券が必要(先着順)。開演前に簡単な説明があり、前しゃぎりの演奏で幕が開く。演目は、春の名島神社に詣でた大名(飾人形)一行が海沿いの茶屋でまどろみ、夢に弁財天が現れて金財童子とともに舞い遊ぶストーリー。公演時間は約30分。各回の終了後、二階から子供たちに風船を撒く。舞台下(下遣い)・左右の舞台袖(横遣い)・二階(囃子方)は板戸や障子で中は見えないが、最終日の千秋楽のみ、すべてが開け放たれて上演される。
今年はコロナ禍で3年ぶりの奉納。境内には露店が立ち並び、大勢の見物客で賑わっていた。祭礼を撮るカメラマンは2人程度。臨時Pあり(八女市役所と伝統工芸館)。

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2022/07/23

佐賀・有田内山

妻・下の娘と有田焼の里を訪ねました。

20220723有田焼の始まりは、今から400年前に遡ります。秀吉の朝鮮出兵に参戦した肥前鍋島氏は、高度な技術を持った陶工を連れ帰りました。その一人、李参平が有田・泉山の土で白磁器を焼いたのが始まりとされます。

江戸初期、佐賀藩は泉山磁石場に近い内山に陶工を集め、磁器生産の専業地としました。成型~施釉~絵付~焼成の過程を職人たちが分業し、集落の東西端には藩の口屋番所が置かれ、職人や技術の流出に厳しく目を光らせました。

内山は有田焼の産地として栄えましたが、文政十一年(1828)、窯の火が強風にあおられ大火となり、町をほぼ焼失。その後の復興で江戸後期~明治~大正~昭和初期の建物が混在し、独特の景観を造り出しています(国重伝建保存地区)。裏通りには、古い窯の耐火レンガを再利用した土塀「トンバイ塀」の小路が続き、風情があります。

上の写真は、有田ポーセリンパーク内にある有田焼の工房です。ろくろや手ひねり、絵付の体験ができ、家族連れで賑わっていました。

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2022/07/10

久留米・久留米絣とお伝さん

筑後地方で広く生産される木綿の織物「久留米絣」。もとは庶民が各家で紡いだ藍無地の普段着でした。その質素な木綿着に模様を織り込み「かすり」と名付けたのは、久留米城下に住む少女、「お伝さん」こと井上伝(1789-1869)でした。

20220710お伝さんは、江戸後期、久留米の米屋の娘に生まれました。当時は、どの家にも織機があり、機織りができない女性は一人前と認められませんでした。お伝さんも7~8歳から織り始め、12~13歳ころには大人顔負けの腕前だったと云います。

ある日、古い普段着が色落ちして白く斑になっているのを見て、無地に模様を織り込むことを着想。研究を重ねて、織糸を所々括って藍で染め、白い模様を織り込む方法を考案しました。
藍染に白い模様を織り込んだ木綿着は「霰(あられ)織り」と呼ばれ、当時の女性に大人気。お伝さんは、所々掠ったように見えるこの織物を「掠り(絣)」と名づけます。

その後も様々な模様を研究し、近所に住む発明好きの少年・田中久重(後の東芝の祖)に相談。模様糸を工夫したり、織機を改良したりし、様々な模様を織り込むことに成功。「筑後久留米 原古賀 織屋お伝」の商標は広く知れ渡り、多くの弟子が集まりました。

幕末には藩の特産品となり、明治初期の西南戦争で官軍兵士がこぞって土産に買い求め、全国に広まりました。

久留米絣資料館では、久留米絣の歴史や製造工程、戦前に織られた貴重な作品を紹介。お伝さんが使用した眼鏡やハサミなどの遺品も展示されています。

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2022/06/21

大阪・大阪城天守閣

大坂城は、天正十一年(1583)、天下人となった羽柴秀吉が石山本願寺跡に築城しました。

20220619b豊臣の大坂城は、大坂夏の陣(1615)で炎上して落城。秀頼と淀殿は山里曲輪で自害し、豊臣家は滅亡しました。

徳川秀忠は、豊臣大坂城を埋め戻し、その上に新たな大坂城を築城。大坂は天領となり、将軍家直轄の城として、譜代大名から任ぜられた大坂城代が管理しました。

大坂城の天守閣は、豊臣天守(1585~1615)、徳川天守(1626~1665)に続き、現在の天守(1931~)が三代目です。

外観は、徳川風の城郭と豊臣風の意匠(5層)を折衷した復興天守で、天守台の石垣は徳川大坂城のものです。史実の城とは異なりますが、昭和20年の大阪大空襲にも耐え抜き、歴史上もっとも永く存在する大阪城として、人々に愛されています。

内部は「大阪城天守閣」という名の博物館で、秀吉と大坂城の歴史を中心に展示。本丸には旧陸軍第四師団司令部の建物が残り、二の丸に秀吉を祀る豊国神社があります。

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2022/06/20

大阪・難波宮跡と大阪歴史博物館

かつて大阪には、飛鳥期と奈良期に「難波宮」と呼ばれる都が置かれていました。

20220619c飛鳥期の難波宮(645~686)は、孝徳帝が遷都。唐の都に習い、内裏(帝の居住域)と朝堂院(政務場所)を区別して配し、宮殿の周辺に官衙が置かれました。

孝徳帝は、難波宮で皇太子の中大兄皇子、内臣の中臣鎌足らと大化の改新後の制度改革を行いました。天武帝のとき、飛鳥宮との二都制になった後、686年に火災で焼失。

この前期難波宮は、条坊制以前の都として貴重ですが、詳細は不明で今後の研究が待たれます。

奈良期の難波宮(726~745)は、聖武帝が平城京の副都として造営。前期難波宮とほぼ同じ場所に内裏や朝堂院が再建され、後期難波宮は条坊制の整然とした都であったと考えられています。

聖武帝は、疫病や謀反で混乱する社会を仏教と遷都で鎮めようとしました。平城京から恭仁京を経て、744年に難波京へ遷都。翌年には紫香楽宮を経て平城京に都を戻しています。大極殿などの建物は、桓武帝の長岡京遷都(784)で解体移築されました。

旧難波宮跡に建つ大阪歴史博物館では、後期難波宮の大極殿で遷都の詔が発せられた儀式を再現。10Fから後期難波宮の大極殿跡が一望でき、B1Fに前期難波宮の遺跡をそのまま保存しています。

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2022/06/19

大阪・四天王寺

大阪に行ったついでに、四天王寺に立ち寄りました。

20220619a推古天皇元年(593)、聖徳太子が創建した日本最古の官寺です。

日本書紀によれば、仏教の受容を巡り対立していた蘇我馬子(崇仏派)と物部守屋(排仏派)が武力衝突した際、用明帝の第二子だった聖徳太子が自ら四天王像を彫り物部討伐を祈願したのが始まりとされます。

戦勝後、推古帝の摂政となった聖徳太子は、冠位十二階や十七条の憲法など、律令制による統治で諸外国に比肩する国造りを目指しました。

施政では仏法を重んじ、四天王寺では四箇院の制(寺院+施薬院+療病院+社会福祉施設)を採って万民救済を実践しました。

伽藍は中国式に習った「四天王寺式伽藍配置」です。南北一直線に中門(仁王門)・五重塔・金堂・講堂が並び、回廊で囲む配置は、後の寺院建築の基本となりました。その伽藍は、平安~昭和期まで天災と戦乱で何度も焼失し(直近は昭和20年3月13日の大阪大空襲)、その度に再建されています。

現在の四天王寺は、どの宗派にも属さない「和宗」で、金堂では御本尊の救世観世音菩薩(如意輪観音)の四方を四天王が守っています。

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2022/06/04

筑前・大刀洗平和記念館

筑前町の大刀洗平和記念館を訪ねました。

20220528bこの一帯には、大正8年から昭和20年まで、東洋一と謳われた陸軍大刀洗飛行場がありました。

飛行第四連隊と教育隊、飛行学校、航空廠技能者養成所が置かれ、九州飛行機の工場を併設。最盛期には3万人を擁する西日本最大の陸軍飛行場でした。

戦争末期は特攻出撃の中継拠点となり、飛行学校生だけでなく、教官や助手ら熟練操縦士も飛び立って行きました。昭和20年3月27日、B29による大空襲で飛行場は壊滅。頓田の森や三軒屋の森に避難中の小学生34人を含む多くの犠牲者が出ました。

記念館は「飛行場の概要と航空技術」「大刀洗飛行場と人々の生活」「大刀洗大空襲と特攻隊」「追憶の部屋」の4テーマに分けて展示しています。実機は、零戦三二型(海軍機、マーシャル諸島で発見)と九七式戦闘機(陸軍機、博多湾から引き揚げ)を公開。どちらも世界で唯一現存する機体です。

展示「戦禍の彼方に」では、大刀洗から飛び立った若者と空襲犠牲者の遺影が掲げられ、遺品や遺書の展示とともに、鎮魂と平和の尊さを語り継ぐ施設となっています。

(2020年7月10日追記)
7月10日に再訪したところ、幻の戦闘機「震電」実物大模型の展示開始(7月6日~)に伴い、これまで撮影禁止だった「九七式戦闘機」も撮影可に変更されていました(館員確認済)。

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2022/05/28

大刀洗・今村天主堂

大刀洗町の今村天主堂(今村カトリック教会)を訪ねました。

20220528a筑後平野の田園風景に建つ天主堂は、大正2年(1913)の建築。設計は、礼拝堂建築で知られた鉄川与助です。ロマネスク様式の煉瓦造で、堂内は高いリヴ・ヴォールト天井と仏製ステンドグラスで壮麗な空間になっています。煉瓦造で双塔を持つ教会堂は類例が少なく、鉄川建築の中でも意匠が優れたものとされています(国重文)。

今村は、筑後で数少ない隠れキリシタン集落でした。戦国期、豊後大友氏(キリシタン大名)の筑後進出でキリスト教が広まり、江戸期の過酷な弾圧下で、200年以上の間、隠れキリシタンとして信仰が受け継がれました。

パードレ(神父)を持たない隠れキリシタンは、長い年月の間に本来のカトリックとは異なる信仰形態に変容する例が多いそうです。今村では、集落が団結して信仰を守り、幕末に浦上(長崎)の信徒らにより発見された後は、密かに交流を保ち、最終的に本来の信仰形態に戻っており、「奇跡の村」と云われます(このため「潜伏キリシタン」と呼ぶのが正しいそうです)。

シンボルの天主堂は、2022年6月から10年間、耐震補強工事のため閉鎖されます。この日は、信徒の皆さんが企画して「お別れ会」が開かれました。

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2022/05/23

大牟田・旧三池炭鉱(三川坑)

20220522b三川坑は、三池炭鉱の最後(昭和~平成)の主力坑で、昭和15年(1940)に採炭を開始しました。

2本の大斜坑(2000m級)が有明海の下に広がる深さ350mの石炭層まで伸び、炭鉱夫は人車(ケーブルカー)で地下に降り、横坑のベルトコンベアに乗り換えて切羽場に向かいました。石炭は坑底の貯炭槽から炭車(トロッコ)やベルトコンベアで絶え間なく揚炭し、地上の選炭工場に送りました。

三川坑の開坑で、三池炭鉱の出炭量は終戦前に年間400万tまで増加。戦前~戦中の産業と軍事を支えました。

戦後復興の重要産業として昭和天皇が御巡幸。他方、昭和34年の三池労働争議(戦後最大)、昭和38年の炭じん爆発事故(戦後最悪)が起きた坑口でもあります。

高度成長期に自走枠やドラムカッターなど最新の技術と機械化が進み、三池の出炭量の4割超となる年間270万tを出炭。しかし、エネルギーの主役が石油に移り、石炭も安価な輸入炭に取って替わられ、平成9年(1997)の三池炭鉱閉山で閉抗しました。

坑跡には、第二斜坑の坑口や繰込場、コンプレッサー室、第一斜坑の巻揚機室などが残っています。三川坑跡は世界遺産に含まれておらず、閉山当時のまま時が止まっており、廃墟化しつつあります。

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2022/05/22

大牟田・旧三池炭鉱(宮原坑)

妻と大牟田の旧三池炭鉱跡を訪ねました。

20220522三池の石炭は、室町期(1469)に農夫が山で焚火中に「燃える石」を見つけたのが始まりとされます。江戸中期、柳河藩や三池藩が採掘し、瀬戸内で製塩の燃料として使われました。

明治の富国強兵・殖産興業政策で、西洋から蒸気式巻揚機や英国製ポンプを導入。さらには炭鉱専用鉄道と三池港の築港で輸送力も強化され、最先端の産業モデルとなりました。

宮原(みやのはら)坑は、三池炭鉱の初期(明治~大正期)の主力坑で、明治34年(1901)に採炭を開始。2基の堅坑で深さ150mの石炭層にケージ(昇降機)で人馬を降ろし、横坑を掘って採掘。石炭はケージで揚炭し、地上の選炭場で女衆が石炭とボタを選別。専用鉄道で三池港に運ばれ、ボタは埋立てに使われました。

明治~大正期には年間50万tを出炭しましたが、大正末~昭和初期にはベルトコンベアで大量搬出できる斜坑が主流に。旧式となった宮原坑は、昭和6年(1931)に閉坑しました。

現在は、第二竪坑の鋼鉄製櫓(現存最古、人馬昇降用)、蒸気式巻揚機室、デビーポンプ室の内壁、石積みの北側排水路、炭鉱専用鉄道敷跡が残っています。

三池炭鉱跡は、平成27年(2015)に世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録。宮原坑の建物群と炭鉱専用鉄道敷跡も、その構成要素になっています。

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