吾妻渓谷・八ツ場ダム
帰路,吾妻渓谷沿いのR145を走っていると,突然,目の前に巨大なコンクリート工作物が現れました。
政権交代で建設中止か続行か,世間の注目を集めている八ツ場ダムの工事です。ちょうど広報施設「やんば館」があったので,勉強のために立ち寄ることにしました。
八ツ場ダムの完成予定ジオラマでは,上流域の水没状況と,街の再開発計画を模型で解説しています。巨大ダムなだけに,予想以上に広い範囲が湖底に沈むことが分かってびっくりしました。
写真は,水没する県道の付け替え工事です。ダム湖を渡る道路の橋脚ですが,下の田んぼの軽トラックと比べると,その巨大さが分かります。ちなみに,橋脚の下から3番目の足場が満水時の水面になるようです。
R145沿いでは,国道・県道の付け替え工事と移転用の宅地造成が,山を崩して先行して進んでいました。すでに地元の人々の生活は,大きく変わってしまっているのですね。現状を目の当たりにして,問題の難しさを再認識させられました。
さて,今回の旅の機材は,AF-S DX 18-55mmF3.5-5.6GII,Nikon D40,三脚は軽量のスプリントPROを使用しました。R145から渋川伊香保ICに出て関越道を走り,夜の渋滞前に自宅へ帰り着きました。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)



湯畑は,もとは8代将軍徳川吉宗がその湯を江戸城に運ばせたことから,「お汲み上げの湯」と呼ばれていました。今もその湯枠が水中に沈んでいます。
草津の源泉は,熱いところで95度もあり,そのままでは浴用にできません。水で冷ますと温泉の効能が薄まるので,考え出されたのが「湯もみ」です。
自宅を午前10時半ころ出発。外環道→関越道→上信越道を碓氷軽井沢ICで降り,浅間山経由でのんびり草津へ入りました。
奈良井宿は,中山道の宿場で,俗に「奈良井千軒」と謳われて木曽路11宿の中で最も栄えた宿場でした。
野麦峠は,長野と岐阜の県境にある標高1672mの険しい峠です。江戸~昭和初期ころまで,信州松本と飛騨高山を結ぶルートは野麦峠を通らざるを得ず,多くの旅人を苦しめた難所でした。
朝市は,午前6時ころから高山陣屋前と宮川沿いの2か所で毎朝開かれています。どちらもホテルから歩いて行ける距離なので,両方に行くことにしました。
さて,夜の町を散歩していると,「馬頭絵馬市」の幟を発見。ちょうど山桜神社で絵馬市が開かれていました。
「飛騨の小京都」と呼ばれる高山には,江戸時代の古い街並みが残っています。特に,商家町として発展した上町や下町には,出格子と軒が連なる古い建物が続き,国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
中央道→長野道を松本ICで降り,R158で安房峠,平湯峠を越えて高山へ。途中,高山ラーメンの製造所を見学して市内へ入ります。
小雨の中,朝8時半に自宅を出発。関越道から上信越道に入り,横川SAに10時半着。さらに1時間で長野ICです。ICから市街地まで,善光寺参りの車で大渋滞していました。
中尊寺は,平安初期の850年に慈覚大師円仁が開いた天台宗の寺です。平安後期の1105年,奥州藤原氏が中興し,華やかな平泉文化の中心となりました。
五大堂そばの港から大小の遊覧船が出ていて,巡るコースによって時間と料金が異なります。
平安初期(807),坂上田村麻呂が東征の際,この島に毘沙門天を祀ったの始まりで,慈覚大師が島に五大明王を祀ったので「五大堂」と呼ばれるようになりました。
東北道をひた走り,仙台南部・東部道路経由で三陸道松島北ICへ。千円効果で大渋滞を覚悟しましたが,高速道路の渋滞はなし。むしろ松島海岸までの一般道が大渋滞でした。
熱海出身の彫刻家・澤田政廣氏(1894-1988)は,躍動的な彫像が特徴で,文化勲章を受章しています。

旧岩崎邸は,三菱創家の岩崎家が明治29年に建てた本宅です。設計は鹿鳴館を手がけた英国人建築家ジョサイア・コンドルで,社交用の洋館と生活用の和館,庭に別棟の撞球室(ビリヤード場)まであります。
地下鉄千代田線を湯島駅で降り,学問の神様・湯島天神へ。実は,東京のオフィス時代は千代田線で通っていましたが,湯島天神を訪れるのは初めてです。
新しい年がスタートしました。
東京タワーのライトアップは,平成元年から始まりました。それ以前は,単にタワーの形に沿ってライトが点々と灯っていただけでした。って,うーむ,あまり記憶がないなあ。
何でこの時期に羽子板?と思いきや,「厄を羽根飛ばし,来年の運を突き上げる」縁起物だそうで,江戸時代から続く伝統行事です。
目的は,開催中の「大潮展」です。写実派の美術団体の作品展で,今年も油彩画家の父親が出展しています。毎年,能をテーマにした作品を描いていますが,いつも動きや舞台設定が異なるので感心して見ています。
江戸初期,日光に東照宮が造営され,毎年,朝廷から例幣使(勅使)が下向しました。栃木も宿場町として栄えました。かつて勅使が通った道は,ほとんど姿を消していますが,北エリアには今も旧街道の趣きが残っています。
創建は室町期で,本殿は伊勢神宮と同じ神明造りです。伊勢神道の内宮は,屋根の上に鰹木8本を並べ,両端に交叉させた木(千木)が組まれます。
市の中心部に,山本有三生誕の地の小さな石碑がありました。見世(店)蔵を改造した記念館は,生家とは違うようですが,書斎を再現した部屋があって,文学的な雰囲気が味わえます。
栃木市を訪ねるのは初めてです。明治17年まで,栃木県の県庁所在地だったそうです。江戸初期,日光東照宮の物資を巴波(うずま)川の舟運で運び,例幣使街道の宿場となって人や物が集まり,明治初期まで大そうな繁栄ぶりだったとか。
家光公は,祖父家康公を崇敬し,東照宮を現在のような壮麗な姿に大造営しました。自らも日光に葬られることを望み,輪王寺の大猷院廟奥の院に眠っています。
輪王寺は,奈良期に勝道上人が開きました。古くは「満願寺」と称しましたが,江戸初期に朝廷から今の山号を賜り,以後,門跡は朝廷の法親王から迎えました。
神橋は,奈良末期,霊峰二荒山頂に向かう勝道上人が大谷川の激流に阻まれて途方に暮れていた時,深砂大王が表れて二匹の蛇を橋としたのが始まりだそうです。
まずは,車で例幣使街道を目指します。
もみじラインは,塩原と日光今市を結ぶ全長28.1kmの有料道路です。途中には,ハンターマウンテンスキー場などがあります。名前からして紅葉が期待できそうです。
国道から森に入り,小さな渓流をさかのぼります。木道が途切れ,岩や流木を跨ぎ,小さな吊り橋を渡って,歩くこと20分。突然,目の前に岩肌が立ち塞がり,滝が姿を現しました。
塩原ダムを過ぎると,塩原渓谷の潜竜峡です。淵に身を投げた稚児が竜になり身を潜めたので,その名があるそうです。
千本松牧場は,明治時代,松方正義・元首相が開拓して開いた欧米式の大規模農場です。大正時代は羊や馬を飼育していたそうです。
この時期,巾着田の曼珠沙華は満開です。林の小径から見ると赤い絨毯のようでした。
1歳のとき,囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負いますが,貧しくて医師にかかれませんでした。15歳のとき,癒着した左手の大手術を受け,これがきっかけで医学を目指します。19歳で上京し,21歳で医師試験に合格しました。
幕末,会津藩では,玄武隊,青龍隊,朱雀隊,白虎隊の4隊が藩の防衛に就きました。白虎隊は,数えで17歳以下の少年兵で構成された予備隊でした。
早くから薬草園が置かれたので,御薬園(おやくえん)と呼ばれるようになりました。
若松城は,別名を「鶴ケ城」といい,白く気品のある名城です。
大内宿は,日光と会津若松を結ぶ会津西街道の途中にある山あいの集落です。その昔,会津若松から江戸に上る旅人は,険しい氷玉峠を越えて大内宿で休息し,日光今市を目指しました。
会津西街道と平行して走る会津鉄道。昭和62年に旧国鉄会津線が廃止され,第三セクターの会津鉄道が運行しています。今回の旅はクルマですが,途中で湯野上温泉駅に立ち寄りました。
しばらく見学していると,ちょうど汽車が到着しました。車体には,会津ゆかりの野口英世とその母シカの写真が描かれていました(新千円札発行記念ペイントだそうです)。
東北道を西那須野塩原ICで降り,会津西街道をひた走ります。道の駅で仮眠した後,阿賀川に沿って北上し,最初の目的地「塔のへつり」へ。
今回は,東京で就職した姪も一緒です。
道の駅で仮眠し,早朝6時ころ現地到着。車を置き,機材を担いで石畳を上り下りします。途中,前回は雨戸が閉まっていた大黒屋さんが,戸を開けて風を通し,打ち水をしていました。今は営業していないので,時々風を通して古い建物を維持しているのですね。
最近,横浜と言えば,みなとみらいや赤れんが倉庫ばかりで,中華街に来るのは3年ぶりです。
赤沢宿は,身延山と七面山を結ぶ身延往還参道の途中にある山あいの集落です。その昔,身延山久遠寺から七面山奥の院に参る巡礼者は,険しい山道を抜けて赤沢で1泊し,七面山を目指したそうです。
駅前に車を預け,カメラを提げてぶらぶらと市内を歩きました。
周りはオフィスビルが建ち並び,参道までがビルの敷地の一部になっています。新しいビル街と由緒ある神社の重厚さが何ともアンバランスで不思議な空間です。
毎年この時期になると,仕事もプライベートも年末進行で大忙しです。オーバーワーク→深夜の帰宅→休日は寝て休養→不完全燃焼,の悪循環でモチベーションは下がる一方です。そんな時は,頭の中でTVドラマ「働きマン」のエンディング「働きマン音頭」をエンドレスで回して,一人テンションを上げています(笑)。
ムンクは,ノルウェーを代表する表現主義派の画家です。「叫び」という作品はあまりにも有名です。
紅葉を期待したのですが,鎌倉の山々は青々としていました。やっぱり早すぎたか…。それでも,五山巡りで歩いている人たちは多く,道路は大渋滞していました。
目的は夜景の撮影なんですが,横浜だけに魅力的なショップが多く,夕暮れを待つ間,時間を忘れて買い物に熱中することもしばしばです。
早朝,人が少ないうちに撮影開始です。浅曇りなので,光がきれいに回る方向を考えながら三脚を担いでウロウロします。
再開発が進む汐留は,ずいぶん高層ビルが増えました。高層ビルとコスモスの競演(?)という東京ならではの秋景が撮れるスポットです。
巾着田は,曼珠沙華の群生で有名です。早咲きエリアはちょうど見ごろを迎えていました。
海野宿は,北国街道の宿場町で,本陣が置かれていました。明治期は養蚕で栄え,用水が流れる街道に沿って古い家々が軒を連ねる美しい街並みが残っています。
この日のプロデュースは妻。行き先やレストランは,妻におまかせです。
大阪の繁華街は,ものすごい食のパワーを感じます。
吹屋が一番賑やかだった明治33~42年(1900~1909)にかけて落成した木造校舎は,今年で107歳になります。私が卒業した小学校は味気ない鉄筋コンクリート校舎でしたが,この古い木造校舎は,石州瓦と良質の木材がふんだんに使われ,小さいながら凝ったデザインで気品と温かさを感じます。
吹屋は,江戸~昭和初期にかけて,吉岡銅山の鉱山町として賑わいました。江戸中期には,銅山の捨石(硫化鉄鉱)からベンガラ(赤色顔料)を製造する技法が開発され,銅山とベンガラの両方で大いに繁栄しました。
一見,駄菓子屋さんのような店内の奥が博物館になっています。中には,久保板観さんの映画看板と,映像美術の第一人者で,昭和の心象風景を作り続ける山本高樹さんのジオラマ作品が並んでいます。
ここは,もと病院だった建物だそうで,中は昭和のギャグ漫画王・赤塚不二夫ワールドになっています。
まずは,昭和レトロ商品博物館へ。後で赤塚不二夫会館,昭和幻燈館も回るので,お得な3館共通券を買いました。
写真は,富貴寺の大堂(国宝)です。718年に開創された天台宗の古刹で,大堂は平安後期の建立。本尊の阿弥陀如来坐像と壁画は国重要文化財です。
もとは地元の資産家・野村家の旧高田農業倉庫(米蔵)で,巨大な蔵が博物館やレストランに改装されています。
写真は,バスターミナル前の宇佐参宮タクシーさん。創業は昭和18年,廃線となった旧大分交通宇佐参宮線豊後高田駅前で開業しました。
駅前の旧街道沿いに,古い商店が建ち並んでいます。所々に,昔懐かしい映画看板が掲げられ,なるほど,昭和レトロな雰囲気が街中に漂っています。
旧館林藩の庭園ですが,昔から山つつじが群生して「つつじケ崎」と呼ばれていたそうです。歴代の領主が植樹を重ね,今では50種1万株も。中には樹齢800年を超える古木もありました。庭木で低木のイメージですが,どのつつじも背丈より高く,満開の花が見事でした。
雷門から仲見世へ,名物の人形焼きやせんべい屋さんをのぞきながら歩きます。休日の仲見世は,たくさんの人で賑わっています。外国のお客さんも多く,いろいろな国の言葉が飛び交っていました。
この美術館は,北関東でブライダル事業を展開する
石和温泉は,東京から近いので,職場の旅行会でもよく使います。今回は,気心が知れた仲間うちの旅行なので,飲むばかりじゃつまらない。そこで,「のんき村」で陶芸体験をしたり,「ほったらかし温泉」に行くことにしました。
太田道灌の江戸城築城550年を記念した特別展で,江戸時代270年のうち,わずか60年しか存在しなかった幻の江戸城天守閣にスポットを当てています。
有楽町は,東京勤めだったころ,帰りに仲間と飲みに行ったり,ビッグカメラでパソコンのパーツを買ったり,よく行きました。ある意味で「馴染んだ」街だと思っていましたが,今は年に数回,用事で行く程度。ですから,さすがに街の変化には付いて行けません。でも,自分が一番ショックだったのは,人の多さにまいったことでした。昔は,そんなこと全然気にならなかったのに,ここ数年の地方暮らしのせいか,自分でも驚いています。もっとも,それが正常な感覚かも知れません。
この日は,ちょうど「大エルミタージュ美術館展」の期間中で,美術館は大混雑でした。
ダリといえば,シュールレアリズム(超現実主義)を代表する画家です。グニャっとした懐中時計が木にかかっている「記憶の固執」という作品が,強烈な印象で記憶に残っていました。今回のダリ展は,娘たちも興味があったようなので,家族そろって出かけました。
TVのブラウン管の中で,崩れ落ちるワールド・トレードセンター・ビルを,ただ唖然として見つめていたあの日。日本人も24名の方が犠牲になり,忘れることのできない悲しみの日となりました。
お隣の葛飾区で,菖蒲まつりが始まっています。なかでも,堀切の花菖蒲は,江戸名所の一つとして,安藤広重の錦絵にも描かれました。
ここは,戦前,県の綿羊種畜場があって,羊を飼っていたので羊山(ひつじやま)と呼ばれるようになりました。
お目当ては,バンビのキャラメル。小樽の池田製菓が昭和26年に発売したミルクキャラメルは,創業80年記念の2002年に復刻されました。
この小便小僧,1952(昭和27)年に設置された初代から数えると,今年でなんと54歳になります。
瀬戸内海をまたいで,本州と四国を結ぶ
かつては,どこの部署でもやっていた「職場の旅行会」。新入社員は宴会で上司や先輩にお酌して回りながら,仕事のノウハウやら職場の人間関係やらを学ぶ絶好の機会でした(笑)。今では,やっている方が珍しい時代になりました。
今年も,水戸の梅まつりが始まりました。
元旦から仕事で水戸に行きました。せっかくなので,そのまま県北の大子町まで足を延ばしました。
昭和初期の1930年に完成した古い建物で,レンガ造りのレトロな外観が,広い芝生と相まっていい雰囲気を醸し出しています。
弘道館は,1841年に創設された水戸藩の藩校です。
水戸藩は,1609年,徳川家康公の11男,頼房公が25万石で封ぜられ,幕末まで水戸徳川家の所領でした。TVでお馴染みの光圀公は,2代藩主です。水戸家は,将軍補佐職として,徳川御三家で唯一「将軍を出さない」はず…でしたが,15代将軍・徳川慶喜は水戸家の出身です。
江戸時代,江戸から近い川越は,街道や舟の往来が盛んで,商業都市として大いに発展しました。
アルペンルートには,富山側と長野側から入るルートがあります。今回は,長野側の扇沢から入り,アルペンルートの中心地,室堂(むろどう)まで往復しました。

大正15年(1926)に発電所の建設資材と作業員の輸送のため敷設された軌道が始まりで,当時,一般の登山客は命の保証をしない条件で便乗させたそうです。現在は,

中華街の東南西北には,門(「牌楼」(パイロウ)と呼ぶそうです)が立っています。街の守護神として風水では大切な意味があり,青,赤,白,黒と全部色が違います(写真は,東の「朝陽門」,通称「青門」です)。
中秋節では,家族そろって月見をしながら「月餅(げっぺい)」という中華菓子を食べ,家内安全や無病息災を願う風習があるそうです。

柴又は,映画「フーテンの寅さん」シリーズの舞台でもあります。寅さんが「産湯を使った」とされる帝釈天は,厄除け,延寿,商売繁盛のご利益があります。この本堂の外壁には,見事な木彫が施されて驚かされます(有料拝観なので,外からは見えないのが残念ですが)。
賑やかな参道を抜けて,柴又駅に出ると,トランク一つ持って旅に出る「フーテンの寅さん」に出会えます。どこからか,「よっ,寅さん。今度はどこに行くんだい」と声が聞こえてきそうでした。




最近のコメント