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2024/01/17

太宰府・水城(みずき)跡

白村江の大敗(663)で朝鮮半島から撤退したヤマト政権は、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れ、筑紫に防衛のため大堤(664)と古代山城(大野城、基肄城)を築き、博多湾の筑紫大宰(外交拠点)を内陸に移しました。

20240113e_300日本書記に「筑紫に大堤を築き水を貯え、名付けて水城という」と記された大堤は、長さ1.2km、幅(基底部)80m×高さ10m、外濠は幅60m×深さ4m。

博多湾から内陸へ通じる平野の最も狭い部分を遮断して、海からの外敵に備えました。
朝鮮由来の版築土塁工法で亡命百済官人が技術指導。最優先の国家プロジェクトとして大量の労働力を投入し、1年程度で築いたと考えられています。

奈良期、水城の内側に大宰府が置かれます。外交・軍事・西海道の内政を掌る政庁と、平城京に次ぐ条坊制の大都市が整備され「西の都」と呼ばれました。水城は大宰府の「関所」となり、外国の賓客は、博多湾の鴻臚館(迎賓施設)から水城(西門)を通り、大宰府の羅生門から朱雀大路で政庁へ向かいました。

平安期、朝廷の支配が弱まり、源平~武家政権の誕生で大宰府は事実上消滅。水城も荒廃しましたが、鎌倉期、元寇「文永の役」(1274)では西国の武士団が水城まで後退して抗戦。元軍の進軍を阻止しています。

明治期、九州鉄道(JR鹿児島本線)建設でカットされた土塁の断面が、JR水城駅近くに残っています(上の写真)。以降は貴重な国特別史跡を壊さないよう、御笠川で土塁が切れた部分に国道3号、九州高速道、西鉄天神大牟田線が集中。東門跡には、ガイダンス施設「水城館」があります。

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