2021/09/04

「筑後ノ国32万5千石初代国主 田中吉政」展

八女市伝統工芸館(福岡県八女市)で開催中の「筑後ノ国32万5千石初代国主 田中吉政」展に行ってきました。

20210904田中吉政(1548-1609)は、近江出身の戦国武将です。豊臣家に仕え、近江八幡四十三万石の豊臣秀次(秀吉の甥)の筆頭家老として、城下と琵琶湖を結ぶ八幡堀を開削するなど、商人町の隆興に尽力しました。

秀吉の小田原征伐では、秀次軍を率いて出兵。論功で三河岡崎五万七千四百石の国持ち大名となり、堀割や河川の築堤、東海道が城下町を通るよう付け替えるなど普請に手腕を振るいました。

秀吉亡き後は徳川家康に従い、関ヶ原の合戦は東軍で参戦。敗走する石田三成を伊吹山中で捕縛した功績で、筑後柳河三十二万五千石の大々名となりました。

吉政は、柳河城を拠点に、久留米や八女福島など十支城とこれを結ぶ街道を整備。得意の土木普請で矢部川の治水・柳河城下の掘割、有明海沿岸の干拓を行い、新田開発を奨励しました。

筑後柳河藩は、二代忠政のとき無嗣断絶により改易(1620)。北部が久留米藩(有馬氏)二十一万石、南部が柳川藩(立花氏)十一万石と三池藩(立花氏)一万石に三分割されました。

今回の企画は、吉政が手掛けた各地の普請や吉政関連資料をパネルで紹介。併せて、八女福島城の模型や天守閣の鯱を展示しています。有馬氏入城以前の久留米城主に関する資料は少ないので、参考になりました。

この企画展は、9月12日(日)まで開催中です。

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2021/06/27

企画展「久留米藩主有馬家歴代」

有馬記念館(久留米市)で開催中の企画展「久留米藩主有馬家歴代」に行ってきました。

20210627久留米入城四百年の記念企画で、江戸期、無嗣断絶した田中氏の後、250年にわたり久留米藩二十一万石を治めた有馬家の歴代藩主11人にスポットを当てています。

展示は、「久留米藩の幕開け」(藩祖~二代)、「藩政確立から学問・芸術文化の隆盛」(三~九代)、「幕末維新期」(十~十一代)に分けて、有馬家や社寺、市が所蔵する肖像画や書状、鎧兜など31点を紹介。

関ヶ原を戦った藩祖・則頼と初代・豊氏、厳格だった二代・忠頼、一度も久留米入りすることなく江戸藩邸で急逝した五代・頼旨、養嗣子として家を継いだが華美を好んだ六代・則維、和算の大家だった七代・頼徸、犬好き・相撲好きの八代・頼貴、江戸藩邸に水天宮を分祀した九代・頼徳、質素倹約と軍制近代化で名君の誉れ高い十代・頼永、最後の藩主で公儀からの縁組に莫大な費用を要し藩の財政が傾いた十一代・頼咸と、それぞれの人となりが分かり、親しみを感じさせる内容になっています。

個人的には、久留米城下の整備に初代~四代まで70年かかったことや、歴代有馬家の兜の前立て(獅子飾り)に興味を惹かれました(写真は公式チラシから引用)。

この企画展は、福岡県の緊急事態宣言解除に伴い6月21日から再開され、8月2日(月)まで開催しています。

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2021/06/13

久留米・高良大社(筑後一之宮)

妻と久留米市の東部・高良山(312m)に高良大社を訪ねました。

20210613_20210619192301筑後平野を一望する山頂近くにあり、ご祭神に高良玉垂命・八幡大神・住吉大神を祀っています。

社伝によれば、仁徳天皇五十五年(367)または同七十七年(390)、高良玉垂命が当時の高牟礼山に鎮座したのが始まりと伝わります。この神様、正一位ながら記紀には登場せず、その正体は今も謎です。

古くから筑後国一之宮、九州総社、鎮西十一ケ国の宗廟として朝廷や武将の崇敬を集め、元寇のときには朝廷から「高良の神のおかげ」との綸旨を賜っています。
現在の社殿は、一の鳥居(1655、国重文)が久留米二代藩主・有馬忠頼公の、権現造りの本殿・幣殿・拝殿(1659~61、国重文)が三代・頼利公の、朱塗りの中門と透塀(1777)が七代・頼徸公の寄進です。明治の神仏分離までは、山内に26寺12院が置かれた霊山でした。

本来の参道(一の鳥居→御手洗池→二の鳥居→石段(徒歩20分)→三の鳥居→本坂(131段)→境内)を小一時間かけて歩いて登るのが正式ルートですが、この日は、地元の人に教えてもらい、参拝車道のカーブ途中にある自動車祈願所入口(2基の灯篭が立っている)から社務所の横へ出ました。

実は久留米のマンションの部屋から真正面に見える山と社殿が、この高良大社でした(分かってからは毎朝手を合わせるようにしています)。この日は夏越の茅の輪をくぐり、少しは身の穢れが祓えたかしらん。

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2021/06/08

久留米・梅林寺(有馬家菩提寺)

水天宮から少し歩いて、京町の梅林寺へ。

20210620正式には江南山梅林寺(臨済宗妙心寺派)といい、江戸期の久留米藩主・有馬家の菩提寺です。
もとは丹波福知山から久留米に移った有馬豊氏(初代)が、元和七年(1621)、福知山から瑞巌寺を移したのが始まりとされます。父・則頼の分霊を祀り、法号の「梅林院殿」に因み梅林寺と改めました。

有馬家は、播磨・摂津地方の守護大名で、信長・秀吉に仕えました。関ヶ原では東軍として戦い、摂津有馬と丹波福知山の計8万石を与えられます。豊氏公のとき、大阪の陣の戦功により久留米21万石の大名となり、以後、十一代250年にわたり久留米を治めました。

有馬家墓所には、梅林院霊屋(父・則頼公、市内最古の建築物)、春林院霊屋(初代・豊氏公、二代・忠頼公)、三棟の位牌廟(正室など)の5棟と、三代・頼利公~十代・頼永公(五代・頼旨公を除く)の巨大な三層石塔が残っています。
霊屋や石塔の周囲には、一族や殉死者の石塔群が並び、近世大名家の葬制や墓制を知る上で全国的にも貴重な例として国史跡に指定されています。

ちなみに五代・頼旨公は、家督を継いだ翌年、江戸上屋敷(東京・三田)にて22歳で早逝。墓は江戸の祥雲寺にあります。

梅林寺の外苑は、30種500本の梅の名所です。明治29年、梅林寺で説法を聴いた夏目漱石の句碑「梅林寺 碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き」があり、梅の季節にはぜひ再訪したいと思いました。

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2021/06/07

久留米・水天宮(全国総本宮)

久留米市の北西部にある水天宮を訪ねました。

20210607天之御中主神、安徳天皇と建礼門院(安徳天皇の母)、二位の尼(平清盛の正室)を祀り、全国水天宮の総本宮です。

もとは、壇ノ浦の戦い(1185)の後、建礼門院の女官・伊勢が筑紫の国に遁れ、千歳川(現在の筑後川)のほとりで平家の霊を弔ったのが始まりとされます。

江戸初期の慶安三年(1650)、久留米藩二代藩主・有馬忠頼公が現在の筑後川畔に社殿を寄進して水天宮となりました。ちなみに、文政元年(1818)、九代藩主・頼徳公が江戸上屋敷に分祀したのが、東京の水天宮です。

安徳天皇は、祖父・平清盛がわずか1歳で即位(1180)させた幼帝です。この時、平家は後白河法皇を幽閉して実権を握ったため、世の反感を買いました。以仁王(後白河法皇の子)の令旨に応じ、源氏や寺社などの反平家勢力が各地で蜂起し、全盛を過ぎた平家は徐々に追い詰められていきます。最後は、寿永四年(1185)、壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水。
わずか6歳で政争に巻き込まれて絶命した幼帝を思うと、何ともやるせない史実です。

今では、水難除け、安産・子育て、厄除けの神様として広く信仰され、この日も初参りの赤ちゃんを抱く家族や、若い夫婦(妊婦さん)が何組も昇殿参拝していました。

この後、少し足を延ばして、梅林寺へ向かいます。

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2021/06/06

特別展「よみがえる正倉院宝物」

太宰府天満宮から九州国立博物館へは、連絡通路でつながっています。

Chirasi九博では、特別展「よみがえる正倉院宝物~再現模造にみる天平の技」を開催中。
1300年伝わる正倉院の宝物から「楽器・伎楽」「刀・武具」「染織」「仏具・箱と几(き)・儀式具」「鏡・調度・装身具」「筆箱」に分けて再現模造127点を紹介しています。

再現模造とは、原宝物を調査し、当時と同じ材料・構造・技法で再現する方法です。当時の技術を復元して継承するのが目的ですが、原宝物が年1回(秋の正倉院展、奈良国立博物館)しか公開されないのに対し、比較的身近に見ることができる副次的なメリットもあります。

今回の目玉は、現存する五弦の琵琶として世界最古の「螺鈿紫檀五絃琵琶」の、明治と平成の2つの模造の比較展示です(写真は公式チラシから引用)。新旧技術の違いがよく分かり、場内に音色を流してイメージしやすいように工夫した展示になっています。
このほか、ハープに似た楽器「螺鈿槽箜篌(そうのくご)」、聖武帝の太刀「金銀鈿荘唐太刀」、貴族の玉帯を入れる箱「螺鈿箱」など、見事な模造はもはや別個の第一級の美術工芸品でした。

九博は、平成17年(2005)に開館した歴史系の国立博物館で、佐倉の国立歴史民俗博物館(歴博)と並び、歴史・民俗好きには外せません。常設展示は、倭奴国王印など大陸との関係、白村江の戦いと太宰府や水城の備え、遣唐使、元寇、キリシタン踏み絵など、歴史の古い九州ならではの内容が多く、とても興味深いです。

この特別展は、九博では6月13日(日)まで。その後は新潟、北海道、東京と巡回します。

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2021/06/05

福岡・太宰府天満宮

新しい仕事の関係で、福岡県久留米市に来ています。初めての週末、太宰府天満宮と九州国立博物館を訪ねました。

20210605久留米から西鉄電車を乗り継ぎ、小一時間で太宰府天満宮へ。言わずと知れた全国天満宮の総本社で、菅原道真公(854~903)を祀っています。

菅公は、若くして宇多帝に重用され、文章博士、讃岐国司、蔵人頭守など朝廷の要職を歴任。醍醐帝のころ、55歳で右大臣に昇進します。
これを妬んだ反対派の讒言により、昌泰四年(902)、57歳で太宰権師(ごんのそち)に左遷。京を去る二月に詠んだ歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」と、菅公を慕って京から飛んで来た「飛梅」の話は有名です。

当時の太宰府は、朝廷が朝鮮半島への防備として政庁を置いた要所でした。菅公は、太宰府の配所(現在の榎社)で謹慎生活を送る中、59歳で亡くなります。亡骸を牛車に乗せて運ぶ途中、牛が伏して動かなくなった地に葬られ、のちの太宰府天満宮となりました。

現在の社殿は、天正19年(1591)、筑前国主・小早川隆景の造営で国重文。唐破風で桃山期の豪華絢爛な建築美を伝えています(ちなみに、京都・北野天満宮の社殿は、慶長十二年(1607)、豊臣秀頼の造営で国宝。権現造でこちらも桃山期の豪華な建築様式です)。

写真は、手水舎の花手水です。1月の鷽(うそ)替え神事に因み、鷽のおみくじを引いたら「商売 急げば損多し」…、うーむ(汗)。

宝物殿で社宝を見学した後、隣接する九州国立博物館へ向かいます。

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2021/04/11

久留米ラーメン

新しい仕事の打ち合わせで久留米(福岡県)に来たので、夕食は久留米ラーメン。

20210411久留米ラーメンは、戦前に屋台「南京千両」の店主が、横浜の支那そばと長崎ちゃんぽんをヒントに考案。戦後、屋台「三九」の店主が、より白濁した豚骨スープを取り入れました。
ここから九州各地に広がったので、九州とんこつラーメンは久留米が発祥とされます。

濃厚な豚骨スープですが、本来はあっさり系だとか。
今回はホテルに近い一番街の「麺志」へ。平成26年の開店で、若いスタッフが元気よく迎えてくれます。メニューはあっさり系の「らーめん道」とこってり系の「らーめん志」があり、こってり系を注文。
煮卵をトッピングし、さらに紅生姜や替え玉を頼み、豚骨スープを堪能して大満足でした。

地元の人に聞くと、こってり系は比較的新しい店に多いとのこと。こりゃ、老舗との食べ比べも面白そうです。

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2020/09/22

桶川飛行学校平和祈念館

9月の四連休に、妻と桶川飛行学校平和記念館(桶川市)に行ってきました。

20200922昭和12年に開設された旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の跡で、各地から集まった若者が寝食をともにして、飛行兵になるため学びました。
戦況ひっ迫で廃止(昭和20年2月)されるまで、約1500名が巣立ったとされます。廃止後は特攻の訓練に使われ、実際に練習機を戦闘機色に塗装し、知覧に移動して沖縄へ出撃しています。

戦後はGHQの接収を経て、引揚者住宅などに使われた後、桶川市が保存整備を進め、令和2年8月に「桶川飛行学校平和祈念館」として公開されました。

当時の建物のうち、本部兵舎棟、弾薬庫、守衛棟、車庫棟、便所棟が復元されています。兵舎棟では「桶川分教場の開設と戦争への突入」「学校生活」「兵舎寝室(復元)」「飛行学校から戦地へ」の4つのテーマで展示。
生徒たちは、午前5時半起床、午前6時半~午後4時まで実技と学科を学び、午後5時半に夕食、午後9時まで自習し、午後9時半に消灯する学校生活だったようです。
展示には、特攻隊を率いて出撃した若き教官の遺書もあり、厳しい歴史の現実の上に今の「平和」があることを再認識させられました。

飛行訓練が行われた滑走路は荒川をはさんだ対岸にあり、現在はホンダエアポートになっています。かつて「赤とんぼ」(九五式練習機)が飛んだ分教場の上空を、今はセスナが軽やかなエンジン音を響かせながら飛び交っています。眼を閉じると、往時の訓練風景が浮かぶようでした。

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2020/03/15

江戸城外・北町奉行所跡と八丁堀の組屋敷

北町奉行所は、呉服橋門内(今のJR東京駅八重洲北口付近)にありました。

20200315こちらは、時代劇「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元(金四郎、1793-1855)で有名です。景元は、五百石の旗本ですが、若いころ江戸市中で放蕩生活を送ったりしています。

出仕中、十二代将軍・徳川家慶の信を得て47歳で北町奉行に就任。
在任中、老中(水野忠邦)・南町奉行(鳥居耀蔵)らの酷な施策に反対し、わずか3年で左遷。ほどなく老中・南町奉行らが失脚すると、町奉行に返り咲き、今度は南町奉行を7年務めています。隠居後は出家し、63歳で亡くなりました。

東京駅八重洲口の再開発で、北町奉行所の排水溝石組が発見されました。鬼門除けに北東を欠いた部分が丸の内トラストタワーN館の東側の小径に再現されています。また、八重洲北口を出た外堀通りの歩道にも「北町奉行所跡」の碑があります。

20200315bさて、南北両奉行所には、奉行配下の与力50人・同心280人が働いていました。与力は二百石の徳川直臣、同心はその配下の侍で三十俵二人扶持でした。与力と同心は、八丁堀の組屋敷(今でいう官舎)から徒歩で通勤していたようです。
着流しに羽織、帯に差した十手の朱房が粋で、江戸庶民から俗に「八丁堀(の旦那)」と呼ばれました。

組屋敷があったのは、今の八丁堀駅北側~茅場町駅南側の広いエリアです。遺構は何も残っていませんが、八丁堀駅そばの「京華スクエア」(旧京華小学校)に「八丁堀与力・同心組屋敷跡」の解説板があります。

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