2021/11/20

久留米・青木繁旧居

洋画家・青木繁(1882-1911)は、明治15年、久留米市荘島町の旧藩士の家に生まれました。

20211120a荘島尋常小学校から久留米高等小学校、久留米中学明善校に進み、14歳のころ、久留米の洋画家・森三美に師事。

芸術の道を志し、明善校を中退して上京。画塾で学びながら、東京美術学校西洋画科専科に入学しました。
在学中に神話、伝説、哲学、宗教に興味を広め、神話を題材にした作品が白馬会展で受賞。画壇にデビューを果たします。
明治37年、22歳で卒業すると、仲間の坂本繁二郎、福田たねらと写生旅行で房州布良に滞在。布良で描いた「海の幸」は、繁の代表作となりました。

福田たねとの間に子が生まれ、人生の最盛期を迎えますが、その後は入選することもなく、生活は困窮します。

25歳のとき、父親の危篤で久留米に戻りますが、父の没後は身内と衝突して家を飛び出し、放浪生活へ。九州各地を流浪して作品を描く中、心身を病み、明治44年、肺結核により福岡の病院で没しました(享年28歳)。

繁が17歳まで過ごした旧居は、月星化成の部長社宅などに使われた後、老朽化で取り壊される予定でしたが、地元の保存会の尽力で復元保存されています。

旧居に展示されている「海の幸」「わだつみのいろこの宮」など12点(複製)は、保存会が募金を集めて原寸大での複製にこぎつけたもの。
中でも、唐津で静養中に描いた絶筆の「朝日」(1910)は、心象風景の房州布良の夕陽とされ、原画(佐賀県立小城高校同窓会黄城会蔵)は寄託先の佐賀県立美術館でも常設展示していない稀少な作品です。

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2021/11/03

平戸・生月島の柱状節理

平戸島から生月大橋を渡り、生月島(いきつきしま)へ。

20111103生月島は、南北10km、東西3.8kmの細長い島です。その昔、中国から帰国する人々は、船上からこの島が見えると「日本に帰ってきた」とひと息ついたので、その名が付いたと伝わります。

島は、溶岩に玄武岩が重なった溶岩台地で、島の西側に漁港や集落があり、島の東側はほぼ断崖絶壁になっています。

島を北上する途中にある「塩俵の断崖」は、奇岩が続く景観が圧巻です。

典型的な柱状節理で、厚い溶岩流がゆっくり固まる際、岩が収縮して柱状の亀裂ができました。波に浸食された石柱の断面(六角形)が塩俵を積んだように見えたことから「塩俵の断崖」と呼ばれています。

さらに北上して、最北端の大婆鼻を目指します。

20111103b大婆鼻は、対馬海峡に突き出た高さ80mほどの断崖です。崖の上に立つ大バエ灯台は、小さな無人灯台ですが、展望台からの眺めが絶景です。崖を吹き上がる強い風に、思わず足が竦みました。

東に度島や的山大島を望み、天気が良ければ遠く壱岐や対馬まで見えるそうです。

今回の旅は、初めての平戸で盛りだくさんでした。帰路は、生月大橋~平戸大橋~R204で松浦~伊万里~武雄北方ICから長崎道で帰宅。旅の機材はNIKON Z50+Z DX 16-50/3.5-6.3でした。

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2021/11/02

平戸・オランダ商館跡

平戸瀬戸に面した平戸オランダ商館跡へ。

20111102平戸は、戦国期のポルトガル貿易(1550~1561)が長崎に移った後、江戸初期のオランダ貿易(1609~1641)で繁栄しました。

1600年、オランダ船リーフデ号が豊後臼杵に漂着。当時、オランダはスペインから独立した新興国で、積極的に海外へ展開中。1602年に東インド会社(VOC)を設立し、貿易、外交、武力行使の権限が与えられ、バタビア(今のジャカルタ)を本拠にアジアに進出しました。

1605年、平戸藩主松浦鎮信(法印)は、徳川家康の命で、リーフデ号の生存者を平戸からバタビアに送還。これに応える形で、1609年、オランダ船が国王の親書を携えて平戸に来航します。通商のみで布教を求めないVOCは、幕府の通商許可を得て、この年、平戸にオランダ商館を開設。平戸にポルトガル貿易以来の賑わいが戻りました。

1613年、イギリスも来航して平戸に商館を置きますが、熾烈な貿易競争に敗れて1623年に撤退。この後、オランダの貿易額は増え続け、商館の規模も拡大します。

1637年、島原の乱が勃発すると、幕府は禁教を強化し、布教を支持するポルトガルと断交。1639年には鎖国令を出し、友好関係にあったオランダに長崎移転を命じます。この年、平戸オランダ商館に大規模な石造り倉庫が完成しましたが、幕府から銘板の西暦年号(キリスト紀元)を咎められて破却。1641年、商館は長崎の出島に移り、平戸のオランダ貿易は幕を閉じました。

オランダ商館があった一帯は、平戸和欄商館跡(国史跡)として、オランダ塀やオランダ井戸、石積みの埠頭や常灯の鼻石垣が残っています。復元された白い1639年築造倉庫(2011)では、平戸交易と大航海時代のオランダ、禁教で国外追放された日本女性のジャガタラ文など、往時を物語る資料が展示されています。

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2021/11/01

平戸・ザビエル記念聖堂

キリスト教の伝道者フランシスコ・ザビエルの聖名を冠した平戸ザビエル記念聖堂へ。

20111101フランシスコ・ザビエル(1506ー1552)は、スペインの地方貴族の家に生まれました。

パリ大学で哲学を学び、在学中に聖書の一節に感銘を受け、同志7人でイエズス会を創設。ポルトガル領インドに渡って布教した後、1549年に明国から鹿児島に上陸。当時戦国期だった日本に初めてキリスト教と西洋文化を伝えました。

天文十九年(1550)、平戸に初めてポルトガル船が来航します。時の領主松浦隆信は、交易の見返りにキリスト教の布教を許可(ただし、その後、仏僧の反対で禁教に転じ、平戸のポルトガル貿易は15年ほどで終了しています)。この年、ザビエルも平戸に移って布教を行い、長崎のキリスト教信仰の始まりとなりました。

その後、山口、京都に移ったザビエルは、大分で布教の後、再びインドに戻り、明国への布教の途中、病で没しました。

ザビエルは、わずか20日の平戸滞在で1,000人を超える信者を得たと伝わります。その後も、平戸に初の教会が建った時と、京都に上る前に平戸を訪れた記録が残っています。

平戸ザビエル記念聖堂は、昭和6年(1931)に建てられたカトリック平戸教会の教会堂です。中央の大塔に、左側のみ小塔を配した左右非対称なゴシック様式が特徴で、外観のミントグリーンの配色が珍しいです。
内部はコロナ対策のため見学不可だったのが残念でした。

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2021/10/31

平戸・平戸城と松浦史料博物館

妻と一緒に、久留米IC~長崎道~西九州道~R204~平戸大橋で平戸島へ。

まずは平戸藩松浦氏六万三千石の居城を訪ねます。

20211031平戸松浦氏は、古くから続く武士集団「松浦党」の一派で、織豊期に隆信・鎮信の二代で壱岐と肥前松浦・彼杵を領する戦国大名となりました。

最初の平戸城(日の岳城)は、初代平戸藩主となった松浦鎮信(しげのぶ)公が築きました。この城は、江戸幕府の疑念を晴らすため、完成直後の慶長十八年(1613)、自ら焼き払ったとされます。

その後、約百年間、平戸藩は城を持たず、藩政は対岸の藩主の館で行われました。

現在の平戸城(亀岡城)は、五代藩主松浦棟(たかし)公が、幕府から城の再建を許され、享保三年(1718)に完成しました。山鹿流軍法を取り入れた設計で、天守はなく乾櫓が代用されたようです。

江戸中期に外様大名が築城を許されるのは異例ですが、棟公は五代将軍綱吉の諮問役と寺社奉行(本来は譜代大名の職)を務めるなど、将軍の信頼が厚かったものと思われます。

藩政期の建物は、北虎口門と多聞楼(狸楼)が現存。乾櫓・地蔵坂櫓・見奏櫓・懐柔櫓・模擬天守(旧沖見櫓)は昭和37年の再建です。

20211031b対岸の藩主の館(御館)跡には、明治期に旧藩主邸「鶴ヶ峰邸」が建てられ、現在はそのまま松浦史料博物館になっています。

長崎県で最古の博物館で、松浦家に伝わる3万点余の資料から約200点を展示。中でも、戦国期のポルトガル交易、秀吉の伴天連追放令(キリシタン禁制定書)、江戸初期のオランダ・イギリスとの交易、伊能忠敬の平戸島図などは、平戸ならではの大変興味深いものでした。

庭園の茶室「閑雲亭」では、四代藩主鎮信(ちんしん)公が隠居後に興した茶道鎮信流の呈茶が楽しめます。対岸にお城を眺めながら、抹茶と復刻和菓子カスドースでまったり休憩しました。

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2021/10/23

佐賀・吉野ヶ里遺跡

妻と一緒に佐賀・吉野ヶ里遺跡を訪ねました。

20211023吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の前~後期の間、約700年かけて集落がムラからクニへと発展する過程を残す貴重な史跡です。

弥生前期(BC5~BC2世紀)、丘陵に分散していた小さな集落は、稲作が進むとともに、大きな集落へと発展します。やがて、環壕を巡らせた集落が出現。これは、稲作で集落間に貧富の差が生じ、集落間で争うようになったものと考えられています。青銅器を造る道具も出土しています。

弥生中期(BC2~AD1世紀)、丘陵南部を大きく囲む環壕から、大規模なムラがあったことが分かります。ムラ内は、居住域と倉庫域に分かれ、丘陵北部には首長を葬る「墳丘墓」や甕棺の列状埋葬墓が作られます。このことから、ムラ間の争いが激しくなり、強大な首長のもとでムラからクニへと発展していく様子が窺われます。

弥生後期(AD1~AD3世紀)、集落は丘陵の北部へ拡大します。環壕は二重になり、物見櫓を備え、兵が守りを固め、祭祀を司る北内郭、王や支配層が住む南内郭を中心に、高床式倉庫群、庶民が住む集落に分かれていました。交易を行った市も推定され、クニとして最盛期を迎えたと考えられます。

平成元年、工業団地開発に伴う発掘調査で大規模な環壕集落と有柄銅剣・ガラス製管玉が出土し、遺跡として保存されることが決まりました。

現在は、国営吉野ヶ里歴史公園として、環壕・柵・逆茂木などの防衛施設、南内郭と北内郭の建物群、甕棺列状埋葬簿と北墳丘墓、市場の高床式倉庫群、南のムラの建物群を当時あった場所に復元。最盛期の弥生後期のクニを再現するほか、遺跡展示室と北墳丘墓の内部展示は必見です。

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2021/10/10

久留米・からくり儀右衛門

「からくり儀右衛門」こと田中久重(1799-1881)は、幕末から明治初期に活躍した発明家で、東芝の創業者です。

20211010久重は、寛政十一年、久留米の鼈甲細工師の家に生まれました。幼いころから探求心の塊で、9歳のとき「開かずの硯箱」を作り人々を驚かせました。

20代のころ、当時流行していた「からくり人形」に魅せられ、研究に没頭。近くの五穀神社の祭礼で、水からくりなど新しい仕掛けを次々に発表し、話題になりました。九州各地だけでなく、上方や江戸でも興行を行い、からくり興行師として全国的に有名だったようです。

江戸末期、質素倹約の世相になると、30代の久重は、からくり興行から実用品の製作に転じます。大坂に移り、真鍮製の「懐中燭台」や消えないランプ「無尽灯」などを考案。
のち京都で天文学と西洋技術を学び、51歳のときに最高傑作の万年時計「万年自鳴鐘」(国重文)を完成させています。

幕末、各藩は軍備増強に乗り出し、久重も佐賀藩や久留米藩に招かれ、50代半ば~60代を反射炉の建設やアームストロング砲の鋳造、蒸気船の開発などに費やしています。開国後は、西洋の文化に触れ、日本初の蒸気機関車の模型を試作して走らせるなど、探求心は少しも衰えていませんでした。

明治6年、73歳の久重は、新政府の要請で国産の電話機を開発するため上京。2年後、東京銀座に工場と店舗を開設し、のち芝浦に移って「田中製作所」となり、現在の「東芝」に発展しました。

JR久留米駅前には、久重のからくり太鼓時計を模したモニュメントがあり、定時に動き出します。久重が幼少期に遊んだ五穀神社には、銅像(上の写真)が建っています。

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2021/09/26

朝倉・堀川用水と揚水車

朝倉市・堀川用水の揚水車を訪ねました。

20210926【現地案内板の解説】
「当時、絶え間なく押し寄せる筑後川の洪水や、かんばつ、ききん等天災異変の中に幾多の犠牲と死闘を繰り返しつづけてきた祖先が新田開発のため、寛文三年(1663)筑後川から水を取り入れることにより堀川を造った。更に60年後の享保七年(1722)岩盤を切り貫き現在の取入口を新設したのである。しかし、山側の土地は位置が高いため、堀川の恩恵を受けることができなかった。そのためにこの地では自動回転式の水車が設置されたのである。三連水車は寛政元年(1789)に設置されており、三島・久重の二連水車も同じく宝暦のころに設置されたものと思われる。毎年6月中旬から10月中旬まで作動し、かんがい面積は、3基で35ヘクタールにも及ぶ。」

「朝倉の三連水車」を知ったのは、TVの全国各地のニュースでした。田に水を引く時期に組み立て、終わると解体するという報道内容だったと記憶しています。

ちょうど水車が動いている時期で、ちらほらと見学者が来ていました。田園風景の中、堀川用水の流れを受けて回る水車の動きを見ていると、心まで洗われるような気がしました(写真は、久重地区の二連水車)。

近くの道の駅「三連水車の里あさくら」は、満車で大混雑。人混みは避けたいので、立ち寄るのを諦めました。

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2021/09/23

八女・福島の灯篭人形

江戸中期から続く「からくり人形芝居」で、毎年9月秋分の日を含む3日間、八女市・福島八幡宮の放生会で奉納されます。

20210923もとは人形の燈籠を奉納していましたが、上方から人形浄瑠璃の技術が伝わり、現在のからくり人形芝居になりました。

期間中、三層二階建の巨大な芝居屋台が建てられ、舞台下に下遣い6人、1階の左右に横遣い各6人ずつ、2階に囃子方が入ります。
舞台では、拍子木とお囃子に合わせてからくり人形芝居が上演され、観客は旧福島城跡の石垣に腰かけて観覧します。千秋楽では、一~三層の障子を全て開け放って上演します。

かつては当番町が輪番制で演じましたが、現在は保存会が「吉野山狐忠信初音之鼓」「薩摩隼人国若丸厳島神社詣」「玉藻之前」「春景色筑紫潟名島詣」の4演目を毎年順番に公演しています(国重要無形民俗文化財)。

残念ながら令和3年の秋も感染症拡大予防のため中止となりましたが、八女民俗資料館に実物大の屋台(再現)と、からくり人形が展示されています。

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2021/09/13

佐賀・祐徳稲荷神社と萬子媛

祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)は、江戸中期に肥前鹿島藩主・鍋島直朝の夫人・萬子媛が創建し、日本三大稲荷の一つとされています。

20210913萬子媛は、後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好の娘です。
媛は、京都から肥前鹿島藩二万石の鍋島家に嫁ぐ際、花山院邸の稲荷大神から神鏡を授かり、皇室の永久と国家の安泰を祈るよう諭されたとされます。
媛は、2人の子を授かりましたが、いずれも早世。このこともあって、貞享四年(1687)、62歳の時、当地に庵を作り、自ら神仏に仕えて暮らしました。宝永二年(1705)、80歳の時、山腹に寿蔵(生前に作る自らの墓)を築き、断食して入定しています。

媛の諡名(祐徳院殿瑞顔実麟大姉)から、祐徳院と呼ばれ、御祭神の稲荷神とともに人々の信仰を集めました。明治の神仏分離で祐徳稲荷神社に改称して現在に至ります。

朱塗りに極彩色が施された楼門、神楽殿、拝殿と山腹の崖に懸造りで組み上げられた本殿があり、その絢爛さは「鎮西日光」と称されました。本殿の背後に萬媛命(萬子媛の神号)を祀った石壁社があり、さらに登ると千本鳥居を経て山上に命婦社が祀られています。

参道には土産物店が並び、昔ながらの生姜煎餅、筒状の稲荷ようかんなど、懐かしい味がうれしかったです。

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