2021/06/08

久留米・梅林寺

水天宮から少し歩き、京町の梅林寺へ。

20210620正式には江南山梅林寺(臨済宗妙心寺派)といい、江戸期の久留米藩主・有馬家の菩提寺です。もとは丹波福知山から久留米に移った有馬豊氏(初代)が、元和七年(1621)、福知山から瑞巌寺を移したのが始まりとされます。父・則頼の分霊を祀り、法号の「梅林院殿」に因み梅林寺と改めました。

有馬家は、播磨・摂津地方の守護大名で、信長・秀吉に仕えました。関ヶ原では東軍として戦い、摂津有馬2万石と丹波福知山6万石を与えられます。豊氏公のとき、大阪の陣の戦功により久留米21万石の大名となり、以後、明治の廃藩置県まで十一代250年にわたり久留米を治めました。

有馬家墓所(国史跡)には、梅林院霊屋(父・則頼公、市内最古の建築物)、春林院霊屋(初代・豊氏公、二代・忠頼公)、三棟の位牌廟(正室など)の5棟と、三代・頼利公~十代・頼永公(五代・頼旨公を除く)の巨大な三層石塔が残っています。
霊屋や石塔の周囲には、一族や殉死者の石塔群が並び、近世大名家の葬制や墓制を知る上で全国的にも貴重な例となっています。

ちなみに五代・頼旨公は、家督を継いだ翌年、江戸上屋敷(東京・三田)にて22歳で早逝。墓は江戸の祥雲寺にあります。

梅林寺の外苑は、30種500本の梅の名所として知られています。明治29年、梅林寺で説法を聴いた夏目漱石の句碑「梅林寺 碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き」があり、梅の季節にはぜひ再訪したいと思いました。

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2021/06/07

久留米・水天宮

久留米市瀬下町の筑後川畔にある水天宮を訪ねました。

20210613_20210616191301天之御中主神、安徳天皇と建礼門院(安徳天皇の母)、二位の尼(平清盛の正室)を祀り、全国水天宮の総本宮です。

もとは、壇ノ浦の戦い(1185)の後、建礼門院の女官・伊勢が筑紫の国に遁れ、千歳川(現在の筑後川)のほとりで平家の霊を弔ったのが始まりとされます。

江戸初期の慶安三年(1650)、久留米藩二代藩主・有馬忠頼公が現在の社地・社殿を寄進して水天宮となりました。ちなみに、文政元年(1818)に九代藩主・頼徳公がこの水天宮を江戸上屋敷に分祀したのが、東京の水天宮の始まりです。

安徳天皇は、祖父・平清盛がわずか1歳で即位(1180)させた幼帝です。この時、平家は後白河法皇を幽閉して実権を握ったため、世の反感を買いました。以仁王(後白河法皇の子)の令旨に応じ、源氏や寺社などの反平家勢力が各地で蜂起し、全盛を過ぎた平家は徐々に追い詰められていきます。最後は、寿永四年(1185)、壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水。
わずか6歳で政争に巻き込まれて絶命した幼帝を思うと、何ともやるせない史実です。

今では、水難除け、安産・子育て、厄除けの神様として広く信仰され、この日も初参りの赤ちゃんを抱く家族や、若い夫婦(妊婦さん)が何組も昇殿参拝していました。

この後、少し足を延ばして、梅林寺へ向かいます。

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2021/06/06

特別展「よみがえる正倉院宝物」

太宰府天満宮から九州国立博物館へは、連絡通路でつながっています。

Chirasi九博では、特別展「よみがえる正倉院宝物~再現模造にみる天平の技」を開催中。
1300年伝わる正倉院の宝物から「楽器・伎楽」「刀・武具」「染織」「仏具・箱と几(き)・儀式具」「鏡・調度・装身具」「筆箱」に分けて再現模造127点を紹介しています。

再現模造とは、原宝物を調査し、当時と同じ材料・構造・技法で再現する方法です。当時の技術を復元して継承するのが目的ですが、原宝物が年1回(秋の正倉院展、奈良国立博物館)しか公開されないのに対し、比較的身近に見ることができる副次的なメリットもあります。

今回の目玉は、現存する五弦の琵琶として世界最古の「螺鈿紫檀五絃琵琶」の、明治と平成の2つの模造の比較展示です(写真は公式チラシから引用)。新旧技術の違いがよく分かり、場内に音色を流してイメージしやすいように工夫した展示になっています。
このほか、ハープに似た楽器「螺鈿槽箜篌(そうのくご)」、聖武帝の太刀「金銀鈿荘唐太刀」、貴族の玉帯を入れる箱「螺鈿箱」など、見事な模造はもはや別個の第一級の美術工芸品でした。

九博は、平成17年(2005)に開館した歴史系の国立博物館で、佐倉の国立歴史民俗博物館(歴博)と並び、歴史・民俗好きには外せません。常設展示は、倭奴国王印など大陸との関係、白村江の戦いと太宰府や水城の備え、遣唐使、元寇、キリシタン踏み絵など、歴史の古い九州ならではの内容が多く、とても興味深いです。

この特別展は、九博では6月13日(日)まで。その後は新潟、北海道、東京と巡回します。

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2021/06/05

福岡・太宰府天満宮

新しい仕事の関係で、福岡県久留米市に来ています。初めての週末、太宰府天満宮と九州国立博物館を訪ねました。

20210605久留米から西鉄電車を乗り継ぎ、小一時間で太宰府天満宮へ。言わずと知れた全国天満宮の総本社で、菅原道真公(854~903)を祀っています。

菅公は、若くして宇多帝に重用され、文章博士、讃岐国司、蔵人頭守など朝廷の要職を歴任。醍醐帝のころ、55歳で右大臣に昇進します。
これを妬んだ反対派の讒言により、昌泰四年(902)、57歳で太宰権師(ごんのそち)に左遷。京を去る二月に詠んだ歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」と、菅公を慕って京から飛んで来た「飛梅」の話は有名です。

当時の太宰府は、朝廷が朝鮮半島への防備として政庁を置いた要所でした。菅公は、太宰府の配所(現在の榎社)で謹慎生活を送る中、59歳で亡くなります。亡骸を牛車に乗せて運ぶ途中、牛が伏して動かなくなった地に葬られ、のちの太宰府天満宮となりました。

現在の社殿は、天正19年(1591)、筑前国主・小早川隆景の造営で国重文。唐破風で桃山期の豪華絢爛な建築美を伝えています(ちなみに、京都・北野天満宮の社殿は、慶長十二年(1607)、豊臣秀頼の造営で国宝。権現造でこちらも桃山期の豪華な建築様式です)。

写真は、手水舎の花手水です。1月の鷽(うそ)替え神事に因み、鷽のおみくじを引いたら「商売 急げば損多し」…、うーむ(汗)。

宝物殿で社宝を見学した後、隣接する九州国立博物館へ向かいます。

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2021/04/11

久留米ラーメン

新しい仕事の打ち合わせで久留米(福岡県)に来たので、夕食は久留米ラーメン。

20210411久留米ラーメンは、戦前に屋台「南京千両」の店主が、横浜の支那そばと長崎ちゃんぽんをヒントに考案。戦後、屋台「三九」の店主が、より白濁した豚骨スープを取り入れました。
ここから九州各地に広がったので、九州とんこつラーメンは久留米が発祥とされます。

濃厚な豚骨スープですが、本来はあっさり系だとか。
今回はホテルに近い一番街の「麺志」へ。平成26年の開店で、若いスタッフが元気よく迎えてくれます。メニューはあっさり系の「らーめん道」とこってり系の「らーめん志」があり、こってり系を注文。
煮卵をトッピングし、さらに紅生姜や替え玉を頼み、豚骨スープを堪能して大満足でした。

地元の人に聞くと、こってり系は比較的新しい店に多いとのこと。こりゃ、老舗との食べ比べも面白そうです。

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2020/09/22

桶川飛行学校平和祈念館

9月の四連休に、妻と桶川飛行学校平和記念館(桶川市)に行ってきました。

20200922昭和12年に開設された旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の跡で、各地から集まった若者が寝食をともにして、飛行兵になるため学びました。
戦況ひっ迫で廃止(昭和20年2月)されるまで、約1500名が巣立ったとされます。廃止後は特攻の訓練に使われ、実際に練習機を戦闘機色に塗装し、知覧に移動して沖縄へ出撃しています。

戦後はGHQの接収を経て、引揚者住宅などに使われた後、桶川市が保存整備を進め、令和2年8月に「桶川飛行学校平和祈念館」として公開されました。

当時の建物のうち、本部兵舎棟、弾薬庫、守衛棟、車庫棟、便所棟が復元されています。兵舎棟では「桶川分教場の開設と戦争への突入」「学校生活」「兵舎寝室(復元)」「飛行学校から戦地へ」の4つのテーマで展示。
生徒たちは、午前5時半起床、午前6時半~午後4時まで実技と学科を学び、午後5時半に夕食、午後9時まで自習し、午後9時半に消灯する学校生活だったようです。
展示には、特攻隊を率いて出撃した若き教官の遺書もあり、厳しい歴史の現実の上に今の「平和」があることを再認識させられました。

飛行訓練が行われた滑走路は荒川をはさんだ対岸にあり、現在はホンダエアポートになっています。かつて「赤とんぼ」(九五式練習機)が飛んだ分教場の上空を、今はセスナが軽やかなエンジン音を響かせながら飛び交っています。眼を閉じると、往時の訓練風景が浮かぶようでした。

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2020/03/15

江戸城外・北町奉行所跡と八丁堀の組屋敷

北町奉行所は、呉服橋門内(今のJR東京駅八重洲北口付近)にありました。

20200315こちらは、時代劇「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元(金四郎、1793-1855)で有名です。景元は、五百石の旗本ですが、若いころ江戸市中で放蕩生活を送ったりしています。

出仕中、十二代将軍・徳川家慶の信を得て47歳で北町奉行に就任。
在任中、老中(水野忠邦)・南町奉行(鳥居耀蔵)らの酷な施策に反対し、わずか3年で左遷。ほどなく老中・南町奉行らが失脚すると、町奉行に返り咲き、今度は南町奉行を7年務めています。隠居後は出家し、63歳で亡くなりました。

東京駅八重洲口の再開発で、北町奉行所の排水溝石組が発見されました。鬼門除けに北東を欠いた部分が丸の内トラストタワーN館の東側の小径に再現されています。また、八重洲北口を出た外堀通りの歩道にも「北町奉行所跡」の碑があります。

20200315bさて、南北両奉行所には、奉行配下の与力50人・同心280人が働いていました。与力は二百石の徳川直臣、同心はその配下の侍で三十俵二人扶持でした。与力と同心は、八丁堀の組屋敷(今でいう官舎)から徒歩で通勤していたようです。
着流しに羽織、帯に差した十手の朱房が粋で、江戸庶民から俗に「八丁堀(の旦那)」と呼ばれました。

組屋敷があったのは、今の八丁堀駅北側~茅場町駅南側の広いエリアです。遺構は何も残っていませんが、八丁堀駅そばの「京華スクエア」(旧京華小学校)に「八丁堀与力・同心組屋敷跡」の解説板があります。

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2020/02/29

江戸城外・大岡越前邸と南町奉行所跡

外桜田には、時代劇でお馴染みの大岡越前守忠相の屋敷もありました。

20200229忠相(1677-1752)は、江戸町奉行を19年間も務めた実在の人物です。
家格は三千石の旗本で、幕府中央のエリート官僚ではありませんでした。遠国の伊勢奉行に赴任中、天領と紀州家の境界争いを公正に裁き、これに感服した紀州藩主・徳川吉宗が、八代将軍に就くなり忠相を江戸町奉行に抜擢したとされます。

町奉行就任は40歳のとき。在任中、吉宗の改革を助け、町火消し制度の創設や小石川療養所の開設、青木昆陽のサツマイモ栽培を援助したりしています。

60歳で寺社奉行に昇進した後、三河西大平藩(今の岡崎市)一万石の大名に列せられました。吉宗が亡くなると、葬儀奉行の大任を務めた後、吉宗の後を追うように病没しました(享年76歳)。

忠相の屋敷は、今の霞が関の裁判所近く(弁護士会館と簡易裁判所のビル辺り)にあり、弁護士会館の敷地に「大岡越前守忠相屋敷跡」の解説板があります。

20200229bさて、忠相が勤めていた南町奉行所は、数寄屋橋門内(今のJR有楽町駅東側)にありました。
当時、江戸町奉行所は呉服橋門内と数寄屋橋門内の2か所にあり、月番で交代に開所していました。このため、江戸の庶民は「北」「南」と呼んで区別したようです。

このお白洲で「三方一両損」など数々の名裁きが生まれた…と思いたいところですが、それを裏付ける史料はなく、どうやら判官贔屓の江戸庶民の創作のようです。

有楽町駅前の再開発で、南町奉行所の下水溝石組や穴蔵などの遺構が発見されました。石組の一部は駅前に再現され、小さな金色の解説板があります。また、穴蔵の床が地下街ホールに立て掛けられ、木樋とともにベンチとして再利用されています。

次は、北町奉行所跡と八丁堀の組屋敷を訪ねます。

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2020/02/15

江戸城外・日比谷御門と伊達政宗終焉地

歴史の痕跡を訪ねて、江戸城外を散策しました。

20200215まずは日比谷公園内にある「日比谷見附跡」へ。ここは、江戸城外の日比谷御門があった所です。

江戸城に近いこの一帯は、江戸期に外桜田と呼ばれる大名屋敷街でした。城外の要所には、江戸防衛のため36の外郭門(見附)が設けられ、日比谷御門もその一つです。

御門が設けられたのは三代将軍家光のころ。今の日比谷交差点付近に高麗門・枡形・番所があり、渡櫓から内山下濠に沿って石垣が続く堅牢な造りでした。門は仙台藩伊達家の、石垣は安芸藩浅野家の普請によります。

御門の守衛は、二万石の外様大名が担当したようです。明治初めに取り壊され、現在は浅野家が築いた石垣と内山下濠の一部(心字池)が残っています。

20200215bその少し先、日比谷サローの手前に「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」の解説版があります。

関ケ原で活躍した伊達政宗は、慶長六年(1601)、徳川家康から仙台藩六十二万石と外桜田の御用屋敷を与えられます。以降60年間、ここに仙台藩江戸屋敷がありました。
この間、政宗は、寛永六年(1629)に日比谷御門の普請を行っています。

政宗は、家康・秀忠・家光と三人の将軍に忠誠を尽くし、高齢ながら病を押して参勤交代で参府した寛永十二年(1635)、江戸屋敷で病没(享年70歳)。その亡骸は葬列で仙台に戻り、霊廟「瑞鳳殿」(仙台市青葉区)に葬られました。

日比谷公園の一帯は、明治維新後に陸軍練兵場が置かれ、戦災後は急速に開発されたエリアで、江戸期の遺構はほぼ残っていません。わずかに解説版で痕跡を知ることができるのみです。

次は、大岡越前邸と南町奉行所の痕跡を訪ねます。

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2019/12/04

大嘗宮と「大嘗祭」展

妻と一緒に皇居東御苑「大嘗宮一般参観」と國學院大學博物館「大嘗祭」展に行ってきました。

20191204a大嘗宮は、「大嘗祭」を行うため特別に設けられた祭場です。東の悠紀殿、西の主基殿、中央の廻立殿を中心に、東西の神饌を用意する「膳(かしわ)屋」と付属建物で構成されています。

大嘗祭は、即位後の天皇が皇祖神に神饌を捧げ、国の安寧と豊穣を祈る祭祀です。廻立殿で身を浄め、卜占で選ばれた東日本(悠紀地方)と西日本(主基地方)の神饌田で採れた新穀を悠紀殿と主基殿で捧げます(今回は11/14夜~15未明に催行)。

この日は、乾通り秋季一般公開中で、坂下門から乾通りの紅葉を見ながら、西桔橋から大嘗宮へ。ものすごい人出で坂下門から大嘗宮まで約2時間半かかりました。一般参観は12/8(日)までです。

20191204bより深く知るために、國學院大學博物館で開催中の「大嘗祭」展へ足を延ばしました。

この企画展は、「大嘗祭とは?-歴史と目的ー」「神に供える米ー新穀の準備ー」「大嘗祭の場ー大嘗宮 悠紀殿・主基殿ー」「天皇の神事ー神饌供進ー」「祭りのあとの祝宴ー節会ー」「吉田家文書と大嘗祭」の6テーマで大嘗祭の意味に迫っています。

同大学所蔵資料と解説で、大嘗祭は壬申の乱(672)で乱れた国の安寧を願い天武・持統天皇の時代に始まり、南北朝期や応仁の乱後の中断を経て江戸中期に桜町天皇が再興(1738)したこと、即位が7月より前ならその年の、後なら翌年の11月二の卯日に行われること、悠紀殿と主基殿は、もとは両地方の人々が七日前から建て始め、五日間で竣工し、祭祀が終わるとすぐに取り壊したこと、両殿内で行われる神事と作法、捧げられる神饌の模型など、非公開で行われる大嘗祭がよく分かる好企画です。

國學院大學博物館は、常設展示の考古祭祀と神道関係が充実しています。企画展「大嘗祭」の展示図録は早々に完売で手に入らず残念でした。こちらの会期は12/22(日)までです。

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