2018/02/07

京都・冬の特別拝観2018(洛南編)

20180204f旅の最後は、洛南の東寺(真言宗)へ。
特別公開の五重塔(国宝)は3度目の見学です。
元慶七年(883)に建立され、焼失と再建を繰り返し、現在の塔は寛永二十一年(1644)に再建された五代目。高さ55mの日本一高い五重塔で、京都のシンボルです。
初層の内部は、極彩色の文様が描かれた煌びやかな空間。中心を貫く心柱を大日如来に見立て、その四方を金色の四如来像と八菩薩像が守っています。四方の柱には金剛界曼荼羅が、四面の端柱には八大龍王が、壁には真言八祖像が描かれています。須弥壇の下の穴から、心柱を支える巨大な礎石を見ることができます。

昨年までは、塔内に入って間近に見学できたのですが、今回から開いた外扉から中を覗く拝観方式に変更され、塔内への立ち入りはできなくなりました。その代わり、薄暗かった塔内にLEDのスポット照明が設置され、より鮮やかに見えるように工夫されていました。

今回の京都・冬の旅では、一泊二日で十一寺四院を巡りました。今回もツアーだったので、現地で説明を聞きながら見学と撮影に集中できました。
今回の旅の機材はD40+18-55mmf/3.5-5.6GII。念のため55-200m/f4-5.6Gも持参しましたが、望遠系は一度も使いませんでした。

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2018/02/06

京都・冬の特別拝観2018(洛西編)

20180204d洛西の妙心寺(臨済宗妙心寺派大本山)は、3度目の訪問です。特別公開の三門(国重文)は2度目の見学です。
禅の三つの悟りの境地(空・無相・無作)を意味する門で、慶長四年(1599)の建築。
狭い階段で楼上に昇ると、極彩色の世界が広がります。金色に輝く観音菩薩像が座るのは、雑草に囲まれた岩で修行中を表わします。色彩鮮やかな十六羅漢像、天井には鮮やかな迦陵頻伽(極楽浄土に住む想像上の人面鳥)図や龍図、柱や組物に施された彩色や飛龍(子供の龍)など空想の生き物の図など、何度見ても素晴らしいものでした。

20180204e5年ぶり公開の塔頭・東海庵へ。妙心寺四派の一つ「東海派」の本庵で、文明十六年(1484)の創建。開祖の悟渓禅師は尾張の人です。
趣の異なる三つの庭で知られ、南庭は百坪余りを埋め尽くす白砂と手水鉢だけの「白露地の庭」、西庭は不老不死の仙人が住む三島を表わす枯山水の「東海一連の庭」(国史跡・名勝)、中庭は七坪ほどの小さな空間に波紋のような白砂と七つ石を置いた坪庭です。七つの石はそれぞれ別方向を向いて、静かにリズミカルな雰囲気を醸し出しています。
方丈は水墨の襖絵が描かれ、書院は狩野元信作と伝わる「瀟湘八景図」などの障壁画が描かれていました。

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2018/02/05

京都・冬の特別拝観2018(洛東編)

20180203k世界遺産の清水寺(北法相宗大本山)へ。

宝亀九年(778)、清い水の湧く地(音羽の滝)に創建され、もとは奈良・興福寺(法相宗大本山)の末寺でした。奈良仏教の京都における布教拠点だったので、京都仏教と激しく対立。何度も伽藍を焼失し、現在残る建物はほとんどが江戸初期の再建です。昭和40年に北法相宗を立宗し、単立寺院となりました。

清水坂を上がると、仁王門の右奥に西門・三重塔・経堂(いずれも国重文)が見えます。もとは西門が正門で、御所を見下ろすのを憚り、仁王門で目隠ししたとか。
「清水の舞台」で有名な本堂(国宝)は、本尊・十一面千手観世音菩薩を祀ります。舞台は芸能を奉納する場所で、4階建てビルの高さがあります(2021年まで平成の大修理中)。外国人観光客の人気1位だけあって、境内はどこもすごい人出でした。

20180203l特別公開の塔頭・成就院は、応仁の乱後、清水寺を復興した願阿上人の住房として創建。幕末には勤皇僧・月照上人が住職を務めています。
庭園「月の庭」(国名勝)が有名で、高台寺山を借景に池と奇石を配し、特に池に映る月が美しいそうです(非公開)。縁先に置かれた豊臣秀吉寄進の「誰が袖手水鉢」は、木の株のような不思議な石でした。
持仏堂(護摩堂)は、本尊・十一面千手観音と不動明王、月照上人と弟・信海上人の木像を祀ります。月照上人は勤皇派の公家や志士との人脈が広く、西郷隆盛とも懇意でした。安政の大獄(1858)後は弾圧を避けて西郷とともに薩摩に逃れますが、追手が迫り錦江湾で船上から入水し、西郷のみが助かりました。この時の二人の着物と、月照上人十七回忌で西郷が詠んだ弔詩(拓本)を公開しています。

20180204a初公開の泉涌寺(真言宗泉涌派総本山)へ。鎌倉初期、月輪大師が宋仏教に倣って創建し大伽藍を整えました。幕末まで天皇家の菩提所となったので、「御寺」(みてら)と呼ばれています。
舎利殿は、慶長年間に御所から移築した建物で、内陣の舎利塔には「仏牙舎利」(釈迦の歯)を納めています。月蓋長者像と韋駄天像(ともに国重文)を祀り、天井の狩野山雪作「雲龍図」は鳴き龍として知られます。
寺宝の皇女和宮ゆかりの念持仏(肌守り)、細字法華経釈迦如来像(細かい字で書かれた掛軸)も公開されていました。
仏堂(国重文)は、江戸初期の再建で重厚な唐様建築です。内陣に運慶作の阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩を祀り、それぞれ人の過去・現在・未来を護っています。この祀り方は、宋仏教では見られるものの、国内では珍しいとか。高い天井は狩野探幽作「雲龍図」が描かれ、法要時には巨大な「大涅槃図」が掛けられます。
寺では、今でも天皇家の祭祀が行われており、その際はまず神官が神事を行い、僧侶が法要を行うそうです。
大門そばの「楊貴妃観音堂」では、唐代の作と伝わる美人さんな楊貴妃像(国重文)に会うことができます。

東福寺(臨済宗東福寺派大本山)は、2015年以来2度目の訪問です。鎌倉初期、摂政関白の九條家が氏寺として創建し、東大寺のように大きく、興福寺のように隆盛をと願って名付けた京都五山第四位の禅寺です。今回は、特別公開の禅堂・経蔵と塔頭・即宗院を見学。
20180204b初公開の禅堂(国重文)は、室町初期の建築で、400人以上の僧が同時に修行した現存最古最大の禅道場です。堂内中央に祀る文殊菩薩は、聖僧の形で珍しく、修行僧の身近にいることを表わしているそうです。
初公開の経蔵は、江戸中期の再建で、八角形の回転輪蔵には経典箱を納めています(回転は不可)。鎌倉期に記された日本初の仏教史書「元亨釈書」の版木も公開されていました。

塔頭・即宗院へ。木造の偃月橋を渡ると、前に見学した龍吟庵の隣にありました。
嘉慶元年(1387)、薩摩の島津氏久の菩提を弔うため創建され、江戸期に島津家久が再興し、薩摩藩の畿内菩提寺とされました。幕末に西郷隆盛と月照上人が討幕の密儀をし、各地に密令を発したり、鳥羽伏見の戦いで裏山に布陣した薩摩軍が洛中に向けて砲撃した地でもあります。
20180204c庭園「月輪殿」(市名勝)は、関白・九條家の山荘跡で、森を借景に池と石を配し、紅葉と苔が美しい庭園として知られています。
寺宝として、薩摩・島津家から拝領した火鉢や重箱などの調度類のほか、西郷隆盛直筆の書(掛軸)、徳川慶喜直筆の書(掛軸)を公開中。島津の家紋入り火鉢は、一説では篤姫が滞在中に手をかざしたとされますが、史実では篤姫が滞在したのは夏だったので真偽は?だそうです。

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2018/02/04

京都・冬の特別拝観2018(洛中編)

20180203e相国寺(臨済宗相国寺派大本山)は、室町幕府三代将軍・足利義光が創建し、京都五山の第二位に列した京都最大の禅寺です。法堂(国重文)と方丈、塔頭寺院2つ(豊光寺と林光院)を見学。

法堂(国重文)は、慶長十年(1605)、豊臣秀頼が再建した現存最古の法堂建築です。須弥壇に本尊・釈迦如来像を祀り、天井には狩野光信作「蟠龍図」が描かれています。この龍は、八方睨みの「鳴き龍」として有名です。
方丈は、文化四年(1807)の再建。襖の障壁画や、白砂で禅の「無」の境地を表した平庭が印象的でした。

初公開の塔頭・豊光寺は、豊臣秀吉が没した慶長三年(1598)に相国寺の西笑和尚が秀吉追善のために創建。天明大火(1788)後は荒廃しましたが、明治期に相国寺の獨園和尚が慧林院冷香院(廃絶塔頭)の客殿を移築して再興しました。

20180203f本堂の本尊・釈迦如来像、西笑和尚(豊光寺開祖)・太嶽和尚(慧林院開祖)の像や、寺宝の「足利義稙肖像画」(室町十代将軍)のほか、山岡鉄舟の書を見学。
苔が広がる庭園は閑寂な趣で、楓の古木は秋の紅葉が見事だそうです(非公開)。

初公開の塔頭・林光院は、室町期に夢窓国師が足利義嗣(室町四代将軍の弟)の菩提を弔うために創建。当初は二条西ノ京の紀貫之屋敷跡にあり、安土桃山期に豊臣秀吉が相国寺山内に移したとされます。

20180203g現在の本堂・書院は、江戸後期の近江・仁正寺藩邸を移築したもの。武家屋敷なので、門は騎馬で通れる高さです。
襖絵は、現代の日本画家・藤井湧泉の作品で平成29年に完成したばかり。話題の虎図は、住職が「龍と虎の絵を」と頼んで任せたところ、出来上がったのは黒い眠り猫のような可愛い虎で大層驚いたそうです。おそらく最初で最後の公開とのこと。
庭の「鶯宿梅」(おうしゅくばい)は、紀貫之の娘の逸話で有名です。平安期、村上天皇が紀貫之の屋敷にあった梅を気に入り、勅命で御所に移植させたところ、貫之の娘が「帝の仰せなので畏れ多いことですが、春に鶯が戻り『私の宿り木はどこですか』と尋ねられたら何と答えればよいのでしょう」と詠み、心を打たれた天皇が梅を返したと伝わります。何代もの接ぎ木を経て、3月には八重の紅白の花が美しく咲くそうです。

20180203h初公開の常林寺(浄土宗)へ。天正元年(1573)に創建され、古くから知恩院の役番を務めました。
幕末に勝海舟が定宿とし、坂本龍馬らと会談した座敷が「勝海舟の間」として残されています。
本堂に本尊・阿弥陀三尊像と由来不明の帯刀僧形像を祀り、天井絵の日展画家・野村はるみ作の花画77枚がモダンな感じです。
現在地に移ったのは江戸中期ころ。川が交わる砂州が萩に適し、「萩の寺」として知られています。
境内の地蔵堂は、寺が移る前からこの地で若狭街道を行き交う旅人の信仰を集めていた「世継子育地蔵尊」です。

初公開の妙覚寺へ。永和四年(1378)の創建で、京都における日蓮宗十六本山の一つです。織田信長が上洛時の宿舎で、本能寺の時は嫡男・信忠が宿泊中でした。
20180203i表門は、聚楽第の裏門を移築したと伝わり、数少ない豊臣遺構です。
巨大な祖師堂は江戸期の再建で、日蓮上人・日朗上人・日像上人の坐像を祀ります。本堂では、寺宝の狩野元信作「大涅槃図」(幅4.6m×高さ5.9m)や、この寺で修行した美濃の戦国大名・斎藤道三の遺言状(レプリカ)を公開。本堂北の華芳塔堂は、安土桃山期の建築で、精巧な木造多宝塔「華芳塔」を収めます。内部の「華芳塔」も開扉され、日蓮直筆の法華経を納めた石塔が見えました(本堂から眺める方式での公開)。
江戸期の絵師・狩野一族の菩提寺でもあり、少し歩いた境外墓地には狩野元信・永徳など一族の墓があります。

20180203j5年ぶり公開の宝鏡寺(臨済宗)は、室町期に創建された尼門跡で、代々皇女が住職を務めたので「百々(とど)御所」とも呼ばれています。
本堂は本尊・聖観音菩薩像を祀り、江戸初期の狩野探幽作の襖絵「秋草図」が煌びやかな趣き。書院は、江戸中期の円山応挙作の杉戸絵や円山派の襖絵ですが、子犬などが子供目線の低い位置に描かれ、幼い皇女への配慮が感じられます。書院の庭園「鶴亀の庭」は、皇女和宮が幼少時に遊んだと伝わります。
阿弥陀堂では、光格天皇作の阿弥陀如来像や、日野富子(室町八代将軍・義政の正室)の木造を公開。日野富子は、応仁の乱の原因を作った悪女とされ、像などは残っておらず貴重です。
寺宝に歴代天皇から贈られた人形を所蔵し、孝明天皇がお気に入りだった御所人形「孝明さん」も特別公開されています。至る所に女性的な優しい雰囲気を感じる寺でした。

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2018/02/03

京都・冬の特別拝観2018(伏見編)

2月の土日を利用して、妻と冬の京都を訪ねました。

初日は〔伏見〕伏見稲荷大社・大黒寺→〔洛中〕相国寺・常林寺→〔洛東〕清水寺を、二日目は〔洛東〕泉涌寺・東福寺→〔洛西〕妙心寺→〔洛中〕妙覚寺・宝鏡寺→〔洛南〕東寺を巡りました。

20180203a伏見稲荷大社は、五穀豊穣・商売繁盛の神として知られ、全国3万社あるといわれる稲荷神社の総本宮です。
9年ぶり公開の「御茶屋」(国重文)と「松の下屋」を見学。
「御茶屋」は、寛永十八年(1641)に後水尾上皇から御所の古御殿の一部を下賜されたと伝わり、フォーマルな書院造(茶室部分)と遊び意匠に富んだ数寄屋造(座敷部分)が見事に融合した建物です。
「松の下屋」は、祠官(宮司)・松本家の旧宅で大正年間の二階建て。大社の迎賓館として使われ、宿泊した棟方志功が襖絵「御牡丹図」のほか、「日昇昂韻図」「初午ポスター」などの作品を残しています。稲荷山を借景にした回遊式庭園(市名勝)も見事でした。

20180203bせっかくなので「千本鳥居」にも足を延ばしました。江戸期から崇敬者が奉納した鳥居が林立し、その数は大社も把握していないとか。
奥之院への上り・下りの一方通行ですが、この日は節分祭で人出が多かった上、鳥居内で記念撮影に興じる中国人観光客の団体さんがしばしば道を塞いで大渋滞していました。

20180203c初公開の大黒寺(真言宗)へ。
平安期の開創で、江戸初期に薩摩藩邸が近く、島津家の守り本尊が「出世大黒天」という縁で薩摩藩の祈願所となり、幕末には西郷隆盛が定宿にしたことから、通称「薩摩寺」と呼ばれます。
本堂と、西郷隆盛が大久保利通らと密議を交わした「会談の間」を見学。
本尊・大黒天は秘仏(開帳は60年に一度)で見られませんが、「会談の間」には西郷隆盛が使った机と硯・筆が再現(実物)され、往時を偲ばせます。

20180203d境内の墓地には、文久二年(1862)の寺田屋騒動(公武合体派の藩主・久光公が尊攘急進派の藩士を粛清)で斬られた有馬新七ら9名の墓があります。
当時は主君に背いた奸賊として墓に葬ることも許されませんでしたが、のち薩摩藩が尊攘派に転向して名誉回復し、西郷隆盛が墓を建てて弔いました。

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2017/12/10

讃岐・栗林公園と屋島

二日目は、朝から地元の方に案内して頂き、栗林公園→屋島を巡ります。

20171210a有名な栗林公園は、400年の歴史を持つ回遊式の大名庭園です。
もとは当地の豪族・佐藤氏が築庭し、戦国期に生駒氏、江戸期に松平氏が拡張し、松平家下屋敷が置かれました。

紫雲山を借景に、6つの池と13の築山を組み合わせ、変化に富んだ美しさは「一歩一景」と称されます。国特別名勝に指定され、文化財指定の庭園としては最大の広さだそうです。

写真は、飛来峰から南湖の眺望。紫雲山を背景に、偃月橋と掬月亭が織りなす風情は園内随一です。

20171210bクルマで屋島へ移動します。
古くから瀬戸内海の要衝で、大和朝廷が古代山城(屋嶋城)を築いたり、源平合戦では屋島の戦いの舞台となりました。

島は、隆起地層が侵食されてできた標高290mほどの平坦な台形で、典型的なメサ台地です。かつては海に浮かぶ島でしたが、現在は陸続きになっていて、頂上までドライブウェイで登ることができます。

今回は南嶺を遊歩道で一周。眼下に広がる瀬戸内の眺望が爽快です。途中の売店で、名物の「かわらけ投げ」(願掛け)を体験。地元の人が、輪っかを狙うより女木島をめがけて投げるんだよと教えてくれました。思いっきり投げると、ストレス解消になりました。

20171210c南嶺の屋島寺(真言宗)に立ち寄ります。
正式には南面山千光院といい、天平勝宝年間に鑑真和上が北嶺に開基し、のちに弘法大師が伽藍を南嶺に移しました。
四国霊場八十八か所の84番札所になっていて、お遍路さんが巡礼する姿が見られました。

本堂脇の千本鳥居は、太三郎狸を祀る蓑山大明神。多くの善行を積んで屋島の氏神さまになった狸で、四国狸の総大将です。「平成狸合戦ぽんぽこ」では、開発に抵抗する多摩の狸たちが助力を求めた四国の太三朗禿狸(年齢999歳)として描かれています。

お昼は、島の麓にある四国村の「わら屋」で、讃岐の釜揚げうどんと地ビールを堪能して、帰路に付きました。

今回の旅は、たくさんの人々の温かさに触れ、とても楽しい思い出になりました。旅の機材は、D40+AF-S18-55/3.5-5.6GIIでした。

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2017/12/09

讃岐・高松城と平家物語

讃岐路に、高松城跡(玉藻公園)→県立ミュージアム→平家物語歴史館を訪ねました。

20171209a_3高松城は、天正十五年(1587)、豊臣秀吉から讃岐を拝領した生駒親正が築いた水城です。
江戸前期、常陸下館藩主・松平頼重(水戸光圀公の実兄)が12万石で入り、松平氏11代228年の城下町として栄えました。

本丸にあった天守閣(3層)は、明治中期に解体。現在は天守台の石垣だけ残っています。再建話があるものの、予算的な事情で先行き不明だとか。

写真は、海側にある月見櫓と水手御門。かつては海に面し、藩主の舟が戻るのを確認し(着見櫓)、門を開けて舟を着けたといい、水城ならではの構造です。訪れた時は引き潮で、堀が干上がっていましたが、夕方に再訪すると水が満ちていて、水城らしい姿を見ることができました。

20171209b続いて、香川県立ミュージアムへ。

旧歴史博物館だけに、香川の歴史全般がよく分かり、中でも空海に関する展示が詳しいです。

讃岐で生まれた空海は、30歳で出家。31~33歳まで唐に渡り、密教の教えを日本に持ち帰りました。43歳で高野山を開き、真言密教を布教。62歳で没しました。没後86年経った延喜二十一年(921)、醍醐帝から弘法大師の称号を贈られました。

展示は、東寺(京都)、金剛峯寺(和歌山)、善通寺(香川)が所蔵する国宝・重文のレプリカをふんだんに用いて、空海の生涯と事績を紹介しています。本物は滅多に見られないので、レプリカで通常見学できるのは有難いです。

写真は、藩主の御座舟「飛龍丸」の御座之間(復元)。金砂子で装飾した豪華な障壁画に、親藩松平家の格式を感じます(撮影可)。

20171209c20分ほど歩いて、高松平家物語歴史館へ。

平家の隆盛〜源平合戦〜平家滅亡を描いた「平家物語」の名場面17景を蝋人形で再現しています。日本最大の蝋人形館を謳うだけあって、おびただしい数の蝋人形です(館内撮影可)。

第6景(物怪)以降はおどろおどろしい場面が多くなるので、気が弱い人にはお勧めしませんが、添えられた解説が詳しくて思わず見入ってしまいました。

写真は、第2景「平家にあらずんば人にあらず」で、平清盛が子らと一門を集めて何やら評定中。

夜は旧知と合流して、市内某所にて美味しい手料理とお酒で至福のひと時を過ごし、そのまま泊。
明日は、栗林公園と屋島を巡ります。

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2017/09/03

大阪・お初天神

曽根崎・露(つゆの)天神社へ。

20170901c曽根崎地区の総鎮守で、平安期に菅原道真公が大宰府へ左遷される途中、当地で詠んだ句(露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば)に因むと伝わります。

通称「お初天神」の名で知られ、「曽根崎心中」の舞台となった所です。
元禄十六年(1703)、遊女お初と醤油屋の手代・徳兵衛が悲恋に落ち、この神社の森で心中しました。
この事件を近松門左衛門が脚本化し、文楽「曽根崎心中」が誕生。大評判となり、神社に大勢の参詣者が押しかけたそうです。

現在は、ビルと商店街に囲まれて想像できませんが、当時は社殿の裏手に広大な森があったそうです。お初と徳兵衛が見つめ合うブロンズ像には、恋の成就を願うハートの絵馬がたくさん奉納されていました。
例大祭(毎年7月第三金~土曜日)には、舞獅子や傘踊りが伝わり、機会があれば見たいものです。

今回の旅の機材はRICHO GRでした。大阪は何度か来ていますが、初の曽根崎界隈でした。夜は昭和のムード溢れる「お初天神通り」で、旧知と串カツで一杯やるのも楽しかったです。

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2017/09/02

大阪・かしく寺

お初天神への途中、かしく寺に立ち寄りました。

20170901b正式には光智山法清寺(日蓮宗)ですが、遊女かしくの墓があるので「かしく寺」の名で親しまれています。

江戸期、曽根崎遊郭の遊女かしくは、武家に身請けされたものの、酒癖が悪く、心配した職人の兄から度々注意されていました。寛延二年(1749)、昼酒で泥酔しているのを兄から咎められたかしくは、逆上して兄を刃物でメッタ刺しに…。ひと月後、市中引き回しの上、打ち首になりました。

この事件は、兄殺しという特異さと、かしくの最期が浪速っ子の話題をさらいました。処刑の日、かしくは油揚げを所望し、その油で髪を整え、遊女の矜持を示しました。そして、自らの酒癖を悔い「神霊となって酒害を絶たん」と言い残して斬首されたと伝わります。

ここから酒封じの神として「かしくの墓に手向けた手水を飲めば酒嫌いになる」と信じられるようになり、いつしか「墓石を削って飲めば断酒できる」となって、戦後まで墓石を削る人が絶えなかったそうです。

現在は、削られて細った墓石は鞘堂に覆われ、禁酒祈願に奉納された「しゃもじ」がたくさん吊り下がっています。
せっかくなので、(酒癖は悪くありませんが)丁重にお参りしておきました。

さらに歩いて御堂筋を渡り、お初天神へ向かいます。

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2017/09/01

大阪・夕日の神明

大阪に行ったついでに、曽根崎界隈を散策。

20170901a歓楽街の中に見つけた難波神明社の旧跡。

平安初期、嵯峨帝の皇子(源融公)を祀ったのが始まりで、鎌倉末期に後醍醐天皇が勅願所とし度々行幸しました。
江戸期には難波三神明(春日出、鶴町)・日本七神明(東京芝、京都松原、同東山、加賀金沢、信濃安曇、出羽湯殿山)の一つに数えられ、大阪城代や東西町奉行が替わる度に必ず参詣したそうです。

社殿が西向きだったことから「夕日の神明」の名で親しまれましたが、明治末期にキタの大火で焼失。再建されることなく、近くの露天神社に合祀されました。

周辺は昔の遊郭街で、風俗店やホテルが並んでいます。旧跡を示す石碑はきれいに手入れされ、大切に祀られていました。風俗店が名を連ねて刻まれた玉垣が面白かったです。

次は、かしく寺を訪ねます。

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